偉大なる大先輩 追悼野村克也さん その3

ノムさんが来たんだからなんとかしてくれるだろう。

1999年、私も含め阪神ファンなら誰でも持った感情だろう。弱かったヤクルトを3年で優勝させたその手腕を持ってすれば、阪神の優勝はそう遠くない未来に来るものと思っていた。しかし結果はご存知の通り、在任3年は全て最下位。4年目の続投も決まっていたが、グラウンド外のスキャンダルで辞任を余儀なくされ、またもや失意のうちに大阪を去る。

しかし、よくよく考えると3年連続最下位を喫してしまっても、なお名将と呼ばれる監督が他にいるだろうか?多くは1度2度の最下位で監督の座を追われるのが普通であるのにだ。

当然ヤクルトの実績もあり続投もできたのだろうが、この3年間は阪神の選手の成長をファンが感じられたというのが一番大きかったのではないだろうか。ただ、その前があまりにも低すぎて、いくら選手がレベルアップしても、最下位を脱出できなかったというのが、実際のとこだろう。

そして、御大が阪神時代に手掛けた選手の中で一番の傑作といえば、色々意見はあろうが、私は現阪神監督の矢野輝弘(燿大)だと思っている。

矢野は中学校ではバスケットボールをやっていて、桜宮高校から野球を始めたという珍しい経歴の持ち主。野球で進学したくても、なかなか声がかからず、高校の先輩の誘いで東北福祉大学へ。大学で力をつけて1990年、中日ドラゴンズからドラフト2位で指名を受けるが、中日には1歳年上で高卒の中村武志が不動の正捕手として既に君臨しており、矢野の出番はなかなか回ってこなかった。

中日で7年を過ごした後、トレードで阪神に移籍する。失礼な話だが、私はその時矢野のことを全く知らなかった。阪神に移籍後も1歳年下の山田勝彦が正捕手としており、矢野の出番は多くなかった。そこに御大が阪神の監督に就任、御大は正捕手として矢野を抜擢した。最初は山田に奮起を促す意味合いがあるのかとも思ったが、御大は矢野を使い続け、山田はその後日本ハムにトレードされることになる。

野村時代はそこまで活躍できなかった矢野だが、かつての恩師、星野仙一が阪神の監督に就任してからは堰をきったように大活躍。投手のリードはともかく、得意とは言えなかった打撃面でも大きな成長を見せ、優勝した2003年には打率.321をマーク。この時矢野は34歳、プロ入り13年目のシーズン。こんな年齢で成績を一気に上げた選手は他にはいないし、持って生まれた才能ならば、もっと若くで開花するだろう。この飛躍は御大の指導に依るものであることは疑いの余地はない。

「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すは上」とは御大がよく言っていたことわざだが、御大は人を遺すということをファンに見せ続けてきた監督だったのではないだろうか。その結果として、矢野を筆頭に、中日与田、ヤクルト高津、西武辻、楽天石井、日本ハム栗山と12球団のうち半数の監督を野村の下で選手として過ごした選手が占めるまでになった。

監督というのは、チームを勝利に導くことが最も大事なことではあるが、御大はそれだけが監督の仕事ではないということを、密かに我々に教えてくれていたような気がする。

(つづく)


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