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「Arc アーク」日本でしか撮れない、日本でない風景

 引っ越し前日、引っ越し作業を放置して映画に行った。
 前に見た「るろうに剣心」の上映前特報で見たのが忘れられなかったので…

 石川慶監督作品、前に「蜜蜂と遠雷」を見に行って、ものすごく圧倒されて帰ってきた。途中からずっと泣いていて、何で泣いてるのか自分でもわからなかった。あらすじは、と言われると難しい。4人くらい天才が出てきて、天才が切磋琢磨する話。主人公が優勝しないコンペもの。作品の魅力を5ミリも伝えられてないクソ感想しか出てこなくて、でもどうかわかってほしい、この作品はこの上なくすばらしいのだと、力説したい気持ちを抱えながら言葉が追いつかなかった。何が良かったんだろうと思いながら(こう書くとなんだかノリが批判的で本意ではない)、とりあえずタイムラインで叫んだ。
 それから約2年。アークの公開を迎えた。主演はいま、飛ぶ鳥を落とす勢いの芳根京子。世間的には「ファーストラブ」の怪演が記憶に新しく、私にとっては「コントが始まる」の印象が鮮烈。思うにこの人の魅力は、どこのフィールドにおいてもどんな姿形をしていても、人の揺らぎに忠実な演技をすることだと思う。決めきらない演技。ぶれない演技の対極にある、人の持つ弱さや揺らぎをそのまま飾らず表に出す役者。その「わからなさ」がいい。見た人の数だけ答えがある深みのある演技。それが今作でも遺憾なく発揮されていた。

 主人公のリナは生まれたばかりの子を捨て、放浪の生活を続けていた。辣腕の女性経営者エマにその才覚を見出され、死体を保存する技術、プラスティネーションにのめり込んでいく。その後、エマの弟・天音に永遠の時を生きる処置を施され、老いない体を手に入れるが…

 SFの常套であるところの「死生観の問い直し」に邦画のヒューマンドラマを程よくブレンドしているので、邦画が嫌いな人には後半が苦痛かもしれないが、本当は世の中に「邦画が嫌いな人」などいないのである。なぜなら、邦画の描く人間たちの感情の機微や微細な表情の変化、話の山場の演習などは多分にヨーロッパの古典文学、またはフランス映画に見られるものと共通項が多いからだ。仮にフランス映画が好きで邦画は嫌いという人がいたら、その人がよほどの白人至上主義者でもない限りただの食わず嫌いであることが多いだろう。もちろんエンタメなので存分に食わず嫌いしてもらっていいのだけど。
 で、そういう存分に邦画らしい、しかしながら「日本」の伝統性を良い意味で排除した風景が大部分を占めるのは、日本で一番日本っぽくもあり、日本らしからぬ表情を見せる香川ロケハンならではだと思う。

 この記事を読んだ人が香川県にどんな印象を抱いているかはわからないけど、私はかつて隣県の岡山県に7年ほど居住しており、岡山県からしたら香川県は同郷とまでは行かなくとも勝手知ったる隣人であるという印象が拭えない。香川はいいところだ。とりわけ島嶼部の、臨海部の、どことなく浮世離れした空気が3年ごとの芸術祭の旅情を一層掻き立てている気がする。日本のエーゲ海とも呼称される小豆島近辺ではエーゲ海よろしくオリーブの栽培が盛んであり、内海のなだらかな波と相俟って地球上でも有数の穏やかな水平線を好きなだけ満喫することができる。孤島というほどではない、しかし明確な俗世との隔絶を映像として残した例は多く、古来から邦画のロケ地として数々の名作を生んできた。古くは「二十四の瞳」、近年であれば「八日目の蝉」。そしてこの「Arc アーク」。まさに香川でなければ撮れなかったし、後半のパートは香川だからこそ撮れたものが多いだろう。

 前半、会社として使われる建物は香川県庁である。これも行った人、前を通った人ならわかる。高松駅で自転車を借りて栗林公園に至るとき、わかりやすい大通りだからこの道を選ぶ人が多い。突き当たりにはうどんの名店、竹清さんがある。街中においては不思議と調和する建物が、近未来的な様相を伴って社屋として登場する演出に、香川を知るものはニヤリとしてしまう。この普遍的で都会的な、無機質で機械的な美術設定は、非常に無国籍的であり時代を問わない。前半部では特に舞踊が主要な存在感を占めるが故に、ドイツの伝説的舞踏家であるピナ・バウシュを彷彿とさせた。踊り続けるいのち。生前の姿を留めるかつてのいのちたちは、エマ(そしてリナ)によって永遠に踊り続ける。センセーショナルな主題の追求が芸術とよく調和し、奥にある普遍性、ユニバーサルな芸術性へとシンクロさせていた。このあたりはもしかすると、原作小説のもつSFらしさ、この世界のどこでもないここ、という表現が映像の中でうまくなされていた例かもしれない。日本の視聴者だけが、メタ的な香川県庁舎を楽しむことができる。でもこの映画がもし世界的に公開されるなら、これをきっかけに世界中の人には香川に来て欲しいと思う。

 後半はガラッと雰囲気を変えて、小豆島、淡路島(さりげない淡路島!!!)の穏やかな海がモノクロで映し出され、過去のようではるか未来の、未だ誰も知らない世界が展開される。誰よりも若く美しい見た目の89歳、無駄を全て刮ぎ落とした女性を演じる芳根京子の奥深さに圧倒されるし、その彼女が遠くを見つめる情景に合致するのが瀬戸の海で、なんとも言葉にし難い画面の強さがあった。伴侶亡き後、子を育てる決心をするまでに非常に長い時間が費やされることも描写される。かつて十代で子を産んだ悔恨の念が、この年まで生きてなお躊躇わせる、迷いを抱かせたことを言外に表象している。ここまで迷うのもやむを得ない。それだけ、生命の継承というのは彼女にとって重い。死ななくなった社会では、誰も子供を作らなくなる。下がり続ける出生率。これは実は現代の問題とパラレルな事柄だし、科学的に「死なない」が故の問題も多数生じるだろう。自ら長命種となった人間たちが、何に葛藤し、何を希求し、何に意味や価値を感じるのかは、残念ながら頑張って想像するしかない。漁火の漁船、古びた民家、漁村の小径などを舞台に、それらが映し出されるのも贅沢でよかった。リゾートホテルをそのまま利用した療養施設も、美しくかつどこか非現実的で、映像としての説得力があった。

 この映画は誤解を恐れずにいうなら、明確な答えを明示しない映画だった。何があった、というのを説明するのが難しい映画だ。カタルシスはない。多分、達成感もない。ただ人が生きて死んで、死んだ人と残った人がいて、残った人は何を選んで、という千差万別の回答が淡々と紹介される。それを「つまらない」とするか「奥深い」とするかは人それぞれだと思うが、ひたすら「人間」に関心を抱く私のような人間には非常に豊かで味わい深い映画だった。動物的な普遍性と、言語を介した社会性が人間を人間たらしめるなら、その前提のどちらかが狂った時にどう選択をするのか。SFはそうした「もしかしたら」の前提を無数に提示してくれるので面白い。不勉強ではあるが、さらに勉強して研鑽を積みたいジャンルでもある。
 最後、時を止めるのをやめたリナが、娘と孫に囲まれながら自分の選択を語るシーンで、最も若い孫娘(本来はこの世代!!!芳根京子、改めてすごい女優)が「どうして死んじゃうの」と無邪気に問いかけるが、我々はまだこの世代と同じで、この世代と同じ問いかけを持つ側だ。できることなら生きておいてほしい。でも、上の世代からしたら、もしかしたら違うのかもしれない。生きることはもっと自由で、生きることはもっと選択的でいいのかもしれない。
 そう思えるほどのことを満たすのに、しかしやはり人間の人生は短い。世界は広く、示唆に富んでいる。絶望に打ちひしがれて空を見上げた若き日のリナと、希望の全てを目の当たりにして満足とともに人生を終えんとするリナが、見上げた空と伸ばした手はとても似ているが、根底から異質なものであるように見えた。そしてこうして素敵な映画にだれかの人生を見てとるたびに、自分もちゃんと生きよう、頑張って生きようと確かに背を正されるような気になるのだった。

 ちなみに最初と最後の海のシーン、めちゃくちゃ綺麗ですけど、あの光の具合というのか天気の選び方というのか、どことなく緯度の高い夏の印象を受けるんですけど、映像撮った人が実際に緯度の高い夏を経験されていそうな方で大変納得したのだった。
 そして「蜜蜂と遠雷」でも撮影を担当された方だった。蜜蜂の幕間、演者たちで海辺に遊びに行くシーン、あのシーンだけで泣かされた経験がある身としては、やっぱりな…という感想を抱くしかなかった。今回も子供と遊んでるシーンだけで泣いたりしていた。情感を揺さぶる映像を撮る人とは相性があるらしい。監督脚本だけでなく、映像そのものを楽しむ視点。今後さらに勉強していきたいところです。

 まただらだらと長文を書いてしまいました。
 今日はこの辺で。またよろしくどうぞ。では。

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