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【「さざめき」と「揺らぎ」と】〜莉緒〜

MonoeJun小説集。短編。
(約15000文字。読了見込時間は個人差考慮で15〜25分)

〜◆〜

「蛍の光」が店内に流れ出した。
閉店直前の処分価格の値札に付け替えられ群がる惣菜売り場を横目に、加藤莉緒はカップ麺の段ボールを高く積んだ運搬カートを押し、客と衝突しないよう用心深く通路を歩む。
莉緒のこの日のクローズ作業は、明朝の新聞に折り込まれるチラシ特価品の陳列だ。目当ての棚の前にたどり着くと、手際よく売れ残りの在庫を棚の前面に詰め寄せる。一日違いのロットの賞味期限に大きな差はないが、莉緒の徹底性分は先入先出管理の妥協を拒んだ。
開梱した箱から新しい在庫を並べてゆく手さばきも見事な速さである。あっという間に特価品を並べ終えるが、最後の客が退店するまではどうしても値札を変えられない。
以前はチンタラと動いていても残業代が付いていた物だが、今の会社方針は残業代削減、加えて時代風潮は「残業代 つかぬと言うなら 早よ帰れ」の追い風が吹いている。
まったく…。こちらは1円でも多く稼ぎたいというのに、1秒でも早く帰れという、なかなか願いと現実がマッチングしない事に日々、ジレンマを感じずにはいられなかった。

「加藤さん、お先に失礼します!お疲れ様でした〜」
高校生アルバイトが挨拶をしてきた。間も無くの閉店時間と同時に、家庭の用で早く上がるという。
「はぁい、ご苦労様〜。気をつけて帰るのよ〜」
高校生は愛想を振りまき、通りすがりの徘徊客を躱しながら立ち去って行った。莉緒は再び陳列する棚と向き合って、自分に喝を注入した。あとは閉店と同時に特価値札に速やかに変える様にするだけだ。
陳列順に手元の値札を並べ直し出す。仕事が速いかどうか、すべてはこの段取りだと自負している。

そこへ、たった今陳列したばかりのカップ麺棚へ手を伸ばす客がいた。スーツに身をまとう男はサラリーマンだろう。買い物カゴには惣菜やパン、納豆にペットボトルの飲料が詰め込まれている。
奥さんに仕事帰りに買物を頼まれたのか、それとも独身か。もしかすると単身赴任かもしれない。
人の生活などどうでもいい事と認識しながら、想像を巡らせ続ける自分に一人苦笑した。
こんな時いつも「あと数分後には値下げするのにな」と莉緒は思う。明日から値下げとなる物を、今から変更出来る権限も勿論ない。即ち、苛まれても仕方ない事だ。だがこのスーパーに足を運ぶ人間の数だけ苦労があり暮らしがある。それぞれに僅か50円の値引にやりくりする背景があるのだ…と、考えている時間が好きだった。それは店員と客の垣根を越えて、この社会を共生、共闘しているという独りよがりな思い込みに過ぎなかったが。

男が手に取ったカップ麺はまさに明日の特価品の商品だった。莉緒が今日の売れ残り在庫を前に詰め、基準より少し高く積み上げた列だった。手の当たった位置が力点的にまずかったのだろうか、通路にも一つこぼれ落ちてしまった。
男は拾う為に姿勢を屈めた。莉緒は詫びようと側へ歩み寄る。
「申し訳ございません。こちらで直しますので…」
落下したカップ麺を受け取ろうとしたその時だった。顔を見上げた男は莉緒を見て、そのまま時間が止まった様な表情を見せた。

「あれ…莉緒?…ちゃん…か?」

男がやがて口にした言葉は莉緒の名前だった。咄嗟の事に莉緒の思考は、風に吹かれ宙を彷徨う羽根の様な気でいる。
ようやく記憶を検索する余裕が出てきた莉緒は、その男の切れ長の目、それでいて笑い皺の深く刻まれた目尻、遠い昔に聞き覚えのある声に頭の中の古い扉を開いた。

「え…もしかして…琢己…さん?」

二十年以上も前に別れた恋人、望月琢己だった。ビジネスマンぽく整えた髪型は勿論、中年太りする事もなく着こなしたスーツ姿も莉緒の知る琢己とは違う。顔もそれなりに年輪を感じているが、面影は当時のままだ。
空白の時を経て、恋人同士だった二人が再会した瞬間だった。

BGMの「蛍の光」は相変わらず優しくそよぐ様に流れている。
二人は驚きと戸惑いを隠せずにただ、「え?え?な、何で?」「琢己さんこそどうして?」と狼狽えていたが、間も無く閉店のアナウンスが響くとお互いに我に返った。

「あ…清算に行かなきゃだね…。莉緒ちゃん、仕事は何時に上がりなの?」

「えっと…もうこの陳列が終われば帰れるんだけど…すぐに帰って家の事を色々やらなきゃならなくて…」

「そうか、主婦の時間ってやつだね…でもさ、少しくらい話出来ないかな?立ち話でいいからさ。俺、南側の入り口のすぐ前に車を停めてるんだ。その辺りに立って待ってるよ」

「じゃ…少しくらいなら…」

「オッケ、じゃ、積もる話はその時に!」

琢己は歓喜に似た陽気さを見せ、踵を返してレジへ向かって行った。莉緒はカップ麺を両手に包んだまま、その後ろ姿を見つめていた。

積もる話…積もる話とは何だろう?
閉店時間が過ぎ、莉緒は特価品の値札を換えながらボンヤリと考えていた。自分にたった今起きた動揺を静かに抑えようと努めている。
レジスタッフ達は閉店したにも関わらず、マイペースな買い物を続ける客に苛立ちを覚える時間だ。いつもの莉緒なら脇目も振らずに残務処理に集中していた。
琢己の出現はあまりの唐突さに驚きはした物の、今は冷静さを取り戻している。運命だ。そう言い聞かせた。

琢己と付き合っていたのは、もうかれこれ大学時代に東京で暮らしていた頃だ。別れてからの長い時間は、それぞれの道の上で積み上げてきた話は、互いの今には関係が無い筈ではないか。今更何を話せばいいのか。答えに窮する自問が襲ってくる。
急にこんなスーパーで働いている自分を見られ、気恥ずかしさも込み上げている。
そう、自分がこの街で家族と再スタートを切ってここまで来れたのは、自分の過去を知る者が誰もいない新しい土地だったからだ。
思いがけない出会い、まして莉緒の過去のすべてを知る琢己との再会は運命、そして脅威以外の何物でもない。

〜◆〜

駐車場では黒いプリウスの隣に琢己が立っているのが見えた。若い頃のキザな琢己には、こんな大衆車に乗るなど予想も出来なかった。向こうも莉緒の姿を確認した気配がある。莉緒は一歩一歩近づいていくにつれ、緊張を高めた。

「お疲れ様。本当に驚いたよ。まさかこんな茨城の片隅で莉緒に会うなんてさ」

琢己はいつかの様に呼び捨てに戻っていた。人懐っこい所は相変わらずだ。ただ心の中では、気安く呼ばれる不快感と懐かしく響く安堵感が複雑に共存していた。

「私もよ。驚いたなぁ…やだな。おばさんになったでしょ?」

「いや…相変わらず綺麗だよ。それに逞しさも身についた様だ」

「やめてよ。そりゃあ、変わるでしょう。いつまでもあの頃のままじゃない」

そうは答えるものの、人知れず莉緒の心は弾んでしまった。琢己に隠し通せたかどうかはわからないが。

「え?いつからここに?」
気付けば矢継ぎ早な質問は自分からだった。そうか、積もる話とはこういうものかと一人納得して。

「莉緒こそ。ずっとここに住んでたのかい?俺は仕事でこの春から来てるんだよ」

「ちょっと、人目もあるからさ…呼び捨てはやめてくれる?」

「そうか…ごめんよ、馴れ馴れしくする義理はないよな…驚きと懐かしさでつい取り乱したよ」

莉緒は少し言い過ぎたかと胸を痛める。しかし取り乱したというのは嘘だろうな、待っている時間を味方につけ、どうやって平静を装いながら呼び捨てで呼ぼうか考えていた筈である。昔から琢己はそういう男だ。

「私は結婚してからずぅっとこの街に住んでるよ。長男は春に大学を卒業して就職したけど、二つ下の次男がまだ大学生よ。
家計も火の車。それで私もこうして働いてるのよ。
琢己さんの仕事は?たしか…有名な証券会社に入ったじゃない?ほら、なんてったっけ?」

「ん〜…ほら、人生もこれだけ生きてりゃ色々あるさ。あそこはかれこれ十年程前に退社したよ。今は…保険を扱う傍ら、聞いた事ないかな?ファイナンシャル・プランナーってやつさ」

「へぇ、凄いじゃない。自分でやってるの?」

「いや、違うよ。俺の先輩が立ち上げた会社で拾ってもらって、それで今回、この日立の支所を任されるまでになったんだ。十年やってようやくさ。と言っても、先輩が日立の出身で水戸の高校に通ったから、人脈基盤に日立と水戸にしか支所がない小さな会社だけど」

「なんか…落ち着いたってゆーか…丸くなった?」
意外なまでに謙虚で紳士的に変わった元恋人に、莉緒はつい本音を漏らした。会わずにいた長い時間は、ここまで人を変えるのか。ならば変わった自分を見せても恐れる事は無いか。それは自分自身の警戒心の弛緩でもあった。

「そりゃあ…変わるだろう。いつまでもあの頃のままじゃない」

自分と同じ言葉を返された。優しく、どこか寂しげに声を落としながら。

二十年以上の時の砂が落ち切った砂時計。やがて「突然の再会」の熱がガラスの容器を融かし、サラサラと容器の外へ溢れる砂。それをときめきの風が強く吹き何処かへ運んだ。ガラス容器を支えてた二本の木枠だけがその場に残る。それが自分達だとそんな場面を空想した。
ときめきの感情。生活と仕事に追われる日々の中で、忘れた、失くした振りをしていたそれは本当は枯渇していたのかもしれない。ドラマの様な出来事に浮き立つ様な、陶酔する様な感覚に溺れかけている。

「ご家族は?」
社交辞令的な質問だ。しかしこれは、「お元気ですか?」のどうでもいい様な答えが返ってくる質問とは違う。本当に気になる質問だった。

「あぁ、何とか元気に暮らしてるよ」

そこじゃないだろう、知りたい事は、と莉緒は思う。いるのか、いないのか。いるならどんな奥さんで子供は何人で何歳で…。
明確な答えではなく、暗に込めた答えを返す所は昔のままだ。安心に似た気持ちもある事も莉緒は認めるしかなかった。

「いるのね。子供は?何人?何年生?」

「中学一年生と小学四年生だよ。上の子は丁度中学からのタイミングだったけど、下の子には転校を経験させてすまなかったな」

「そう。奥さんは?どんな人なの?」

「ははは、気になるかい?君には何と答えれば良いのか、答えに困るじゃないか。君なら同じ質問には何て答えるんだい?」

それもそうかと腑に落としながら、思いがけない素直な反応にも面食らう。
琢己の変わった所。変わらない所。

「私は…まぁ幸せよ。上はもう社会人、下は大学があと二年残ってるから、まだまだ私もこんなパートでも頑張らなきゃならないけどね…。ホントに、変な話ね。まさか自分の人生でこんな再会するとは思ってもみなかった。いざとなるとどんな話をすれば良いかわからないものね」

「俺もさ。本当にその通りだね」

二人は見つめ合って笑いがこぼれた。

「いけない、もう帰らなきゃ。お仕事頑張ってね」

夢見心地に過ごしたひと時を惜しみながら、現実に戻らねばならない。仕事モードと主婦モードを切り替えるだけの日常に、久しぶりに一人の「莉緒」モードが割り込んだ。

「あ…待ってくれよ」

車にもたれていた琢己が一歩、前に進んできた。一瞬、鼓動の震えが鼓膜の内壁を叩いた気分になった。
続く言葉を待つ間、莉緒の眼差しは琢己の瞳を貫く様だった。やがて口を開く琢己の緊張する姿は、初めての愛の告白をする少年の様に純粋に見えた。

「また…また会えるかい?その…どこかでお茶でも飲みながら今日の続きでも」

心の奥では待っていた言葉であったろう。それを琢己に先に言わせる事が出来て、胸の中に優越感とゆとりが沸いた。

「保険の勧誘は勘弁してよね」

琢己の得意な「明確な答えを避ける」手口で返し、振り向いて自分の車へ向かった。その背中を琢己の言葉は更に追ってくる。

「あ、待ってくれよ。連絡手段は!?」

「またこの位の時間に、買い物に来てちょうだい」

莉緒の中に『小さな計画』が芽生えた。その為に、これから段取りを練らねばならない。
「仕事の運びは段取りがすべて」莉緒は心の中で呟いた。

〜◆〜

夕食を済ませた食器を下げ、シンクで洗い物をしていた。夫の幸雄はリモコンを手持ち無沙汰に掌で回しながら、リビングのソファに寝転んでいる。テレビからはバラエティ番組の笑い声が軽やかに、そしていかにもチープに部屋を満たし蒸発していった。
ダイニングキッチン越しに見る、いつもと変わらぬ平凡。濡れた手を拭きながら、莉緒も幸雄を座り直させて隣に腰を下ろした。

「そうだ。そういえば翔吾が就活用のリクルートスーツを買わなきゃってラインが来てたぞ」

思い出した様に幸雄が報告した。

「そうね。そろそろ必要とは思ってたけど…安物のスーツだなんて見抜かれない良い物買ってあげなきゃ。出費、続くね」

長男の健吾に続き、次男の翔吾もいよいよ社会人デビューのカウントダウンだ。漏らした溜息は、我が子の成長を喜びよりも家計を圧迫する現実に対してのウェイトが多いのが本音だ。

ここまでの足跡を振り返る事も多くなっている。
長男・健吾の成人式、そして就職し社会へ飛び立った時。息子の人生の節目を繰り返してきたからだと思っていた。そんな時に胸を過ぎる事は、二人の息子が巣立った後、自分達夫婦はどう変わってゆくのだろうという不安だった。そう、不安の方が大きい。
長男の節目の時には「まだ次男がいる」そんな問題を先送りする様な思いが残されていた。今は「いよいよ」である。

幸雄が手にしていたリモコンを莉緒の横に置き立ち上がった。

「風呂に入る。チャンネル、観たいのに変えていいぞ」

そう言ってバスルームへ向かおうとした時だった。テーブルの上にあった莉緒のスマホがピコンとLINEの着信音を鳴らした。
画面には「望月琢己」の名前が表示されていた。鼓動がドクンと大きく胸を突き早鐘を鳴らした。リビングを去り際の幸雄が振り向いてスマホ画面を見下ろす。

「お前のが鳴ったのか?」

「そうよ。店の人ね。シフト交換の話かな?」

莉緒は平静を装ってスマホに手を伸ばした。尋ねられてもいない内容を答える辺りに、自分でも不自然だったかな、などと考えながら。

「そうか。大変だな、お前も」

そう言い残して幸雄はバスルームへ向かった。
ふと莉緒の中に焦りがさざめいた。シフト交換など、日頃の幸雄なら大変などと思っているだろうか?
もしかして、最近外で琢己と会っている事を夫は気付いているのではないか?
幸雄の言う「大変だな」は、嘘の弁解を取り繕う事に対する皮肉ではないのか?

考え過ぎだ。
そう自分に言い聞かせてメッセージを開いた。

「今、大丈夫?
明日、会えないかな?」

そうだ。こうして琢己は淡々と重ねるルーティンの隙間に割り込んできた。
琢己との再会後、もう何度か外で会っている。携帯番号も交わしLINEも繋がった。男女関係の一線は越えてはいない。だから「逢瀬」と呼ぶ程の事ではないのだ。それでも彼と会っている事は、誰にも打ち明ける訳にはいかない。『小さな計画』の為に。
自分を正当化する度に小さな矛盾と葛藤もさざめき出した。さざめきの日々が。

割り切っている。そう信じた。
新しい恋の予感という物ではない。ときめきでも無い。別れた男であり、一度生きた時代を取り戻そうとも、お互いの家庭を壊すつもりもけして無い。
ではこの関係は何か。
琢己と会っている時、子供達の事、夫の事、子供達の巣立った後の夫婦の事…解放されている自分がいる。
幸雄の知らない自分を知る琢己。琢己の知らない自分を知る幸雄。過去と現在の調和は保たれている筈だった。
恋に恋する乙女などではけしてない。私には過去の自分と決別する為に、もう少しこのままでいる必要がある。『小さな計画』の遂行の為に。

「いいよ。何時?どこで会う?」

返信した後は、眠れぬ夜が打ち寄せる。

〜◆〜

「思い切って聞くよ。俺と会ってる時ってどんな事を考えてるのさ」

琢己の問いは不意だった。ある意味ではごく自然に思える。

路地裏の鄙びた喫茶店で二人はいつも会っていた。今時のカフェやファミレスでは、誰の目に付きいらぬ噂を立てられるかもわからない。莉緒の用意周到な性格は、パート仲間のよく行く店などをリサーチし、誰も足を運ばぬ様なこの店を選んだ。
琢己は仕事の合間に、莉緒はスーパーへ出かける前にこの時間を作って来ている。「この関係」は莉緒の過去同様、ご多分に漏れず続けなくてはいけない。
お互いに相手の立場を気遣ってのつもりでいるが、かえってその事が二人だけの世界に浸っている様にも思える。店へ入る時、二人は間違いなく秘密の扉を開けていた。

「う〜ん…なんだろ?琢己さんはどうなの?」

会っている時、何を考えているか?「この関係」は何なのか。琢己の問いの本質はそこだ。
自分ではわかっているが、本当の事は言えない。過去の自分と透明な会話はずっと続いていた。

スーパーでの再会後、初めて二人でこの店で会った時に遡る。
お互いに別れてからの身の上話は十分に語り尽くした。とはいえ、話したがるのはいつも琢己の方だが。
琢己の父親はその昔、事業で成功を収め琢己自身も学生時代は派手な豪遊ぶりを見せていた。いい服や時計に身を包み、学生にしてはいいマンションで一人暮らし。誰もが羨む様なポルシェを乗り回していた。莉緒と付き合っていたのもその頃までだ。互いにそこからの生活は知らない。
再会してまず二人はその空白を埋める事が最初の共同作業だった。

琢己は大学を卒業後に証券会社へ入社する物の、程なくバブル経済は崩壊。経営に破綻した父親はその折に自ら命を絶つという道を選んだと知る。莉緒の胸の中を、小さな針がチクリと突いた。
バブルという魔物は、琢己自身もそうだったと告白する。男はどうもこの手の苦労話を語りたくて仕方がないらしい。

後に意識を変え、必死に勉強も仕事にも打ち込んだと言う。元来、根性はあったのだろう。幾度の危機を乗り越え課長にまで昇進したが、リーマンショックではついに挫折した。退職後、畑違いな保険の業界で拾われ現在に至ると言う。
琢己が美談の様に話せば話す程、今は何故こんな地方の小さな町でこんな仕事をしているのか、弁解したがってるとしか莉緒には思えない。

「琢己さんも苦労してきたのね。道理でハイブリッドの車に乗って、安いカップ麺を買う訳だな」

一通り聴き終えた時、莉緒はそう答えた。フォローも加える事も忘れなかった。

「皮肉じゃないからね。人は変わるものねと賛辞を込めてよ」

「そりゃね。いつまでもあの頃のままじゃない」

「そうよね…」

琢己の弱い言葉に、莉緒も短く返し、頷くしかなかった。
莉緒の足跡には、取り立てて聞かせる様な美談はない。
幸雄と結婚し、夫が日立の工場長として赴任。そのままここに根を張る事に決め、海の見えるマンションを購入。二人の子供を授かり、後はひたすら家庭の為、子供の為と平凡ながらも幸せにいたよと打ち明けた。

その後二人は何度、この喫茶店で会ってきた事だろう。琢己がこの問いに到達した事は莉緒の心が鏡に映ったも同じだ。

「君と会っている時、何を考えているか…か。わからないんだ」

「何それ?答えになってないじゃない。人に聞いておいて、それはずるいよ」

一笑に伏した。

「いや、そうじゃない。わからないというのは、今の俺たちの関係を何と説明すればいいのかって事さ。
もちろん元恋人という言葉では片づけられる。例えばこうして会っている所を人に見られて、『二人はどういうご関係?』ってきかれてそう答えられるか?って事さ。元恋人で、現ナニナニは何て呼べばいいのかなってね」

「そういえば…昔、二人で観た映画を思い出した。男女の間に友情は成立するか?ってゆうテーマのやつよ。タイトルは…何て言ったかなぁ…可愛らしい女優さんが主演の…」

「『恋人たちの予感』だよ。女優はメグ・ライアン」

琢己は即答した。今も相変わらず映画オタクなのか、単純に記憶力がいいのか。

「よく覚えてるね。内容はうっすらとしか覚えてないけど。あの頃も二人で議論してたね。まさにあの時のテーマが今の私達よ。別れてから親友…って通用するかしらね」

「まして仕事の同志でもないしね。隠れて会ってる自覚はある。かと言って不倫にはならないだろ?寝たわけじゃないからね」

「昔は寝てたけどね」

それが問題だ。冗談で言ったつもりが、空気の流れは変わった。
琢己は何も言わず、視線だけが莉緒の瞳孔をレーザー照射の様に射抜いている。
莉緒は沈黙の中、場繋ぎの様にスマホのカメラレンズを二つ並べたアイスコーヒーのグラスに向けた。

「インスタでもやってるのか?」

「インスタ映えってやつ?女子は何歳になってもこういうの好きよね」

「それより本題。今の俺達…寝てない事が問題とは思わないか」

琢己に誘惑の言霊を吐かせる事が出来た。女の莉緒からそれを言う訳にはいかない。『撒き餌に喰らいついた』心からそう思った。
続いて、琢己の本心を更に引き出す仕上げに取り掛かる。

「何それ?今更、私と寝たいの?こんなオバさんになった私と」

「いや、君は今も十分魅力的だよ。若い頃より益々いい女になっている」

「奥さんがいるじゃない」

「恥ずかしい話だが、妻とはそういう事はもう何年もない。でも誤解しないでくれ。だからと言って、単に欲望の目で見ている訳じゃない」

「私の中の女はもう眠ってるよ。一人の妻であり母親。あ、スーパーのパートのおばさんって一面もあるね」

「それじゃ尚の事、もう一度女を取り戻してみないか?体の深い所では俺を覚えてる筈だろ?思い出してみたいとは思わないかい?」

「馬鹿な事ばかり言ってないで。さ、そろそろ琢己さんも仕事に戻らなきゃいけないでしょ?私もシフトに入らなきゃ」

「いや、莉緒との時間は惜しまないよ。それどころか…もう一つ提案があるんだ。
今のスーパーは辞めて、ウチの営業所で事務員として働かないか?今のパートよりは稼げるぜ。それに…堂々と会っていけるんじゃないか」

莉緒は黙ったまま話を聞いていた。呆れる位にシナリオ通り、いやそれ以上に事が運んでゆく。

「仕事は俺が手取り足取り教えてゆくよ。会社の飲み会とか、社員旅行と言えば莉緒が自由な時間も増えるんじゃないか」

「いつまでもあの頃のままじゃない…」

そう言って莉緒は手にしていたスマホをバッグへしまい込み、立ち上がった。

「おい、気分悪くしたのか?まだコーヒー残ってるぜ」

「ごめん。今日はもう行かなきゃならないの。別に気分悪くした訳ではないよ」

「考えてくれよ。それと…わかってて欲しい。今の君に対する俺の思いも」

「うん。わかってる…あ、今日は私が払っておくね」

「いいよ、俺も出るから」

「別々に出た方がいいのよ。そういうとこ、神経質でしょ、私」

「そうか…来週は月曜日にでも…また会えるかな?」

「月曜ね。午前11時にシーサイドロードのパーキングに来れる?」

「珍しいな。外で待ち合わせを莉緒から指定して来るなんて」

「海が見たい気分なのよ」

「オッケーだ。いい返事を期待しているよ」

「返事はその時。じゃ、またね」

莉緒は精算書を持って席を離れた。

琢己と交際していた頃の思い出は、二人でディズニーランドへ行ったり、箱根や鎌倉、八ヶ岳とドライブに出かけたり、食事や映画、ライブに出かけたりと、楽しかった思い出は幾つも湧いてくる。
しかし一番脳裏に蘇ってくる記憶は、二人で何度も体を重ねた夜だ。あの頃は当たり前の様に琢己の部屋で、当たり前の様にベッドに潜っていた。琢己が「あの頃」に戻りたいと思う気持ちも、本能では分かり合えているのかもしれない。
そして次に思い出す記憶は…別れの場面だった。

琢己は今も莉緒の背中を見つめているだろう。この立ち去り方は果たして「いい女」を演じられているだろうか。
そしてこれから…自分はどこまで悪女になり切れるのか。

〜◆〜

晴れていた。清々しい爽風が莉緒の髪を滑り、吹き抜けてゆく。
海岸の岩に打ち付ける波音が、さざめく心の中で反響し合い続けている。引いては繰り返し、引いては繰り返す。やがて肺腑に至るまで、緩やかな揺らぎを感じさせる。

揺らいでいる。
琢己と結ばれていた夜を、水平線の彼方に、まるで霞んだモノクロ映画を観るかの様に見ていた。

我に返ったのは、莉緒が停めた軽自動車の横に静かな排気音で、黒いプリウスが視界に浸入してきた時だった。
琢己は車から降りてきて、立ち尽くす莉緒の隣に並ぶ。背徳と情念の激流が、二人を中心に渦を巻き出す。この歳でこんな悪女の気分になるとは…思ってもいなかった。

「いい場所だな、ここは」

「でしょ?日立に来て、私の一番のお気に入りの場所なの」

「それにしても本当に珍しいな。いつもは人目を避けて会うくせに。君もまさか恋人みたいな気分に浸りたくてここを選んだのか?」

琢己は冗談混じりに言った。

「まさか。そんなのじゃないよ。でも…感傷的な気分になりたいなら、ここは丁度いい場所なのかも。琢己さんと会うのに今日くらいはいいかなってね、思ったの」

莉緒は冷静で、この上ない程柔らかなトーンでゆっくりと話した。

「ねぇ、覚えてる?あなたが私を捨てた時の事。私を捨てた理由」

「…思い出させないでくれ。俺も若かったし、お互い傷つけ合ったんだ。莉緒だって思い出したくないんじゃないか?」

昔の傷を忘れようとしてたのは、琢己も同じだったのかもしれない。その思い出を互いに避けていた事はわかっていた筈だった。
琢己はその傷すらも、会わなかった二十数年の歳月が溶かし切り、十分に水に流されたとでも信じたかったのだろう。琢己が数々の困難や苦労を乗り越えて、人間的に成長しただろうとアピールしてき続けた事で、莉緒は見抜いている。
滑稽だ。

「ある女の子の話があるの。聞いてくれる?」

「ああ、いいよ」

「その子はね、群馬の田舎から進学で上京したの。東京に対する憧れは強かったし、実際に日本中のあちこちから集まった人との新しい出会いにワクワクしてたんだって」

「何だよ、莉緒と同郷の後輩か?」

「固有名詞は秘密。茶化さないで最後まで聞いてね」

「わかったよ。で?その子がどうしたのさ?」

「やがて恋に落ちた。都会生まれ都会育ちのお金持ちな男の子。いい服着ていい物も沢山持ってて、ポルシェ乗りながら周りには同じ様にセレブなお友達に囲まれてた。凄くモテる子で、最初は憧れてるだけ、遠巻きに見ているだけだったって」

琢己は笑いをこらえた。

「何だ。君自身の話か?ついには俺の登場疑惑だな」

潮風が強く吹き抜けた。莉緒は乱れた髪を抑えて琢己を睨みつけた。

「オッケオッケ。最後までちゃんと聞くよ。でもさ、この風の強さだ。思い出話の続きはどこか、二人だけになれる場所へ移らないか?
な?わかるだろ?」

意味はわかった。分かったが、今だけは引く訳にはいかない。節操も無い男だ。

「お願い。最後まで聞いて。聞いてくれてからでもいいでしょ?移動するのは」

琢己は溜息を一つこぼしながら承諾した。面倒な女だな。表情とはよく言ったものである。そう思ってるであろう琢己の感情はその顔に表れている。

「わかったよ」

観念した様に、琢己は言った。

「その女の子はね、何とかその彼の目を引きたくて、精一杯の背伸びをしてたそうよ。お化粧して、ファッションも垢抜け心がけて。
彼の好きな音楽、映画、その他色んな事も勉強した。
ようやく、共通の友人の紹介を経て彼と近付けたの。グループで何度か遊んでいる内に二人だけでも会う様になり…そしてね、正式にお付き合いする事になったんだって。
鼻が高かったそうよ。そりゃね…なんせポルシェだものね。お父さんが事業で成功してた人だったからね、親の七光りと陰口もあったし、モテ期なその人も絶えず浮気の噂と心配はしてたようね。
でも彼女はやっと掴んだ王子様に捨てられない様にと必死だったみたい」

あれ程戯けていた琢己も、話に引き込まれ出した様だ。左手は右肘を、右手は顎をつまむ。興味を向けるポーズは変わっていない。

「洋服やアクセサリー、高級なバッグも沢山贈られてたみたい。とにかく彼女は有頂天になってたって。
でもね、彼女はずっと気が気でなかった。彼の本命の彼女ではあっても、本命ではない彼女も多かったしね。彼の浮気癖までは直せなかった。
彼の取り巻きの友達もみんな、美男美女にお金持ち…比べて自分は田舎のごく中流サラリーマン家庭に生まれてきたコンプレックスもあったようね。
背伸びに背伸びして、贈り物でなくてもいい物持ってるでしょ?と見栄を張る為に、夜のアルバイトに手を出したんだって。
今風に言えばキャバクラ嬢かな。そこそこの階層のお客さんが来るような銀座のお店」

琢己に一瞬、呆然とする表情が浮かんだ。

「その子は自分でもまぁ容姿も顔も、そこそこに男性受けする自信はあったようね。女子大生という身分は隠してたけど、本職のホステスさん達の中間に混じる位の人気者にはなったらしいよ。まぁ、女子大生ってのはバレてたろうけど。

水商売って一言に馬鹿には出来ない。顧客管理、顧客満足度なんて言うさ、今でこそありふれた事もとても勉強になったと言うし、何より人間観察でいい経験だったと言ってたよ。銀座って土地柄さ、社長さんクラスから時には著名人も顔を出す事はあったみたいだし。
田舎者の女の子は、人間なんて所詮皆同じなんてね、悟ったみたい」

「知らなかった…」

「当然でしょ?琢己さんの知らないある女の子の話よ。
その女の子もね、誰にも…勿論彼氏にも知られたくなくて、本当に心の許せる親友にしか話した事もなかったみたいだけどね。
そしてね、ある日、その子をあるお客さんが指名してきたの。誰だったと思う?」

「想像出来ないな」

琢己は短く返した。早く続きを聞かせてくれと言わんばかりだ。初めて聞く話にすっかり真剣モードになっている。ご静聴に感謝の極み、そう考えながら、莉緒も短くアンサーを返した。

「その彼氏のお父さん」

〜◆〜

琢己の目の色が変わる瞬間を、莉緒は見逃さなかった。
「え?…え?…」と琢己は驚きと困惑で狼狽えている。

「いい?続きを話しても?」

「あ…ああ」

「その女の子はね、お父さんと会うのはその時が初めて。向こうは自分を知らない筈だけど、お父さんは何かのビジネス雑誌に出てるのを読んだ事があったみたいでね、彼女の方はお父さんの事を知ってたの。
『うわぁ、気まずいな〜』と思いながら席に付いたらね、お父さんは突然こう言ったんだって。
『息子とお付き合いしてるみたいだね、お世話になってます』
そんな事、突然言われたら心臓バクバクもんよね」

「き…君の店に、ウチの親父が行ってたって?」

「ちょっと。ある女の子の話だってば。なんで私だって決めつけるのよ。もうココからは黙って聞いてて」

琢己は頷くしかなかった。焦りも感じられた。
わかっているのだ。何度も母親を泣かせてきた父親の性格を。ビジネスも恋も手段を選ばぬ傲慢な鬼畜ぶりを。その上で気になって仕方がないのだ。話の展開が自分の予想を裏切るのか否なのか。

「お父さんはこう言ったそうです。息子はゆくゆく君と結婚したいと言っているよと。
それを聞いて彼女は内心喜んだみたいよ。彼と二人でいる時、彼はそんな話した事ないからね。
『え!本当ですか!?』とはしゃぐもすぐ、そのアルバイトを恥ずかしさと申し訳なさで居たたまれなくなったって。

でもお父さんはウィスキーをチビチビと飲みながら言うの。案の定よ。『なんでこんな仕事を?』と。
『息子が結婚しようとしている娘さんだ。我が家ではどんな方か調査するのは当たり前なんだ。悪く思わないでくれ』なんて事も言ってたって。
正直に打ち明けたみたい。お金が欲しい、それで彼に似合う女性になりたい、と。

お父さんにはこう言われたらしいよ。
こんな仕事しててはウチには相応しくない。お金が欲しかったら、私を頼りなさい。そしてこのアルバイトの事も息子には黙っててやる。
その代わり、わかるね?私もビジネスマンだ、ボランティアではない。何の対価を求めているのかは、わかっているね?

…みたいな事をね。
それからね、その女の子の奇妙な親子二重恋愛が始まったのは。恋愛…その言い方は正確ではないか。息子とは恋愛、その父親とは愛人契約…

その時にね、お父さんとこんな話をしたんだって。よくバレませんね、ってその子が尋ねたら…
『何事も段取りがすべてさ』
って」

琢己の顔面は蒼白になっていた。微動だに出来ず立ち尽くしている。

「女の子は最初は罪悪感とバレた時の恐怖で過ごしていたらしいよ。でも、人間の慣れって怖いよね。いつしか自分も平気で父親と息子と自分を切り替えが出来る様になっていったの。
父親とのベッドも素晴らしかったって赤裸々に語ってた。『あいつはまだ若いからガッつくだけだろ?』なんて言ってたらしいよ」

「もう…やめてくれ…」

琢己は力無く言った。

「いや、まだよ。最後まで聞いてくれるって言ったじゃない。
その子は父親の関係する会社へも入社し、息子とも結婚し、それからもその二重の顔を持って生きてくんだと信じて疑わなかったみたいなの。
でも…ある日、その父親に友人と会って欲しいとね、頼まれてどこかへ連れて行かれたの。その父親の車でね。
場所がどこだったのかはわからない。都内某所ってやつね。あるマンションの一室で…扉を開けると友人というのは三人居たんだって。
その子は抵抗したけど無駄だった。次から次へと…その一部始終は撮影され、ビデオは望まない場所で売買され…」

「もう…やめてくれ」

しかし莉緒はやめなかった。

「後はどんな結末か、想像つくでしょう?
その子は彼にもそのビデオの存在がバレたの。
彼はキャンパスで他の女の子の肩を抱いて、彼女の前を通り過ぎたんだって。その子が『ねぇ、貴方を見てるよ、彼女?誰か知ってる人?』と言ったら、彼は『さぁな。ピエロだろ』とポツリと言ったみたい」

「頼むよ…やめてくれよ」

「まだあるわ」

「やめてくれ!」

琢己は声と荒ぶる感情の限り、叫んだ様だった。しかし激しく岩を波打つ音響に掻き消され、莉緒の耳に虚しさしか届かない。
崩れそうな男。それを冷静沈着に見つめている莉緒がいる。波音と潮風…この地の大自然を味方に付けた気分があった。そのスケールと彼の叫びの対比の様に。

「その女の子とね、親の七光りの派手な彼氏はキャンパスという閉ざされた社会の中では別れた事になったって。でもね、正式にピリオドの言葉はなかったのよ。せいぜい、ピエロって言う哀れな言葉くらいなのかな。

真実はどちらがピエロだったんだろ?或いはどちらともかもね。

その女の子はそれから結婚を機に逃げる様に東京を離れて、昔の事は忘れて生きてゆく道を選んだ。
だけど運命はちゃんとピリオドを打つ様に仕向けられてるみたい」

荒ぶる風の中、琢己は鬼の形相を見せていた。
そんな元恋人に、莉緒は最後の審判を下さねばならない。
ポケットからスマホを取り出す。画面を手早くタップし、ボイスレコーダーに録音されていた音声を再生した。

「それより本題。今の俺達…寝てない事が問題とは思わないか?」

スマホから、覚えのある会話が流れた。

「な…なんだよ。あの時の会話か?いつ録ったんだ!?」

「え…?いつって…最初からスマホ出して録ってたじゃない」

「だってあれはインスタだって…」

「あら。私、インスタやってるだなんて、一言でも言ったかな?たしか…今時の女子はみんな好きねとか何とか…そんな事は話した記憶ある。でも私、インスタはやってないよ」

「それ録ってどうするんだ?どういうつもりだ!?」

「琢己さん…
私ね、色々と貴方の事、調べたんだ…あらゆるコネ使ったよ。
最初の証券会社、リーマンショックの煽りで辞めたなんて嘘でしょ?本当は部下へのセクハラ疑惑。
茨城出身の先輩が保険代理店の会社やってて拾われた所まではホント。日立支所へ来たのも実は女性のお客さんと何か問題起こしたりしなかった?貴方のプライドが左遷って言葉を隠したのね

ねぇ、お願い。今日で会うのは終わりにしたいの。スーパーで買い物する事くらいはあるでしょう。そこで私を見かけても素通りして。約束して。約束を守ってくれないなら、この録音は琢己さんの先輩へ渡すから。

私がさっきの女の子の為にピリオドを打たないとならなかったのよ。『あの頃の莉緒』という女の子の為にね」

表情。表情とはよく言ったものである。
琢己が今どう思っているのか、感情が現れた顔を見れば言葉は無くても手に取る様にわかる。

「貴方はお父さまの血はちゃんと引き継いでたみたいね。女好きの血が。
でもね…私は貴方のお父さんに大切な事を教わった。
何事もね、何事も段取りがすべて。そして私は…」

莉緒の『小さな計画』は果たされた。
スマホのボイスレコーダーからは会話の続きが流れ続けている。その中の録音された莉緒の声が、この言葉の続きを繋いだ。

「いつまでもあの頃のままじゃない…」

〜◆〜

「ただいま〜」

莉緒が部屋に帰ると既に幸雄が帰宅していた。
テーブルの上にはデリバリーの寿司や刺身、缶ビールが並んでいる。

「あら!珍しい!どうしたの!?どういう虫の報せ?貴方が買ってきたの!?」

するとリビングの物陰から次男の翔吾が姿を現した。

「母さん!」

「翔吾!あんた帰ってきてたの!?」

「就活用のスーツを、オーダーで作ってやるって父さんが。これから内定決まるまではなかなか帰省も出来ないだろうしさ。今の内に、一度帰っておこうかなって」

「あらまぁ、元気そうで!貴方知ってたら何で教えてくれなかったの?それにまるでコレは内定決まったかの様なお祭りじゃない!」

興奮する妻に幸雄は優しい笑顔を向けて言った。

「お帰り。色んな意味でだよ。今日の祝いはお前だ」

莉緒は怪訝な顔を夫にしてみせた。

「色んな意味?翔吾じゃなくて?」

「内定の祝いは本当に決まった時に健吾も呼んで家族四人でやろう。今日は過去から解放されたお前の祝いだ」

「え?父さん、母さんに何かあったのかい?」

戦慄の一言に莉緒は驚きはしなかった。その代わりに、涙が一筋、流れ落ちてゆく。
だがそれは、夫の寛容さへなのか、夫への畏怖なのか。

「お帰り。莉緒」

「何の事かサッパリわかんないけど、お帰り、母さん」

〜完〜

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