偉大なる大先輩 追悼野村克也さん その1

野村克也さんが亡くなって1年が経った。この大先輩を書く時にどういう風に書くのか悩んでいた。野村さんって書いても、何だかよくわからないし、ノムさんと書くのは恐れ多い。監督と書こうかとも思ったが、いつも監督だったという訳でもない。ということで、ふさわしいかどうかは別にして、大先輩のことを独断で御大と呼ばせていただくことにする。

私が御大のことを初めて知ったのは、小学校1年生の時に父親が買ってきたプロ野球選手の写真入りの名鑑だった。その頃はプロ野球選手がどんなものなのか、よくわかっていなかったが、その本の中にいる星の数ほどのプロ野球選手の中に、南海の監督兼任の野村が地元峰山高校出身であると聞く。

この名鑑の中に他には峰高出身の選手なんかいないのに、過去のタイトルホルダーを見るとパ・リーグには御大の名前がズラリと並ぶ。なんで、この人はこんなにスゴいのに、なんでこんな田舎出身なんだ?謎は深まるばかりだった。

テレビで御大を初めて見たのは、南海時代の晩年。南海がピンチになってマウンドに内野手が集まっても、御大はキャッチャーボックスで佇んだまま。監督だからマウンドには簡単には行けず、その哀愁漂う姿が御大の南海時代の唯一の記憶で、スターとして輝いていたとは想像もできなかった。

その後御大は移籍し、南海を離れ、引退するのだが、テレビで試合を見る機会もほとんどなかったので、その頃の記憶はない。次に御大で覚えているのが、昭和の終わり頃、テレビの解説者として、いわゆる「ノムラスコープ」を駆使していた時だった。

その解説で、クロマティのここら辺(インコース)に投げておけば、ファウルになるから、ここでカウント稼げばいい。御大の仰せの通り、クロマティが御大の予言通りインコースの球を立て続けにファールして、驚いたのを覚えている。

再び御大の姿を見るのは、ヤクルトの監督に就任された、1990年の開幕戦、東京ドームの巨人戦である。この試合、いわゆる篠塚の疑惑のホームランで追いつかれ、延長戦の末、ヤクルトは敗れていて、なんとも苦々しい思いをしたのを覚えている。

しかし、ヤクルトは御大の指導もあり、段々力をつけてくる。迎えた1992年、阪神との激しい優勝争いを繰り広げ、10月10日の甲子園での直接対決を制し、御大は宙を舞う。ここで連勝していれば、阪神の優勝もあったので、阪神ファンの私はとにかく複雑な気分だった。

その後、ヤクルトの監督として、9年の間に4度のリーグ優勝、3度の日本一、名将と呼ばれるにふさわしい足跡を残したのだが、監督退任の記者会見で「黄金時代をつくりたかった」とのコメントには仰天した。このように自らのことに謙虚な姿勢を貫くのが、丹後人なのだが、御大はそれが顕著だった。

「辞めるとは思わへんかったわ」

御大の退任記者会見の後、声を掛けてきたのは、その日の対戦相手、阪神の監督、吉田義男さんだった。吉田さんは御大の2つ年上、京都の府立高校出身というのは同じだが、その生い立ちは対照的である。山城高校から、立命館大学を1年で中退しプロ入り。1年目から阪神のスターとして大活躍。御大が南海に入団した頃は、吉田さんは別世界の人に思えていたに違いない。

しかし、運命とは不思議なもので、この直後、その吉田さんの後釜に御大が納まるとは、その時の二人には思いもよらなかったことだろう。

かくして、1999年野村阪神誕生。そんな中、これまた運命のいたずらか、御大が甲子園で公式戦を戦う前に、その甲子園で誰も想像していなかったことが起きるのである。

(つづく)

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