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親愛なる読者へ(自己紹介②)

続き・・

 私の務めていた会社は所謂、孫会社と言われる会社で、親会社の、そのまた親会社は世界でも5本の指に入る材料メーカーであり、直接の親会社はその材料を加工し販売する中堅企業だ。 

 そして私の勤めていた会社はその原材料を使い、さらに付加価値を付け製造する会社であり、その製品は親会社のブランドで売られていた。
 私は受験を諦め帰郷した人間なので、最終学歴学は高校だ。私は受験に失敗し親兄弟にも申しわけない気持ちでいた。これ以上迷惑をかけるわけにはいかなかった。反面、期待を裏切ったことになる。それでも芸術の道を究めることもできたはずだ。が、私は逃げ込んだのだ。安易な選択をする人間だったのだ。その一方で妙なプライドがあり、「俺は芸術を目指していたのだ。」という気持ちが心の片隅にあった。芸術を目指した?それが何になるのだ。そのようなことは何の意味もないことである。現に私自身がそこから一目散に逃げだしているのである。変な話である。


 会社では中途採用の形であり作業者からの始まりである。しかし、当時は高度成長期でもあり設備投資も盛んに行われ、管理面での人材が不足していた。私の様な者でも気が付けば2年後には管理者になっていた。当時の管理職は親会社からの転勤組が占めていて、皆高学歴であった。しかし、彼らは現場というものを知らず管理職に就いてしまっているので、なかなかうまく現場を管理することはできなかった。そこで私の様な叩き上げの者が抜擢されたのだろう。気が付けば、あっという間に班長、係長、課長となり最終的には工場長に次ぐポストになっていた。その間、品質管理担当も経験し、工場の存亡にかかわるような品質問題も解決した事もある。別に自慢するわけではないが、底辺から這いあがってきた感はある。私の人生は芸術とは無縁であり、どちらかと言えば製造業のプロであったといった方が良いだろう。

 だが今はそんなことはすっかり忘れている。どうでも良いことなのだ。しかし、会社人生がすんなり終わると思っていたが、経営者が親会社の天下り組から自社出身経営者に変わった頃から、経営者は親会社のご機嫌取りばかり、管理職は管理者で経営者のご機嫌取りの会社に変貌していた。そんな中で、管理職ではあったが叩き上げの中途採用で言いたいことを言っていた私は、ご機嫌取りの周りの管理者からは邪魔者扱いされ、煙たがれる存在になっていた。57歳の頃であったか私は経営者の反感をかい現場作業員に降格された。これは辞めろという宣告と同じである。当然今まで管理をしていた人間が現場に降ろされれば、身体は動かない、仕事は遅い、若い現場作業者からは冷たい目で見られるので普通は耐えられないだろう。しかし、私は歯を食いしばって現場作業をする決心をした。
 たぶん、受験から逃げ、東京から逃げ、芸術から逃げ・・・「またお前は逃げるのか?」・・・会社勤めくらいは最後までやらねば、と思ったのだろう。結果的には、それでよかったと思う。良い精神のリハビリになった。
 現場というものを再認識出来た。作業者も初老の私に親切に仕事を教えてくれた。私は今でも覚えている。定年最後の日、私の仕事を引き継いだ女性作業者から「あなたの最後の仕事が私に仕事を教えることは光栄に思います。あなたの教え方は非常に優しくわかりやすかったです。」現場の作業者こそ「私は物を造っている。」と胸を張って言えるのだ。


 私は捨てられるように会社から掃きだされた。定年退職であるにもかかわらず、また管理者経験も長かったが送別会も開いてはもらえなかった。正直、さみしい気持ちはあったが、そんなことはどうでもいいことである。私は会社を辞め、兼業農家でもあったこともあり、いわゆる老後生活を農業で細々やっていこうと決心した。考えてみれば農閑期にこの様な本を書く時間を与えていただけたのは会社を辞めたおかげかもしれない。感謝している。もしかしたら私は30年以上の時間をかけ社会という大学を卒業したのかもしれない。4年制の大学より入るのは楽だったが、卒業までは苦しかった。


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