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【右手の彼方に】〜奏絵〜

MonoeJun 小説集。短編。
(約9200文字:読了見込時間 個人差考慮で10〜20分)

〜◆〜

「僕はもう 君には ついてゆけない
サヨナラ」

部屋に明かりを灯すと、テーブルの上の書き置きに気が付いた。
罫線も何もない白紙に一息で読める短い文章。俯いたまま落とした視線だけを上げ、部屋を見渡す。徹の気配はどこにもない。

徹が去った。
広い文字間と行間には熱くも冷たくもない、無機質な温度が漂っている。黒インクはやがて山水墨絵の滲んだ霧となり、広すぎる余白は奏絵の心を白く侵食する。

もしいつか、こんな時が訪れるとするならきっと…涙は止めどなく溢れ、制御の効かない嗚咽に身を任せるんだろう…そう思っていた。
涙は流れていない。代わりに一つ、小さなため息が漏れる。まるで飲み残して気抜けした炭酸飲料の、ボトルキャップを開栓したよな軽さだった。
奏絵は己の感情を分析した。動揺はない。悲しいのか、悲しくないのか。それすらもわからない。

奏絵、24歳。職業、バスガイド。
共に暮らす恋人は会社から名古屋への異動を命じられ、それを機にプロポーズされる。仕事を辞めて付いてきて欲しい。徹はそう告げた。
バスガイドは一度ツアーに出ると一泊、二泊も珍しくない。結婚してはなかなか続けられない仕事だ。元来、アクティブに動く事の好きな奏絵はこの仕事に使命すら感じている。

天職とさえ感じた。

「なかなか週末の休日が合わない」
「遠くのツアー先で、仕事仲間や旅行客達…仕事とはいえ他の男性と過ごしている」
当初、奏絵の職業については承諾を得た上で付き合い出した二人だったが、時間の経過と共に徹は奏絵がバスガイドを辞める事を望むようになっていた。
「辞めたくないの」
口論の日々が続いた。
何故、女だけが愛か仕事かの選択を迫られねばならないのか。確かな答えを延ばしている自覚はあったが、徹は十分に確かな答えを出していたのだろう。

〜◆〜

一度だけ週末に休日を合わせ、二人はドライブへ出かけた事がある。
晩夏、晴れ渡る日だった。とはいえコンクリートが照り返す光には熱と湿気をまだ帯びている。二人を乗せた車はそんな都内を脱出し、一路伊豆の下田へと向かった。
西湘バイパスでは爽やかな浜風を受けながら太平洋を真横に。小田原からは緑のトンネルを潜り、パノラマな太平洋を俯瞰する様に。
奏絵には仕事で何度か通っているはずの道だ。だが徹と走っているその新鮮さは正に命の洗濯だ。

海水浴客もいなくなった下田の白浜に着くと、徹は海外のリゾート地に来た様だと興奮して言った。
「エメラルドグリーンの海、白い砂浜。こんな海が日本で見る事が出来るなんて…まったく知らなかったよ。
いいなぁ。君はこんな絶景を仕事で見て回ってるんだね」
「あくまで仕事よ。大事なのは誰と来るかよ。ずっと徹を連れて来たかったんだぁ。喜んでもらえて良かった。」
奏絵に向き直した徹は、黙ったまま奏絵の手を取る。潮騒と夏の名残りを運ぶ風が二人を包んだ。
「ここを通過する時は、君は旅行客へどんな風に案内するのさ?」
徹の問いかけはいつも不意にくる。
「どんな風って?」
「ほら、バスガイドお決まりの『右手をご覧下さい』ってヤツさ」
奏絵の瞳は虚空を見上げた。
「ん〜…六月にもある会社の社員旅行の添乗をしたけど、下田が目的地だったのよ。どちらかと言えば『皆様〜、バスは間も無く目的地の下田○○ホテルへと到着します』だったわ。それにね…」
「それに?」
「ここまでをよく思い出してね。都内からここまで、私はどちらかと言えば、進行方向には背を向けてお客さんに向かっているの。案内する様な海の景色は乗客の左手よ」
「あぁ、そうか」
徹は微笑んだ。微笑みながら握る奏絵の手を引き寄せた。
「いつか必ず、君の右手の案内を聞いてみたいな」

〜◆〜

不景気。
普段、街へ繰り出せば景気の良い悪いを実感する事は少ない。しかし奏絵の勤務する小さなバス旅行会社からすれば、仕事の減り方は露骨だ。
経費削減の名の下、常連企業の慰安旅行の取り止めは相次ぎ、運行するには採算上必要な人数も集まらず中止になるツアーも目立った。
辞める程のリストラの矢はかろうじて奏絵には向かなかった物の、雇用形態は契約社員へ降格。ついでに事務職への転属も余儀なくされた。
バスガイドはもっと人件費が安くて済み、可愛がられる若いスタッフにしたい。会社はそんな事情も孕んでいる様だ。

公休も増やされ街を彷徨う事が多くなっていた。世間の若者の様にショッピングや映画、食事と謳歌する訳でもなく、これから自分が生きる道がどこかにポツリと落ちていないか…そんな事ばかり探していた様な気がする。
何せバスガイド以外の道を知らない。自分には他に一体何が出来るのか。続く葛藤、襲ってくる空虚感。しかし思えばそれは、徹と別れた頃からの無限に広がる白い闇だ。自失。孤独。追い討ちをかける「経営上の理由」
すべてが白い闇だった。

そんな日々を重ねる中、奏絵が拾ったのは「転職」ではなく「結婚」だった。
奏絵、36歳。相手は6歳年下の美容師。
人事課の連中は表面上の祝福を装ってはいるが、『やっと春が来たか』と、白々しく込められた嫌味を忘れはしない。
『主婦業をする時間も持たなきゃ』『いつ子供が出来るかわからないし』奏絵はパートに降りた。それは巧みな口実、陰りある誘導に屈した気がしてならない。が、気にしない様努めた。
世間ではもう十分に「お局様」と呼ばれる年齢なのだ。愛する夫との暮らしの為、自分が耐えればいい、それだけなんだと。
ただ、それが本当に愛と呼べる物なのかどうかも自信はない。
徹と暮らした日々を一度も思い出さなかったかと言えば嘘になる。彼は今どこで誰と、どんな暮らしをしているのか、少しも想像しなかったかと言えば嘘になる。あの時、徹と別れずに名古屋について行けば、どんな暮らしをしていただろう?どんな自分がいただろう。
愛?愛とは一体、何なの?わかっていたかと言えばやはり嘘だった。

〜◆〜

結婚は5年で破綻した。
不景気はいつの間にか乗り越えたのだろうか。時代はにわかに景気を上向かせ客足を戻らせつつ、同時に人手不足が訪れる。色々とあったのは、世の中も私生活も同じだ。
奇しくも奏絵は、再びバスガイドの現場へ正社員として復帰していた。

「君に頼るしかないんだ。君も離婚し、このまま人生を棒に振りたくはないだろう」
ベテランだからという大義名分を帯び会社は重宝してくれるが、その調子の良さには心底辟易した。
「部長。嬉しいのですが、私がパートまで降りた時の皮肉、忘れてはいませんよ。」
「それを言われるとタジタジだな。気を悪くしないでくれ。君の力はきっと我が社を救ってくれる」

外には奏絵程の年齢でバスガイドをしている女性も多くいる。単純なものだ。悪い気はしない自分がいるのだから。
「私の人生の大半はこの仕事についてきた」
自負がある。
「ついてきた」「ついてゆけない」徹の置き手紙がふと過ぎる。
「ついてゆけない」あの頃、自分は徹をついてこさせてたのか?自分は徹について行ってなかったのか?
過ぎた事を考えても仕方ない。奏絵、41歳。頭を切り替え、前を向く事にした。「若い頃には出せなかったベテランの味を熟女パワーで魅せてやる」奏絵は自分の新たな決意が滑稽に思えて一人はにかんだ。
再び踏み出したスタートライン。それは離婚や様々な紆余曲折よりも、「徹との別れ」があの日落とした白い闇の呪縛からの解放だ。心の中を山水墨絵の霧の様に侵食した白い闇。

〜◆〜

4年の歳月が流れた。
奏絵のバスガイドとしての評判は業界内でちょっとした噂にまでなっている。

あるツアーだった。
都内から三島、西伊豆を経て修善寺宿泊。翌日、東伊豆は下田を経て熱海へ北上するコース。伊豆一周を銘打ったそのツアーは最低催行人数20人の規模だが、新規顧客獲得を狙った採算度外視、ガイド付で破格の価格設定。結局、想定を上回る37人の申込を受けた。まるで大人の遠足だ。

日程2日目の修善寺を出る時、宿の外は生憎、大粒の雨に見舞われた。ツアー客は残念がったが、風情ある温泉街の街並みに雨もまた良しと見惚れている様だ。
奏絵はあの美しい白浜を見せられない事を人知れず悔しんだ。せめて自分のガイドで白浜の持つ美しさを想像させられれば…

前日、後部座席に座っていた二十代前半と見られる青年が、この日は前列から二列目の窓際に移動している事に気付く。昨日から一言も声を発したのも耳にしていない。物静かな印象だ。前日にそこへ座っていた中年の男性客と交渉し、席の交換が行われたと後に運転手から報告を受ける。
奏絵は彼が目線スレスレまで深く被ったキャップが、視界を遮り折角の景観を眺めるにも邪魔だろうと感じた。それはたとえ大雨ではあっても。
「何が楽しくてこんなに若い子が、こんなオジさんオバさんに紛れて一人旅をしてるのかしら」
ツアー初日から淡い疑問を覚えたが、他の客同様、普段通りに振る舞う事を意識した。車中ではすべての客に目配りする。幾度も彼とは目が合う度、彼は意図的に視線を外の景色へ移す。その横顔を見る度に関心が深まるばかりだ。
彼には何かが引かれる。何かが気にかかる。深く被ったキャップの事などではない。もっと別の何かが。

雨は降り続く。
白浜のエメラルドグリーンの海も今日は濁って見えるだろう。悪天候とはいえ、折角、お金を払ってバスに乗り込んで来た客に、申し訳ない気持ちになるのもバスガイドの性だ。
バスは走り続け、やがて太平洋が覗く場所まで辿り着く。雨はますます強く振り付けた。やはりその色は水平線と空の境がわからない程、仄暗く澱んでいた。
「皆様、東伊豆の海が見えてきましたね。今日は生憎の雨模様ですが…」
「仕方ないよ〜、こればかりはガイドさん、貴方が悪いわけじゃない」
「ありがとうございます。バスは次に下田白浜で休憩を取ります」
紳士的な年配客の声に救済された気がした。奏絵はガイドに集中しながらも青年に視線を配った。彼はやはり黙ったまま流れる外の景色を見つめている。

そういえば…
思い返す事がある。徹もどちらかといえば寡黙な男だった。もっと気の効いた言葉の一つも口にすればいいのに…事あるごとにそう思っていた。
彼の横顔に徹の面影を重ねたついでに、記憶の扉が開いた様に、ある声が耳元で囁いた。
「いつか必ず、君の右手の案内を聞いてみたいな」

そうだ。あの時は都内から下田へ向かい、海はずっと左手だった。奏絵自身も長年ガイドを務めてきて、西伊豆から下田へ向かうのは初めてだ。
徹に自分の右手の案内を聴かせる事は叶わなかったが、今日の下田白浜は生涯最高のガイドをしよう。奏絵の胸の中には小さな願望が芽生えた。ここにはいない徹に聞かせるつもりで。
その地域の風景、文化、歴史、名産品…バスガイドはどの地点ではどんな話を案内するのか、インプットとアウトプットの繰り返しである。突拍子も無い話などすれば後で運転手に注意もされる。
奏絵はそれでもそのルーティンを外れる覚悟をこの日は持った。咄嗟のアドリブで皆の心に残るよな美辞麗句など浮かびはしない。バスは白浜へ近づいてゆく。奏絵の左脳は他愛もないガイドを続けながら、右脳は感性をフルに回転させて言葉を検索し続けている…
白浜の本来の美しさを観れないツアー客に、自分のガイドでせめて想像させる為に。そして、ここにはいない徹に聞かせるつもりで。
言葉を検索し続けている…
いつしか青年が窓の外ではなく、奏絵を見つめている事も気付かずに。

〜◆〜

「皆様、バスは間もなくドライブイン白浜へ到着します。バスはそちらへ入りますと20分のお時間を取ります。どうぞそちらでお土産をお求めになったり、白浜の海岸を散策されたりしてみては如何でしょうか?
その後は予定通りに城ヶ崎、熱海と、東伊豆を北へ向かい昼食を取りましょう。このツアーもいよいよクライマックスです。もう少しお付き合い下さいね。
皆様、いよいよ白浜が見えてきました。右手をご覧下さい」

間を置いた奏絵は息を飲んだ。そこからが脳内のシュミレーションで組み立ててきた、白浜本来の美しさを伝える案内の出番。

その時、青年と目が合った。ツアー客が右側の窓の外へ顔を向けている中、彼だけは真っ直ぐ逸らさずに射るよな眼差しを送っていた。
「あ…」
奏絵は一瞬たじろいだ。勝手にプレッシャーを負い緊張していたせいかもしれない。その僅かな心の隙間に差し込み貫く彼の視線。奏絵の心をまたあの白い闇が包んだ。カメラのフラッシュの様に。
かろうじて「ここで最高のガイドをする」という意識がすぐに現実に連れ戻す。何か…何か話さねば…
「皆様、右手をご覧下さい」
「ガイドさ〜ん!もう見てるよ〜」
後部座席の三十代半ばの男性客が陽気に囃す。奏絵は致命的なミスを犯した。
「右手をご覧ください」の後に続ける言葉が出ずに、事もあろうかその決まり文句を二度繰り返してしまう。およそベテランらしからぬミスだ。
外の景色も見ずに、奏絵を見続けている青年の視線も緩む。
奏絵はその時、困惑していた。あれ程考え抜き、一人シュミレートした案内の言葉がすべて消去されていた。一つの単語さえも思い出せない。すべては彼の視線、あの時のフラッシュに。
「右手を…右手をご覧下さい」
三度目は、かすれる様な声だった。運転手も奏絵を振り向き、小さく「おい」とだけ声をかけた。ツアー客もさすがに異変に気付き、もう誰も雨の海岸は見ていない。

〜◆〜

「皆様、大変失礼致しました。年甲斐もなくちょっと取り乱してしまいました。本当に申し訳ございません。
バスガイドを20年以上続けてきて、こんな事もあるのかと驚いてます。
私事ながら、20年以上前にお付き合いさせて頂いてた彼とこの白浜にドライブに来た事を思い出してしまったのです。こんなオバさんガイドにもそんな輝いてる時代があったんですよ。
彼は本当に毎日を忙しく過ごしていました。その上、私はこの旅行業界で勤務しております。休みの合わない二人が一緒に白浜まで来れるという事は奇跡に近かったんです。
滅多に都内を出る事もなかった彼は、
『エメラルドグリーンの海、白い砂浜。こんな海が日本で見る事が出来るなんて…まったく知らなかったよ』
と、喜んでくれてました。
申し訳ございません。私の若き日の恋愛話など皆様には関係ないですよね。
でも20年前の彼を喜ばせた美しい海が、ここにはあったのです。彼を引き合いに出すのは変な話なのですが、その位美しい海だという事を皆様には知って欲しかったのです。
今日は生憎の雨で、まったくそのカケラも見れない海岸ですが、真夏の光線が照らすこの浜辺は、本当に南国へ来てるかの様な錯覚を起こすんです。
もし皆様の中で、本当の美しい白浜を観た事がないお客様がいらっしゃれば、是非一度、ベストな天候の機会に見て頂きたいと思います。
長い人生と同じです。私も強い雨に降られた事も何度もありました。皆様も同じだと思います。
それでも必ずいつかは止んで、スカッと晴れる日がやってくるんですよね。
今回の旅行もまだまだお時間は残ってますが、どうか今日の大雨もそんな考え方で、皆様の大らかな心で、天気の神様を大目にお許し頂けたらと思います」

奏絵の頬を雫が一筋つたう。
バスはもう既にドライブインの駐車場に入り停まっていた。
それでも誰も奏絵を静止せず、やがて話し終えた時にはどこからともなく、優しい拍手が沸いた。

〜◆〜

バスは日程に組まれた予定をほぼ終え、今停まっている東名海老名S.A.の休憩を終えれば後は東京で解散を待つだけだった。
海老名ではもう雨は止み、名残惜しい夕焼けの光線が辺りを包んでいる。
奏絵は下田での演説じみたガイド以降は、おとなしく、淡々と通常ガイド業務をこなした。生涯最高のガイドどころか、後悔込もる時間である。運転手に小言を言われたり詮索されたりも鬱陶しく、人目を避けてバスの影に立っていた。
いつもの事ながら、夕方でも海老名S.A.の週末は今日も賑わっている。太陽の沈みゆく西の空を見上げ、押し寄せる疲れに浸った。

「清水 奏絵さん」

背中越しに名前を呼ばれた。振り向くとあの青年が背筋を伸ばし、誠実感を漂わせて立っていた。キャップも外して。
バスガイドという職業は、客からは「ガイドさん」と呼ばれる事が多い。名前で、それもフルネームで呼ばれる事に対して、免疫のない奏絵は戸惑いを隠せなかった。
「あ…どうもこの度は、ツアーへの参加、ありがとうございます」
精一杯の笑顔を取り繕った。青年も会釈し、社交辞令的な挨拶を交わす。
「こちらこそ、楽しい二日間、ありがとうございました。そして…今頃になって申し訳ございません。初めまして。僕は奥村 諒と申します。大学生です」
奏絵は何故、この青年に気が引かれてたのか、その運命をようやく理解した。
彼に名前を打ち明けられた時…その理解とはオレンジに染められた世界の中で、自分だけが打たれた激しい閃光と轟音の稲妻だ。

「もしかして…奥村 徹さんの?」
「はい、息子です」
こんな時、どんなリアクションを取れば良いのか、何を話せば良いのか、奏絵のスキルにはない。
「今日の白浜でのお話は、父の事を話して下さったんですね。ありがとうございます」
「あの…お父さんから何か聞いてたの?やだ、私。まさか、お身内の方が乗ってらっしゃるなんて思ってなかったから…」
「いえ、僕は嬉しかったですよ。少しでも父の若い日の話が聞けて」
徹の息子を名乗る青年は、爽やかな笑顔を奏絵に向けた。
「あの…お父さんは?お元気にしてらっしゃるの?」
奏絵が尋ねた。
「昨年他界しました。癌です」
「え…」
言葉に詰まった。というより、時が止まった。S.A.内に響き渡っていた喧騒が消え、色が失せ、奏絵と青年だけを差し置いて世界中の動きが固まった…様に感じた。
いや、それだけではない。周りの景色はあの日の白浜であり、吹く風はあの日の潮風であり、目の前の男は徹だった。

「気にしないで下さい。もう十分に時間は経過してます。喪も明けてます」
沈黙と追憶は短い時間だったろう。しかし奏絵には永遠の中に身を置いた感覚が残る。不思議だ。幻が永遠だったのか。永遠に戻れない過去の示唆なのか。永遠と呼ぶ以上、そこに終わりはないのだが、有限の「永遠」を奏絵は確かに感じ、包まれた。
青年の声で現実に引き戻され、そして再び時は流れ出す。

「では…今はお母様お一人で貴方を?」
「いえ、母親は僕が幼い頃にやはり病で…ですから父がずっと一人で僕を育ててくれました」
「そうだったの…」
「すみません。辛気くさい話をしてしまって。もうそろそろ休憩時間も終わりですよね?とにかく御礼だけ伝えたくて」
そう言って青年は頭を軽く下げ、再びキャップを深く被り踵を返す。
「待って」
奏絵はバスに乗り込もうとする青年を呼び止めた。
「一つだけ教えて」
「何でしょう?」
「貴方は今回のこのツアーに、何故参加したの?」
青年は躊躇いの表情を一瞬浮かべ、やがて唇を開いた。
「まぁ、言ってみれば…遺言です」
「遺言?」
「ええ。父は亡くなる前…昔、東京で一緒に暮らしていた恋人がいた事を僕に打ち明けました。その女性と別れる前に一度だけ下田の白浜へドライブに出掛けた事も。今日の清水さんのガイドと符合が一致しましたね」
奏絵の鼓動が早まる。ある一抹の想いが込み上げてきたからだった。果たして呼吸が続くだろうか…
「父はその時、いつか必ず清水さんの右手の案内を聞きたいと言ったそうですね。それも白浜でと言っていたのを、僕はまるで父の願いの様に聞いていたんです。
貴方にはついてゆけない、と別れたそうですね。貴方の右手の案内を聞きたい…ついてゆく、ついてゆけない…そうした矛盾を内包した自分の選択を、父はずっと抱えていたんだと思います。
勿論、母との出会いは幸せだったと語っていました。それが無ければ僕も生まれてはいなかった訳だし。
ただ最近、ふとした事からネットで、父から聞いたバス旅行会社とこのツアーの案内を知りました。
父の願いに決着を付けてやらねばならない…そう思うと僕は、居てもたってもいられなくなった次第です。ホントは苦学生やってて、旅行なんてしてる場合ではないのですけどね」
冗談めかしくそう言いながら、青年は羽織っていたブルゾンの内ポケットに手を運んだ。取り出したのは若い徹が幼い息子を抱いている写真だ。
「貴方に見せるつもりは無かったんですが…」
奏絵は我に返った時、いつの間にか嗚咽の中にいた。あの別れの夜、味わう筈だった「制御出来ない嗚咽」の中に。

奏絵、45歳。長い長い時差。

「お〜い、清水く〜ん!そろそろ点呼取るんだよ〜!」
前方の運転席から運転手が声を張り上げた。
「ごめんなさい!お仕事中にこんな話を聞かせてしまいまして!けしてそんなつもりではなかったのですが!」
青年は慌てて詫びた。涙でメイクも落ちただろう。他の客達の邪推を誘うかもしれない。
「いえ、貴方は悪くない…悪くないの…」
奏絵はようやく声を絞り出していた。そしてその言葉は、青年に向けてではなく徹に向けて出た言葉だと青年には気付く由も無い。

〜◆〜

バスは出発し、一路帰京の路についた。料金所が近づくに連れ、渋滞が徐々に激しくなる所が、この日は割と順調に進んでいる。
奏絵は気を取り直して最後のアナウンスを振り絞った。

「皆様、この度は弊社の伊豆一周バスツアーをご利用頂きまして、誠にありがとうございます。楽しんで頂けましたでしょうか?バスは間も無く終点に到着します。お忘れ物のない様に今一度お荷物をご確認下さい」
奏絵が泣いていた事は、運転手も客達も皆、薄々と感づいてはいた。海老名を出てからの奏絵は、スッカリ言葉少なだった。
誰も何も詮索しない事が、かえって責められている様な気圧を感じている。何か話さねば。そう思う程、思考が複雑な迷路に堕ちてゆく。都内のJR路線とメトロの路線図が重なる様に。このままでは乗客をも導いてしまう。

「尚、本日は私のガイドで至らない点や…また、つい感情が込み上げてしまい、お見苦しい点があった事を心よりお詫びします。昨日今日ガイドになったばかりの新人ではあるまいし、本当にこの道のプロとしてまだまだだと、大変恥ずかしく、ただただ深く反省します」

素直に謝った。言葉をうまくまとめ切れていないが、本心からの言葉だった。

「そんな事ないぞ〜!」
「頑張れ〜、ガイドさん!」
誰かが合いの手を入れた。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
また涙が溢れそうになった。堪えた。
拍手が沸いた。青年と目が合った。青年も黙って拍手し、そして頷いた。
「頑張れよ!ガイドさん!ホントに楽しかったよ!」
「またあんたのツアーに参加するぞ!」
歓声が続いた。奏絵は深く頭を下げてからもう一度言った。
「ありがとうございます」
その時、背後から耳元に向かって懐かしい声が響いた。

「奏絵、ありがとう。これからも頑張れよ」

徹さん!
奏絵は振り向いた。

街に灯がともりだすトワイライトの中をバスは疾走している。

〜完〜

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