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「新聞記者」から読み取ったこと

 もともと映画を見るのはスキなんだけど、映画を好きですと言ったところに付随して回る色々なものが相容れないので、映画が好きですと言うようになったのは結構最近のことらしい(そもそもこのアカウントも今年の3月に運用開始した)。何でもそうですが、趣味を通して自分を語ろうとすると必ずどこかで破綻するし、それで交流となると薄氷を履むような行為であると理解している。にもかかわらず、相変わらず誰かの何かに対する「好き」が溢れるツイッターに居座るのは、どこかでそうした「好き」が飛び交う熱っぽさを心地よく思うからで、実際推しのはなしをしているときは機嫌も体調も良い。酒量も増えた。ちょっと前までは毎日がとにかく楽しくなくて、うっすらと機嫌が悪く、機嫌の悪さは体調の悪さにもつながり、酒を飲むことすらできていなかった(食べることはできていた)。何より酒を飲むと文章が書けないので、書くなら飲まない、飲むなら書かないを律儀に実行していたところがある。
 振り返ってみれば一種、うつ状態のようなものだったのだろう。相変わらず元気ではあったけど、今の元気さを考えると全然だったなと思う。今が異常なのか(異常ではある)、あの頃が特別沈んでいたのかは判ずる手立てもないが、まあなんせ冬の気候もあいまって無為な時を過ごしてしまった。すぎてしまえば、と言うものの、いつ過ぎ去るのかもわからない地獄にいい加減うんざりしている。これはきっと私だけではないのだろうけど。

 鬱屈とした気持ちで批判的な映画を見る。タイトルは「新聞記者」。我らがトップコート俳優・松坂桃李くんの主演作であり、昨年の日本アカデミー賞を総なめにした名作であり、「ヤクザと家族」スタッフの先の代表作でもある。この映画に関して言えることは、なんせまあ、見る前からノイズの多い作品だったなあということだ。視界に入れないようにどれだけ努めようと、ワード検索するだけで勝手に賛否が大量に飛び交っていた。世の物事にはすべて賛否がつきものとはいえ、この過熱ぶりには正直面食らった。他の映画ではなかなか見ない。恐らく色んな人がいた。「半沢直樹ばりの痛快娯楽エンタメを期待してたら盛り上がりに欠けた」という人から「こんなもん反日だ」と怒る人、「実情が過ぎて笑えない」という人、涙が止まらなかったという人……人の感想ははっきり言ってどうでもいいけど、これだけ議論を呼ぶというのは映画としてはある種幸せなことかもしれない。私も細々と何某かを書いたり論じたりするなかで、投じたものが誰かに刺さった時の反応のパターンには覚えがある。みんな何かを言いたくなる。この映画にはそういう力がある。誰も彼もを評論家にし、立場や足場を浮き彫りにするだけの何かが。

 なのでこの映画に対する「評論」は難しい。イコール政治的発言になるからで、それは個人的な話をするとこのアカウントの運営方針に反する。日常生活の中ではともかく、置かれた立場を明示せずに政治的発言を繰り返すのは都合の良い壁打ちに過ぎないからだ(そして勤め人なので実名を出してインターネットで政治活動することもまたできない)。そしてこういう発言をしている人だからこの陣営に与して、与しなくて、というバイアスが副次的に発生するのも本当にしんどいし、そういうことでフォロワーが増えたり減ったり、というのもなんか根本的に違う気がするのだけど、それらをひっくるめて率直にいうなら、私は見て良かったと思う。
 たしかに寄せられている批判の通りエンタメとしては些か地味ではある。事件の真相を解き明かしていくカタルシスもなくはないが、何より特筆すべきは「正義が悪を倒さない」構造的な問題と、そりゃ倒せるはずがないんだからそうだろという体感である。この国の一般に流布する価値観として、大多数はテンプレだと前置きしつつも勧善懲悪が大好きだ。半沢直樹や鬼滅の刃が爆発的に流行る土壌で、この「新聞記者」のような落とし方はあまりにも王道から外れており、いわゆるスカッと感に欠ける。色調は常に抑えられた灰色がかっていて、薄く膜が張ったように杳として知れない。内調のオフィスとかね。あれはさすがにファンタジーが過ぎましたね。普通の役所なんで、もうちょっと「普通の役所」なんじゃないかな。

 ブラックボックスを体現したかのようなこの息苦しい画面に、唯一光明を探すとすれば吉岡記者の聖性のようなものだと思う。マイノリティという分類だけでは仕分けきれない、大凡大半の一般人が最も移入できない立場であろう彼女の、先鋭的なまでの光の力に途方もなく癒される。この癒しはいわゆるマスコット的な、女性を場において華やがせる系のそれではなくて、職務と私情の間で揺れながら引かない真の強さであったり、葛藤を表現するシムウンギョン氏の巧みな演技だったりが人を惹きこんでいるからにほかならない。色々批判もあるが、彼女の賞レースの受賞には異議を挟む余地がないし、到底はさめない。実際に上手かったし、「揺れ」が伝わってきた。国籍の違い、母国語の違いくらいでそうした感情は簡単に阻害されたりはしない。人間の示す反応、感情の動きはある種、一様なものであると思い知らされる。国内女優が誰も演じたがらなかったという触れ込みを聞いたりもしたけど(本当にそんなことがあるのか? とは思う……)事実はどうあれ素晴らしい役者の仕事を見た。それだけで収穫だと思う。

 松坂桃李くんの役に関しては、吉岡と逆に闇へとどんどん落ちていく、絶望を追う造形が痛々しかった。彼の溌剌とした印象、笑顔の清らかさの反面、絶望を突きつけられてそれを受け止める役回りのうまさは、「孤狼の血」「娼年」などで顕著だったし、「蜜蜂と遠雷」でも輝いていた(尤も、蜜蜂と遠雷では参加者の中でいちばん「その後の展望」を感じられるという意味で、絶望からは程遠かったけど)。最後のシーンの力ない唇の動き、あのシーンにこの映画の真髄が詰まっているので、そこに至るまでの1時間半ほどを見ている感じでした。

 国の陰謀と名付けると完全にブラックボックスで、そんなわかりやすい「わるいこと」しますかね? いい大人が? 世論焚き付けるために誇張してるだけじゃない? と言いたい自分と、じゃあ事実うまいこと行ってるのかこの国は、全然そんなことないだろという批判的な自分がいて、この映画が詳らかにしたいことと現実の問題は(見かけ上よく似ているけど)結局別の問題で、そういう意味ではフィクションで簡単に溜飲を下げてはいけないし、ちゃんと自分の頭で考えてダメだと思うことにはきっちり抗いなさいよ、自分で現実に抵抗しなよ、と言われている気がしました。正攻法ではないけど、強いて言うならメッセージとして。勿論それは簡単なことではないんだけど、やろうと思えば誰にだってできることではある。「反体制」が「反日」と呼ばれてしまう歪なこの国でそれはともすればリスキーな行為かもしれないが、先はあるし、これはもう受け取り方次第だと思います。国が好きで仕方ないが故の諫言を反国家と捉えるのは、前例のいくつかを考えると背筋が寒くなりますね。あんまり突っ込みたくないですが。

「週刊ヤクザと家族」で綾野さんが「藤井さんとは往年の黒澤、三船みたいな関係になりたい」と言ってたので、藤井監督の今後の作品にはそういう期待もしていいかな。それはそれで普通に楽しみです。時代ものとかどう? 大正とか昭和初期とか、全私が喜びますが……現代劇に拘ってる監督だからそれはないかな…

 世迷言を吐き散らかして終わります。
 ホムンクルス良かったです! またそれも書きます。
 またよろしくどうぞ、では。

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