見出し画像

偉大なる大先輩 追悼野村克也さん その2

1998年の高校野球は、松坂大輔率いる横浜高校が春夏連覇を達成し、甲子園は大いに沸いた。そのシーズンオフ、西武に入団した松坂と、阪神の監督に就任した御大がプロ野球の話題の中心となった。そして、翌1999年1月、センバツ出場校発表。3期連続優勝を狙う横浜高校はもちろんだが、我が峰山高校も選ばれたのだ。プロ野球の話題の中心の二人の母校、名門横浜高校と地方の名も知られていない府立高校が、奇しくもこの年高校野球でも話題の中心となったのだ。

名将の母校であることはもちろんだが、京都府北部から春夏通じて初の甲子園の出場となったことから、関西のマスコミを中心に報道は過熱。野球の雑誌には野球部のナインが表紙を飾り、テレビのスポーツニュースでは、見慣れた母校のグラウンドは何度も映し出された。

そして、3月29日、峰山高校がセンバツ1回戦を戦う日を迎えた。甲子園一塁側アルプスに入ると、早朝峰山を出た大応援団が既に陣取っており、なんとか座ることができたのは、最上段の席。見渡せば知った顔があちらこちらにいる。後から報道で知ったことだが、この日は峰山の町はまるで廃墟のようで人通りはほとんどなかったらしい。

試合は延長12回の末、宮崎の日南学園に1-3で敗れはしたものの、7回の攻撃開始前にはライトスタンドの半分くらいから三塁側の内野席まで、ほぼ180度に渡り、スクールカラーである、エンジの丹後ちりめんのスカーフが打ち振られた。甲子園でそんな光景が見られたのは後にも先にもこの瞬間だけだった。ちなみにこの時、NHKの中継はニュースに切り替わり、この様子はテレビには映し出されていない。

この熱が伝わったのか、閉会式で峰山高校は最優秀応援賞を受賞。この異常なほどの盛り上がりを見て、その後希望枠、21世紀枠といった特別枠がセンバツの出場校が与えられるようになったのだと、私は勝手に思っている。いや、間違いなくそうだ。

1999年、ペナントレース開幕。御大率いる阪神は、序盤ほど健闘は見せたものの、さすがに名将の采配をもってしても、優勝争いからは早々に脱落してしまう。そんな中、夏の甲子園の京都府予選が始まると、峰高生は再びスポットライトを浴びることになる。

それまで、数字でしかわからなかった、母校の試合も、この年ばかりは毎試合スポーツ紙が詳細に報道し、我々はWEBでそれを見ることができた。しかし、健闘むなしく準決勝で福知山商(現福知山成美)に敗れ、甲子園には届かなかった。ただ、この盛り上がりで、ようやく野村克也という人が、峰山高校にいたんだなということを実感できたのである。

ペナントレース前に後輩たちの頑張りを見た御大だったが、ご存じの通り、阪神タイガースではいばらの道が待っていたのである。

(つづく)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?