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【夢の欠片を映す 厄介な鏡】〜瞳と悠里〜

MonoeJun小説集。短編。
(約32000文字。読了見込時間は個人差考慮で30〜45分)

〜◆〜

衝撃のラストシーンが近づく。

スクリーン一杯に映る、振り向く女優の顔。否。女優というのは物語から離れた時の彼女の実務的な職業の呼称。今は役が憑依した登場人物「樹里」そのものである。
樹里の凛とした端整な顔立ち。しかしその瞳は静寂と冷気を抱えた洞窟の、ぬめる岩肌を湿らせた暗闇の泉。溢れた涙は一筋の光る糸となって頬を滑り落ちた。

物語はシェークスピアの「ロミオとジュリエット」を現代の日本を舞台にアレンジした作品。とある街の小さな劇団で脚本を荒木麻梨恵、演出を荒木史康の無名の姉弟が手がけた事が細やかな話題となっていた。

その時、観客席にいた彼女にとって、この場面の『樹里』を見届ける以外には何の意味も持たなかった。台詞もいらない。彼女の感情の溢れ方を観る為だけに。
運命とは時に何と残酷に若者達を追い詰めるのだろう。観客の誰もが戦慄の瞬間に息を呑む。
しかし彼女はここで席を立った。エンドクレジットを待たずに。彼女がスクリーン前を横切り館内を去りやがて、スクリーンに映っていた筈の「樹里」も姿を消していた。
場面はビルの屋上。シネマの館内にも、ビルから舞い上がる風が強く吹き抜けた気がした。

〜◆〜

「この場面はね…感情を『出す』んじゃぁないの。自分の内に溜めるのよ」

私は今日も悠里に演技を指導している。こんな薄暗い校舎の空き部屋で、毎日毎日同じ事の繰り返し。何遍言ったかわからない。公演日までもう幾日もない。
今日も私を射抜く様な眼差しね。困惑…?違うでしょ?本当は。嫌いでしょ?私が。手に取る様にわかるのよ。目の色が嫌悪で満ちている。

辞めてもいいのよ。別に。こんな演劇部、廃部になっても構わないの、私は。
たったこれだけの部員で、どんな芝居が出来るというの。廃部になって顧問なんか辞めて、私もこんなブラックな暮らしから解放される。そんな事、体育会系の顧問の先生達には言えないけどね。
秋のコンクールで三年生が引退した途端に、仕切り出しちゃって、市の文化顕彰記念公演なんか張り切ってどうするのよ。しかもよりによって選んだ演目があのロミジュリだなんて。
まったく。何の当てつけ?

悔しかったら、私を唸らせる演技をしてみなさい。

「溜める…どういう事?わからないわ、先生。この場面は明らかに感情を出す場面よ」

相変わらず生意気ね。可愛くない子。

「何度も言ってるじゃない。感情はね、貴方から『出す』…のではないのよ。貴方はむしろ出さない様に自分の内なる場所で食い止めて。
コップの水を思い出すのよ、そこは。溜めに溜めて、やがてその水は溢れてこぼれるの。
いい?『出す』のではなくて、『出てしまう』のよ」

これ以上分かりやすい説明は他に無いでしょ?サービスよ。さぁ、貴方は次にどう出るの?

「出てしまう…ダムの決壊でしょ、ここは」

「違う。シェークスピアのロミジュリの見過ぎよ、それは。
決壊はダムを壊しての洪水よね?荒木式ロミジュリはそうじゃない。ダムを壊してはいけないの。静かに、静かに水は溢れてこぼれるのよ。」

どう?天才少女。グウのネを出してみなさい。それが彼の演出よ。
貴方にこの役は無理。己の分をわきまえなさい。
一体どういう了見で貴方がこの作品を選んだのかは知らない。この作品はかつて愛した荒木の作品。貴方みたいなただ女優に憧れてるだけの子供が演じていい作品じゃないの。背伸びするにも程があるわ。

私は彼の作品だから手は抜きたくないだけよ。
勘違いしないでね。私は貴方みたいな子供の為に演出してるんじゃないの。彼が魂を注ぎ込んだこの作品の為だけにやってるのよ。

それにしても…くどいけど今回のこの公演、貴方は何故この作品を選んだの?そしてこんなに拘っているのか、本当にミステリアス。
まぁ、貴方のお父様が地元の有力者で、鶴の一声で彼の作品がこうして世に出たのは嬉しいんだけど。たとえ高校生演劇部のレベルでもね。
それにしても…主演まで南雲悠里、何故、貴方が演るのか、ホントに気に入らない。

「先生、もう少しわかりやすく教えてくださいよ。全然意味がわからないわ」

〜◆〜

相変わらず生意気だと思ってるんでしょ?

あなたには人に教えるセンスが欠如してるんじゃないの。だからこんな高校の講師で止まってるのよ。

知ってるよ。あなたがホントは女優志望だった事。そしてあの劇団に所属してた事も。

感情は溜めて出す?
わかってるよ、その位。あなたが尊敬していた演出の荒木の教えでしょ。彼を好きだったのはあなただけじゃない。私も好きだった。そして愛されてた。

ついでにもう一つ。
学校にも秘密でしがない役者クズレと同棲してるよね。
馬鹿ね。売れる訳ないわ、あんな風に女に依存しまくってて、ろくに仕事もしやしない男。ホントに才能があると思ってるの?あんな男。
あなたには何て言って毎日を過ごしてるか知らないけど、劇団へなんてもう殆ど顔も出してないし、もちろんまともに芝居なんてしちゃいない。
知らなかったでしょ?パパの情報網で何でも筒抜けよ。

私はあなた達とは違う。
必ず女優になってやる。荒木史康の教えは私の為の物よ。別に友達なんていらない。私は本気なの。
きっとあなたは私の将来を嫉妬してるのでしょう?素直に認めたらいいのよ。
先生、あなたは抜け殻。自業自得よ。

ホントは…
私がこの学校を選んたのは、あなたとお芝居がしたかったからよ。
いつからなの?もうあなたは荒木が育てた武沢瞳ではないわ。残念ね。

とにかく、私には時間がないの。

「先生。気に入らないなら止める?今度の文化顕彰記念公演」

さぁ、ハッキリ言ったよ。あなたは次にどう出るの?
あ…溜息こぼしたね。
それでもいいのよ、私は。この作品を演じられるなら、何もこんな学校の演劇部でなくてもいいんだから。
パパがまた私の為に新しい受け皿を探してくれる。
私は市の文化顕彰記念公演に拘ってるんじゃないの。この作品で、あなたの演技を越える事に拘ってるのよ。

私には時間がないの。荒木史康が私を待ってるわ。

〜◆〜

「ただいま」
玄関の扉を開けると奥のリビングからテレビゲームのけたたましい音が響いてきた。

「おかえり」
同棲している壮一郎の声が激しい銃撃音に紛れて微かに届く。
瞳は羽織っていた薄手のコートから腕を抜く。

学生時代から同級生と距離を取った。群れの中、同じ話題、流行、感性に埋没する事を恐れ、常に孤独の中に身を置いた。
友情?夢?反吐が出る気がした。
社会に出て、子供達に教える立場ともなればそんな苦手意識も消えるだろうかなどと飛び込んだ職業だったが…違う。どうやら瞳は学生の織り成す「青春」そのものが合わないのだ。
今日も悠里達を相手に戦ってきた疲れが溜まっている。コートと共に脱ぎ捨てられる物なら脱ぎ捨てたい。しかし脱ぎ捨てたら脱ぎ捨てたで、引き換えに新たな苛立ちを着込む前兆はある。壮一郎を見下ろしそう感じながら、ただ立ち尽くしていた。

「早く飯にしようぜ。俺、腹減りまくりよ」
胡座をかいたまま床に縫い付けた様な壮一郎の置物が声を発した。
思わずリビングの床に、持っていた鞄をヒステリックに叩きつける。

「ちょっと…いい加減にしてくれる?」
驚いた壮一郎が唖然として振り向くと同時に、画面では彼の操る戦士が撃たれて息絶える。

「急になんだよ。学校で何があったか知らねーけどさ、俺に八つ当たりは筋違いじゃんか?」
壮一郎は何事もなかった様に顔をモニターへ向き戻しながら言った。コントローラのワンプッシュでゲームをリプレイする様に、瞳も気分をリセットしろよと言わんばかりに。

「あんたはそーやってふざけてばっかりじゃないの。一体あんたは 今日一日何してたの!芝居の公演、本当に近いのなら今頃稽古稽古でゲームなんてやってる場合じゃないでしょう!」
壮一郎は押し黙り、モニターへ向き直った。
「ああ…あれな。辞めたよ」
「は?」
「やってらんねーっつったのさ。誰も俺の才能を活かせやしねぇんだからさ」
再び電子的な銃撃音がリビング内に響き渡る。今度は瞳が唖然とする番だったし、しかもそれは長く続いた。時間が凍りついた様に。

「辞めたって何よ…何で公演初日まで決まってて辞められるのよ…」
「だからぁ…オッ、アブね!」
ヴァーチャル戦場では戦士が再び撃たれて血を噴いた。
「あ〜〜あ、もう辞めた辞めた!ゲームも劇団もぜ〜んぶ辞めてやるよ」
コントローラを放り投げ、壮一郎は立ち上がる。
「瞳さんはどうやらご機嫌が優れない様だ。今日は俺が何か作ってやるよ。パスタソースもあって簡単だからさ、カルボナーラでもいい?」
呆然と立ち尽くす瞳の横を通り過ぎる壮一郎。と、突然背後から瞳を抱き寄せた。
「それともお互いムシャクシャしたのを忘れ合うのが先か?」
瞳の耳元での囁きは、戦場で踏まれた地雷となって瞳の心を、ダムを壊した。
「アァァァァァ!!」
溜まった感情と止まった思考。それらは咆哮となって瞳を覆う殻を内から壊し砕いた。
持てる力の限りに壮一郎の腕を振り払う。叫んだ。悲しいまでに傍若無人の悲鳴だった。
「おいおいおい!近所迷惑だろ!静かにしろよ!」
「静かにして欲しかったら今すぐ出てって!今すぐよ!」
「何言ってるんだよ!二人の部屋だろ!?ここは!」
「いいえ!名義も家賃の支払いもみんな私!あんたは何もしてないじゃない!出てゆくならあんたの方よ!」
「おい!俺だってこれでも今日は傷ついてるんだぜ!それなのに慰めてもくれやしねーのかよ!何でお前にまで捨てられなきゃならねーんだよ!俺はそんなにダメな男か!?」
「ダメ男じゃないの!屑よ!」

暴れる瞳の両手首を掴み、抑え付けようとしている壮一郎の体が岩の様に固まった。押しても引いても、どう足掻いても動かせない巨大な岩の様に。
「なんだと…?」
いつもの険悪なムードになった時の壮一郎の低い声だ。この世界を写す鏡の向こうの、魔界から魔王が囁いたようにも聞こえる。目の奥に悲哀が見えるその一言は、瞳に恐怖を察知させる。

「なぁ、瞳…お前ならわかるだろ?俺が役者としてどんだけの才能を秘めてるか?お前だって俺の芝居を観て惹かれたって言ってくれてたじゃねーか?
な?頼むよ。見捨てるなよ、俺を。俺は必ず大きな役者として羽ばたくからよぉ…」

瞳の体内を駆け巡ったアドレナリンが、引き潮になると同時に血管の管という管を凍りつかせてゆくのがわかる。体が覚えている。このパターンは危険だという事を。
震えながらそれでも瞳の唇は勇気を絞り出した。
「む…無理よ…もう」
「…どうしても出てゆけってか…」
壮一郎の瞳孔から悲哀の影がフッと消える。しかしその眼球の奥に潜む狂気の濃い闇は、瞳の身も心も覆い尽くし室内の光を奪ってゆく。
壮一郎の右手が掴んでいた瞳の左手首を突然離したかと思った刹那、瞳の左頬に鈍く重い塊との衝突を感じた。首がまるで芯棒を軸に
回る地球儀かとさえ思えた。壮一郎が握りしめる右拳、それは瞳にとって絶望という名の塊だ。
「変な大声出してんじゃねーよ」
両手で頭を掴まれて今度は腹部に鈍痛。ムエタイ選手さながらの膝蹴り。
咳き込んだ瞳は前のめりに床に崩れ落ちた。殴られ、蹴られた自覚はあった。なのに次の瞬間にはまた天地が逆転する浮遊感を覚えた。体はまだ危険信号を解除していない。壮一郎の両腕は瞳の体を抱き上げていた。寝室のベッドへ運び、そして投げ捨てる様に放り落とされた。朝、ゴミ捨て場へ出すゴミ袋かの様に。

上半身の衣服を脱ぎながら壮一郎は跨ってきた。身をよじらせ拒否の意思を見せるも虚しく、両肩を掴まれ正対させられる。
壮一郎の手がブラウスのボタンをはずしに来る。両手で防いだ。頬に平手打ち。左、右。
また一つボタンをはずされる。防ぐ。左、右。パチッ、パチッと乾いた音が規則正しいリズムで響く。
そして唇から浸入する壮一郎の舌。しかし瞳の口内の切れた出血をひと舐めしてすぐに抜いた。

「わかってくれよ、瞳…俺がどんなにお前を愛しているか…」

愛してる?愛…?愛とはこれ程までに鉄の味がする物なのか。
空想した。「愛」と描かれたガラス板が細い糸で宙吊りに浮かんでいる。それは静かに回転し裏返ると描かれている文字は「憎」だった。ゆっくり回転を続け、再び「愛」へ裏返ろうとした時にその糸は切れ、落下したガラス板は粉々に砕けた。
裸になって横たわる瞳は、最早ただのセルリアンドールだ。
そんな中、唯一頭の中の思考はこんな事を考えている。

「そうだ。顔の痣を隠すあのファンデーション、もう切れそうなんだっけ…」

〜◆〜

自分で公演まで時間無いから、毎日特訓よと言ってたのはあなたじゃない。
何を3日も休んでるのよ?
自分から体調管理に気をつけてと言ってたくせに、は?体調崩した?何よソレ。
重度の生理痛?それとももしかして、私の顔を見たくなくて仮病でも使った?
子供じゃあるまいし。

先生が登校しない生徒の家を訪れる話はよく聞くけど、その逆なんて滅多にないよね。

「長谷川さん。あとどの位かしら?」
「はい、お嬢様。ナビでは5分と出てますが、この場所はよくてもあと2分で到着しますよ」

あっそ…
なかなか閑静な住宅街に住んでるのね。あのマンションかしら。賃貸の割にはなかなかいいんじゃない。

「お嬢様。着きました」
「ご苦労様。長谷川さん、ではちょっと行ってきます。車に乗って待ってて下さい」
「承知しました」

さて…と。インターフォンはエントランスにあるのね。部屋番は…あった、これね。先生、あなたの可愛くない生徒が家庭訪問に来ましたよ、と。

ピンポーン

ピンポーン

いないのかしら?体調悪い人がどこをほっつき歩いてるのよ。
「はい…あ…」
居た。カメラ越しに私を確認したわね。
「先生。悠里です。南雲悠里です。お体の調子が悪い所、すみません。会ってお話ししたい事が…少しの時間で構わないので開けてくれませんか?」
「わざわざ来てくれたの?ありがとう。でもごめんね、今、本当に体調が悪くて誰にも会えないの?今日は引き取ってもらっていいかな?」
「先生、体調崩されてるのは聞きました。でも文化顕彰記念公演まであと僅かだから、体調を整えてって言ってたのは先生だよ。こうして教え子が訪ねて来てるんだから、一目会ってくれてもいいんじゃない?」

何を子供みたいな事言ってるの?大の大人が登校拒否じゃあるまいし。あなたは教師の端くれでしょ?甘えるにも程がある。
生徒にここまで言われて、エントランスの自動扉、開けてくれるよね?

「ちょっと!先生!聞いてるの!?」

〜◆〜

もう…サイアク。
よりによって、一番会いたくないお嬢様が来るなんて。
何しに来たのよ。もう芝居なんてどうでもいいのよ。察しなさいよ。どうせ私の顔の痣を見て笑い者にしたいんでしょ?
あなたみたいにね、恵まれた人生を歩んでる子供に、私の気持ちなんてわかるわけないわ。

あの人もね、かつては優しかったのよ。こんな暴力振るうよな男じゃなかった。
芝居もさせればそりゃ才能も情熱も溢れてた。
私は彼と一緒になって彼の役者としての才能が花開くまで彼を支えようと夢見たの。
所詮夢よね。とっくに夢は破れてたのにまだこんな暮らしを続けてる。

「ちょっと!先生!聞いてるの!」

何よ、その剣幕。聞こえてるわよ。
まぁ、こんな所で自分の正当化を弁解した所で仕方ないしね。
開けてあげるわよ。私の顔を思う存分見ればいいわ。何もかも恵まれたあなたには、こんな世界もあるんだって事、よ〜く勉強させてあげるわよ。

〜◆〜

観念したかの様に玄関のドアは開かれた。一瞬、空気は凍りついていた。瞳は俯きもせず、腫れたまま、痣だらけのままの顔で悠里を正視した。

「人に見られたくないの。入ってもらえる?」
悠里は黙って頷いた。
「散らかったままよ。ソファーでもテーブルでも適当にかけて」

部屋は昼間なのにパステルグリーンのカーテンを閉めて世界を遮断しており、隙間から差し込む陽光がテレビ前の一角に散らばるゲームCDロムを照らしている。そのコーナー以外は粗方、整えられた部屋だ。
悠里はテーブルのチェアーを選んで腰を下ろした。

「ゲームは彼氏さんの?先生はゲームなんてやらないよね」
瞳の顔を見てから、かける言葉を見つけられずにいた悠里が、ようやく出せた話題はそれだった。
「そうよ。私は好きじゃない。珈琲飲める?紅茶もあるわよ。貴方の家にあるのと比べたら安物ばかりだろうけど」
瞳はケトルに溜めた水をIHヒーターで沸かしにかけた。悠里は黙ったまま瞳を見つめ返した。ダイニングキッチンにいる瞳はその視線を受けて腕を組む。交錯する視線。役者で言う、台詞の無い無音の会話がそこにはある。
「貴方が責めに来たのはわかったわ。公演間近で何休んでるのよ、ってでしょ?これが理由よ」
「DVはいつからなの?慢性的?」
「そうね、もういつからこうなのかも覚えちゃいない。でもここまで酷いのは今回が初めてかもね。メイクで隠せもしない」
瞳はカップを取り出しに食器棚へ向かう。これ以上詮索するなとばかりに。しかし悠里の質問は彼女を追った。
「今日、彼氏さんは?」
瞳はカップをカチャカチャと物色しながら、背を向けたまま答えた。
「バイトよ。役者を夢見て芝居やってる人なのね。だからって訳じゃないけど仕事にまともに就いた事もないのよ」
「そうだったのね…それより先生、文化顕彰記念公演、あと10日なんだけど。つまり文化の日までって事ね。諦めるつもり?」
「それより?」
悠里の話題の切り交わし方は、風船を割るか割らないか程度の僅かな針で突いてきた。

「貴方だって、気に入らないなら止める?ってこの前、私に聞いてきたでしょう。私はこんな小さな町の舞台、流れてもどうでもいいのよ」
「先生がそんなDVを受けて悩んでるなんて知らなくて。それは本当にごめんなさい。でもね、それはそれ。状況が変わった。
私達はたとえ小さな町の舞台でも、あの「ロミジュリ」を演らなきゃならないの。私は先生がわざとレベルの高い演技指導をぶつけてきてもね、負けてなんかられないわ」
悠里がまくし立てた。そして対峙し合う二人の間に、湯が沸騰したケトルの笛が割って響いてきた。
「…何よ、その変わった状況っていうのは?」
静かな口調とは対照的に瞳の目には怒りの色が満ちていた。
「簡単な事よ」
それでも悠里も怯まない。いつの間にか彼女も立ち上がり腕を組んでいる。

「私は先生にも誰にも負ける訳にはいかないの。先生のこの境遇、確かに他人から見たら同情に値するかもね。
どう?先生ももしかしたらどこかで悲劇のヒロインになりたいんじゃなくて?
私は違う。辛い状況にある先生が腐っていたら、それ以上の辛い状況をも乗り越える事で先生を超えてみせる。
私は女優になるの。あなた以上のね」
図星かもしれない。瞳にとってそれ以上に意外に思えた事は、この娘は瞳が思う以上に瞳に意識し固執しているかもしれない事だった。いつしか悠里も瞳を「あなた」と呼んでいる。
「私以上?何を言ってるの?私はしがない高校の一教師じゃない」
悠里には動揺を見せたくはない。もちろん日頃から弱みすらも見せてはいないつもりだ。今もこんな傷だらけの顔になっても、この娘にだけは余裕の態度を装おうとしていた。
二つ並べたカップにティーバッグを置き、お湯を注ぎ込みながら。

「隠さないでいいよ。私は子供の頃、先生が演じた『ロミジュリ』の舞台を観てるのよ。その演技は素晴らしかった。世のどんな名作やドラマに出ていた女優さんよりもよ」
瞳は冷静を装うが正直驚いた。
過ぎた話ではあったが、まるで意識もしない角度からの賞賛だった。瞳の胸に当時の演劇や荒木に対する想いが一瞬蘇る。
「ロミジュリ」は、瞳がかつて所属した「劇団フォレスト」の代表作。シェークスピアの「ロミオとジュリエット」を、現代の日本を舞台にアレンジした現代版であり、名前も日本風に変名した路未(ろみ)と樹里(じゅり)の御馴染みの悲恋物語だ。
ただ同作品の多くの芝居は感情剥き出しが定番だが、演出家の荒木史康は「感情は抑えて抑えて、そして溢れ落ちてしまう」という現代風のクレバーな演技に拘った。

「わかった?私があの劇団のロミジュリを選んだ理由が。それだけじやないわ。私がこの学校へ入学した理由よ。
そう、あなたもよく言う『こんな学校』をわざわざ私が選んだ理由はね、先生、あなたの元で演劇を演りたかったからなのよ。
あなたはね…こんな、世捨て人みたいな、抜け殻みたいな事してていい場合じゃないのよ。先生には私を女優にする責任があるの」
瞳は彼女に「氷の台詞の少女」という印象を持っていた。学生時代の孤独な自分にどこか重ねたりもして。そんな悠里が一気にまくし立て続けている。
元々口調のキツい少女ではあったが、その言葉に熱を帯びた事はない。初めて見る悠里の一面に、そして何より自分を知っていたという事実に驚きもしたが、それでも瞳は落ち着いて見せた。
心の中では「ずっと抑え続けていた感情が溢れてたのね。でもまだ強固なコンクリートを突き破る鉄砲水」などと考えている自分もいる。こんな時まで芝居の事を考えているなんて、と。
しかしその思いは伏せて、瞳は頭を切り替えた。

「それは少し大袈裟じゃない?私が貴方を女優にする?
無理よ、そんな力は私にはないわよ。
あなたが私の芝居を観てたとは…それで私を追ってこの学校へ来たとは正直驚いた。確かよ、それは。
そして馬鹿だとも思う。こんな私を追って人生を棒に振るなんて。きっと貴方はもっと名門と呼ばれる様なお嬢様学校に行けたでしょうに。
女優になりたきゃね、あんな小さな演劇部で稽古してるより、もっと大きな劇団に入るとか、オーディションを受けるとか、道は幾らでもあるはずよ」
「いいえ、それ以外の道は考えられない。あなたは演出家の荒木史康の演技指導を受けて、彼の作品のロミジュリを完璧に演じてたの。あなたは私ともう一度ロミジュリを作り、私はあなたを、あなたは荒木を超える必要があるのよ」

この迸る十代の娘のエネルギーは何なのだろうか。不思議と瞳の心を突き動かし続けている。
それは微動だにしないと思われた大きな庭石が、5センチ移動させたに過ぎない程度に似ているが、それにしてもだ。大の大人が数人がかりで押したり引いたりしての力技ではない。物理、原理…得体の知れない『理』を用いた様に滑らかな突き動かされてる事を感じている。
おそらく…彼女の口から荒木の名前が出たからだろう。悠里が荒木を知っているのか尋ねたかったが、今はやめた。代わりにため息を一つこぼしながら紅茶を悠里に差し出した。

「南雲さん、あなたは私を買い被り過ぎたわ。ありがたいけどね、無理よ。私の顔を見なさい。今はね…私に荒木先生の芝居をやる資格なんて無いの。これはその罰」
「先生!いい加減にして下さい!」
悠里の激昂を合図に、瞳の中でも理性を支える箍が外れた。今度は瞳のダムが決壊する番だった。悠里のそれより更に大きく。
「じゃあどうすればいいのよ!」
生徒の…しかも悠里の前ではけして流すまいと思っていた涙が不意に噴き出た。悠里は黙って睨み続けている。
「あなたに私の何がわかるっていうの…」
瞳のダムがとうとう崩れ落ちた。
「ええ、先生。わからないわ。同時に先生にも私の事などわかりはしない」
悠里は冷淡に答えた。そして差し出されたカップを口元へ運び、温かい紅茶を一口含む。
瞳は何故、こんな少女にダムを決壊させられねばならないのか。この少女は何者なのか。何故にこれ程大人びて、何が憎くて自分をこれ程までに追い詰めるのか。
泣いた。壮一郎に殴られても泣かない瞳が泣いていた。

「先生、やり直したくはない?」

やがて悠里は優しく諭す。そして瞳の返事を待っている。
「そう思っても…もうどうにも出来ないのよ…」
瞳はひと仕切り泣いた後、無理な作り笑顔で強がってみせる事で余裕を取り戻そうとしている。私はすべての運命を受け入れてる…そう言い含めながら。この少女との得も知れぬ駆け引きはまだ続きそう。主導権を握るには余裕が必要だ。
「それは先生がそう決めてるだけだわ。何とかなるし、何とかしてみせるの。私はそれしかやり方を知らないで生きてきたから」
高校生の女が、何を高尚な事をほざいているのだろう。言い返したい言葉を飲んで、瞳は余裕を演じ続けた。

「何かいい方法ある?」
瞳は涙を拭いながら尋ねた。あなたに何が出来るの?暗喩と疑心を込めて。
「あるわけないでしょ?」
しかしその疑心を軽く砕く様に悠里はサラリと言い放った。
「あるわ。逃げるのよ、今すぐここを。先生!目を覚まして、そして最低限の荷物を今すぐまとめるのよ。考えてる時間なんてないわ」

懐かしい…
街を一望に見下ろせるこの丘陵地の住宅街。高校時代に付き合っていた彼と夜景を見に来て以来ね。
あの頃はそのロマンティックなムードに浸りつつ、地元でも富裕層が豪邸を構える事で有名なこの地域に、いつか立派な屋敷を建てて住んでやるだなんて、若かった彼は夢見がちだったっけ。
それでも私は夢だとか、青春めいた事が苦手だったのにね。
あの彼は今頃どこで何してるんだろう?
もっとも私も、人の事を言えた義理じゃあないけれど。

さすがにいい所に住んでるのね。しかもこんなお抱えの運転手付きで。こんな静かで寛げる車、初めて乗った。
気に入らない。
心の底から気に入らない。
秋も深まって暮れるのも早くなったこの頃。私を救ったつもりになってる貴方。この黄昏時の景色を見せ付けてどんな気分?優越感?満足?

「先生。もうすぐドラッグストアがあるよ。必要な物はない?」
「ない」

ない。ないわよ。私にはもうすべてない。
壮一郎に未練がある訳じゃない。そう、壮一郎のせいにしようとした事も何度もあったけど。何故、彼はこんな下らない男になり下がってしまったの、と。
悔しいけどね、悠里。貴方の言う事もわかるわよ。すべての責任は私。私の選んだ道。

荒木の劇団で、芝居の楽しさも苦しさも学び、荒木と愛し合い、それすらも捨てて別の劇団の壮一郎の芝居を観て彼に走った。彼に才能を感じたと信じたかった。仮初めだと認めたくなかった。
もっとも荒木にも妻子はいたし、彼は破門同様の答えを私に押し付けたけど、本当は色々と言い訳を付けて逃避したのは私の方よ。

「お嬢様、武沢様、本当にお屋敷へ真っ直ぐでよろしいですか?お二人を降ろしましたら本日は私はもう上がらせてもらいますが」
「ええ、構わないわ。長谷川さん。本当に今日はありがとう」

ふん。育ちのいい事。そんなセレブっ振りを見せ付けられても、私は変わらないわよ。
私に憧れてた?ごめんなさいね。これが本当の私なの。

私は…荒木との未来が欲しかったのかもしれない。女優の未来よ。

〜◆〜

「先生、どうぞ、こちらへ来て楽になさって下さい」
シャワーを浴びさせてもらい、バスルームから上がってきた瞳は悠里の母親に、ニ十坪はあろうかの広い部屋へ通された。この屋敷に入ってから一体幾つの部屋を見越してきただろう。どれがリビングでどれが客の応接間なのか、瞳には見当もつかなかった。

「何か飲まれます?どうぞご遠慮なさらずに。
あらためまして、いつも娘がお世話になってます。本当にお顔の痣が痛々しいわ。女性に手を上げる男性は本当に信じられません。
でも、先生のお気持ちもございますでしょう。これから先生がどうされたいか。その事を話し合いましょう」
母親の面倒見の良い申し出に、瞳は面くらい戸惑いながらチェアーに腰を下ろした。

「あの…本当にすみません。いきなり押しかけてきて…その…何から何まで…自分のこれからの事は…自分で何とか…」
「娘や運転手の長谷川からも聞いてますわ。うちの娘がね、嫌がる先生と問答を繰り返し、あの子の説得に折れて連れてこられたんでしょ?あの子の強情な性格も知り尽くしてますから。先生の方から押しかけてきたのではない事くらい存じてますから」
母親はマリと名乗った。清楚で気品あるオーラはさすがに社長夫人が纏う物と感じさせつつも、慣れてくるとどこか気さくさも滲み出る。
「娘は疲れたみたい。今夜はもう休ませました。ここには来ないから、ホント、楽になさって」
マリは1本のワインボトルを持ち上げ、悪戯っぽい笑みを見せた。
「飲める?」
瞳は断るが、マリは「飲めるでしょ?」と追って、構いなしにグラスに注ぎ出した。
「先生、ご自分で何とか…と言っても、どうにもならない事だってあるわよ。
そのDV男と別れたいのか戻りたいのか。
もし別れるなら新しいお住まいはどうされるおつもり?それに学校へその彼、押しかけてくるかもしれないしね。
個人の力だけでは、どうしようもない限界があるものよ。ここは一つ、神様の助けと思って甘えてみるのも人生を手にする選択肢よ。
もっとも、彼の元へ戻るおつもりなら、一晩ここへ泊まって彼の頭を冷やさせるだけでいいけど」
マリはワインの注がれた二つのグラスを、一つはテーブルの瞳の席に、もう一つは自分の座ろうとしてる席へ運ぶ。この親にしてあの子あり…瞳はぼんやりそう思っていた。
そして対面して座ると見せかけて、思い出した様に瞳の前へそのワインボトルも置いた。そのラベルを見て瞳は痣だらけの目を見開いた。
「思い出した?」
「あの…コレ、昔…飲んだ事があるワインなんです。思い出したって…どうしてご存知なんですか?」
「貴方がその昔、お付き合いされてた彼の好きなピノ・ノワール種のワインね」
瞳の動悸は早まり、軽い目眩を起こしそうになる。
彼は「甘い、苦い、酸味にコク…すべてがまろやかに入り混じる。タンニンの効いたワインは人生と同じさ」と語っていた。昔、荒木と飲んだワインである。

〜◆〜

「先生。
いえ、ここからはもう瞳さんと呼ばせてもらうわね。
ワインの謎は後で明かすわよ。いつまでも気にしないで。

話は戻るけどまずは目先の事よ。
ウチの主人…今夜は出張でいないけどね、貴方がその気なら主人にどんどん動いてもらうわ。彼、どんな仕事してるか知ってる?
ええ、まずはその不動産。他には?あら、それしかご存知なかったかしら?
まだまだね。あの人も。
ええ、不動産はメイン事業だけど多角的にもっといろいろと手を出してるの。携帯電話の販売なんかもね。
だからお住まいの事も、携帯を変える事も心配しないの。いい?思い切りすべて断ち切るのよ。
学校?それも主人から校長へ言って聞かせるわ。もしその彼が貴方に面会に来ても取り次がない様に。

条件?何故そこまでするのかって?何もないわよ。今は…そう、今はね。
あ、敢えて一つだけ先に条件を言うなら…悠里主演のあの「ロミジュリ」何とか成功させて欲しいって事かな。
あら?驚いてる?母親なら当然の事よ。利用出来る物は何でも利用する。あなたでも主人の会社の力でも。
あら、ごめんなさい。言葉が過ぎたわね。利用だなんて。
そんな力があるならどこかのプロダクションに入れたり、芸能科のある学校へ通わせればって?
それも勿論考えたわ。でもね、あの子がロミジュリと…そして貴方に拘るのよ。あら?聞いたのね、その話は。あの子から。
だからね、『利用』じゃない。謝るわ。『必要』なのよ。私達親子には貴方が」

マリもまた、悠里と同じ血の証を見せる。これもある意味、ダムは放水し通しだ。

「娘も私と性格似てると思うわ。だから瞳さんもさぞや苦労してる事でしょう。こんな風にね、話したい事があると止まらないもの。あの子にも指導してくれてるんでしょ?
『感情は出すんじゃない。止めて溜めて、雪崩を起こす物でもない。溜めて溜めて、溢れてこぼれる物』そうよね?」
「雪崩ではなく、彼女はダムの決壊と言ってましたけど」
瞳にも少し笑って返すゆとりが生まれた。

「雪崩も決壊も同じよ。要は感性と感受性の違いなのよ、私達の脚本と演出の違いはその文字の通りよ。
感性は感じる性質。感受性は感じを受ける性質。
脚本書いてて思ったの。感じ方が物言うわ。演出や演じる役者さんはその『感じ』を受けて表現する力ね。
貴方達は私達親子とは違う。ちゃんと感情を溜めて溜めて、溢れてこぼれる表現も出来るんだから」

急に話の展開が変わった事に、瞳は混乱する。そしてマリの一言に疑問符がついて回った。
「私達…?」
「ありがとう。弟の演出をここまで見事に娘に教え込んでくれて」

南雲麻梨。旧姓・荒木。もっとも、ロミジュリの脚本を書いていた頃は、麻梨恵という名前を使っていたと言う。

〜◆〜

案内された寝室はビジネスホテルの部屋を思い起させた。適度に広く適度に整えられたその部屋はリビングよりは幾らか過ごしやすい。
瞳はそのままベッドに潜り込み目を閉じる。何も考えずに済むように。
これまでの自分にはけして覗く事さえ叶わなかった富裕層の暮らし。心が落ち着かなかった事もあるが、胸のざわつきはそれだけではない。脳内に反復するマリの告白。

荒木史康の姉。会う事のなかった「ロミジュリ」の脚本を書き上げた荒木麻梨恵。当然、娘の悠里も彼の姪という事になる。
彼女達なら荒木の行方を、近況を、何もかも知っているのかもしれない。
会いたい。会って許しを乞いたい。
会って何を言えば良いのか。自分に彼と会う資格はあるのか。
何も考えずに眠りに落ちたい。無理な話だった。

〜◆〜

瞳の大学時代はアルバイトに勉学、劇団フォレストでの芝居の稽古に明け暮れていた。
高校時代から演劇部に属するも、取り立てて打ち込んでいた訳ではない。ある時、下北沢の劇場でサークル仲間に誘われて観た芝居に心を奪われた。それが劇団との出会い。
この時の舞台は「ロミジュリ」ではなかったが、既に「ロミジュリ」も主演女優を何度か変えながら公演を重ねる看板作品ではあった。
大学の演劇サークルから研究生と称して訪れた瞳は程なくして演出を務める荒木と出会う。
『叫ぶのではない。囁くようにだ』と、荒木の方針は常に一貫していた。無論、ロミジュリの演出も、けしてシェークスピアのそれとは異なる。現代版という設定だけではない。物語の世界観が彼のポリシーに染め上げられている。

「感情は『出す』のではない。感情を出さぬ様にして尚、溢れてこぼれてしまうのだ」

とはいえ生の舞台だ。テレビドラマや映画の様に台詞をマイクで拾って、大きな画面で役者とリンクさせるのとも違う。舞台である以上、囁きは無謀である。台詞は観客に聴こえねばならないが、叫びではない。その矛盾を埋めるのが荒木の求める演技力だった。

瞳は次第に劇団にのめり込んで行く。大学のサークルには顔を出さなくなり、仲間達からも遠去かる。
専門職の集団ではない劇団フォレストは、老若男女のメンバーがそれぞれの仕事や生活を持ち、お互いの人生を交錯させている。それは瞳がこれまでに知る「青春」とはまるで異質の日々。
自由な若者が遠い夢を白紙の上で見るのではない。既に社会へ船出を切った大人達が、好きな事に打ち込む姿。守るべき物も持ち、自分も見失わない様に生きている。瞳はこの夢の質が違いに居心地の良さを感じていた。

荒木は結婚しており放送作家として活躍している事もその頃に知る。日頃から荒木は
「俺は舞台の方が好きなんだ。本当はそんな物書きなんざ姉貴に任せてればいいんだよ。役者なんて売れたら売れたでいいだろうけどな、周りに持ち上げられると自分の実力を勘違いしてしまう。本気の演技はこいつらの中にこそある」
豪快に笑いながらそう言っていた。

「武沢くん!何度言ったらわかるんだ!そこの場面は違うだろう!」
「荒木先生。わからないよ!この場面、女ならそういう行動を取るもの…」
「すべての女がそうとは限らないだろ!いいか?他の女はどうでもいい。君の個性も一切出すな。今、君はその役の女性ってだけなんだ!」
荒木の演出とも何度も衝突した。
他の団員も入団したての研究生を何度も生意気だと注意した。しかし荒木は周囲を宥め、辛抱強く指導を続けた。瞳の気性の荒さの裏に、向上心の強さを見透かしていたのは荒木だけだったのかもしれない。
瞳が試験やどうしても抜けられないバイトのシフトで稽古に出れない時も、個別に指導する時間も作ってくれた。それは演技一辺倒の荒木には当然ではありながら、特別扱いであった事も否めはしない。荒木もまた瞳との根気と生命のぶつかり合いを楽しみ、賭けていた様に見受けられる。
苦悩を乗り越えた場所に歓喜と充実がある。瞳が強烈に荒木に惹かれてゆく事も無理はなかった。

そうして瞳は、劇団で久しぶりに公演するロミジュリの主役の座を射止めるに至る。
舞台監督は池田といい荒木とも同期。道具から音響、照明、すべてに口を出す完璧さで知られる池田も瞳の演技のクォリティの高さに肝を抜かれての抜擢である。
役を演じている瞳は、まるで違う人格に支配され、まるで違う道を歩んできた完全な別人。荒木も愛弟子の主役を心から喜んでいた。情熱溢れる日々に、瞳の潜在能力は更に引き出されてゆく。

「よく奇跡的な場面に会うと『何々の神様が降りてくる』なんて言うだろ。今の俺には君がそのまま『芝居の神』の様なものなのさ」
荒木の言葉がリフレインする。

主演女優が現役女子大生という話題性もあり、公演は5日程度だったが連日盛況を重ねた。その道のスカウトも何人かが足を運んでいた様だった。
最終日を終え、劇団員達と「千秋楽打ち上げ」を下北沢の居酒屋で開き、成功を喜び合って大いに盛り上がった。
「今日はプロダクション関係者もいたみたいだからね、瞳ちゃんの将来の扉も開けたんじゃないのかい?」
ベテラン俳優の藤本が声をかけてきた。
「そんな〜ホントの女優なんて無理無理!私は親には教師になれなれ言われててさ〜、そのレールに乗る訳じゃないけど、教師か…多分普通にOLでもやるんじゃないのかなぁ…女優なんて考えた事もないよ、藤本さん」
女優…好きで芝居をしているが、そんな可能性を考えた事はない。しかし、確かにそろそろ就職活動は本格的に動き出さねばならなかった。芝居に打ち込んでいた分、同級生よりスタートが遅れている。
隣のテーブルにいた荒木に目を配ってみる。彼は日頃からプロの役者より街の劇団員の方が本気だ、と言っている。荒木なら何と答えるか気になった。
だがこの話に横から割って入ったのは主役・露未を演じた石本だった。
「そうだぜ、藤本さん!スカウトは注目の俳優、この俺の演技を観に来てたんだよ!」
「お前の演技なんざ、瞳ちゃんの引き立てに過ぎねーよ。AV業界でも行けよ」
席は笑い声に沸いた。荒木は笑顔を浮かべ黙って焼酎を飲み続けている。

翌日は仕事がある者もおり、打ち上げは一軒だけで解散となった。
「お疲れ様でした〜〜!次回作品も頑張りましょう!」
店を出て石本が能天気に締める。そんな彼の持ち味に、瞳も劇団員も支えられてきた部分もある。憎めない男だ。
彼のその掛け声に便乗し、瞳も声を張り上げた。
「あの〜…私、みんなに言えなかった事があります!」
「お!なんだ!主役二人で交際宣言か〜!」
「冗談やめてよ!藤本さんってば!
…これから私、しばらくは就活に専念します。だから…稽古もあまり来れなくなるの…」
劇団を辞める訳ではないが、伝える事が筋かと思った。折角の空気を壊したかと言った後に悔やみもしたが、しかし、重い空気も一瞬。すぐに舞台監督の池田がフォローした。
「まぁ、瞳ちゃんも大学生だ。よく考えたら当たり前だよな。何も辞めるって言ってるんじゃねーしな。また遊びに来てくれよ」
そして同じ、今回主役に選ばれなかった女優達のフォローも忘れない。その辺の気遣いと場の軌道修正は大した物だった。
「それにな、今回のロミジュリは最高だったけどさ、瞳ちゃんが休んでる間に真弓も唯もみんなまた芝居上手くなってるってもんよ!」
夜の街が、世界の全てが、朧げな彩りのオーブに包まれている様に輝いていた。

「武沢…」
呼ばれて振り向くと荒木がそこにいた。
「荒木先生、どうもお疲れ様でした」
「お疲れ」
荒木は短く返した。
「少し…歩くか」
瞳も本心はもう少し余韻の中を荒木と過ごしたいと思っていた。暫しの沈黙の後に、荒木は寂しげに問いかけてきた。
「もう舞台には上がれないのか?」
「いえ、先生。お芝居を止めようとは思ってはいませんよ。これからも皆さんの様に自分の道を進みながら頑張ってゆきたいと思っています。やれる限りね」
瞳は明るく微笑んで答えるが、荒木の顔は街のネオンに目を向けていた。
「君は才能がある。名を売るまでは苦労するかもしれないが、本格的に女優を目指そうなどとは思わなかったか?」
「私は自分の分はわきまえてるつもりですよ、先生」
「そうか」
荒木が何か言いたげでいる事はわかったが、敢えて何も言わなかった。瞳の演技が荒木の期待に答えられた様であった事も、二人で夜の帰り道を歩いている事も瞳には嬉しかった。
「まだ成人したばかりの君に、そんなに深酒をさせるつもりはないんだが…君の主役の成功の祝いに開けたいワインがある」
ハシゴの誘いである事はすぐ察した。
「へ〜、さすがに大人ですね。私はワインはまだそんなに飲んだ事はなくて、憧れちゃいます」
「ワインでもウィスキーでも、熟成した酒には人生と似てる物を感じる。口の中に広がる甘い、や苦い…コクも混じりあっているだろう。君は同じ年代の人間と合わないと感じた事はなかったか?君は早熟過ぎたんだよ。熟成するのが周囲より早かったのさ」
高校時代からの自分に対し、的を射る答えだった様に思えた。そして荒木が自分をそこまで見てくれていた事が気付けて嬉しかった。
「それで?そのワインは飲ませてくれるんですか?」
「もし…君さえ良ければ…だ」
「ええ、構いませんよ。いえ、むしろ嬉しいです」
「俺の部屋でだ」
「え?だってご家族が…」
「家とは別に、仕事場の近くに借りてるマンションがある」
何を意味しているかも悟った。何故にここまで不器用でな男なのだろう。そう思いながらも瞳は、自分の思いを制御出来ずにいる事もわかっていた。

あの夜から長い時間が過ぎていた。

〜◆〜

遠い記憶の旅から眠りに就こうとした時、部屋のドアが遠慮気味に開いて誰かが入ってくる気配を感じた。
「起きてる?先生」
人影は悠里だった。

「お母様から、貴方は疲れた様だからもう寝たって聞いたわよ」

「あぁ、違うのよ、それは。女優を目指すなら肌のケアは十代から気をつけろってママがうるさくてさ」

「ふぅん…私の親とは教育方針も環境も、何もかもがホントに違う。
ま、今夜は何にせよ、貴方とお母様には助けて貰ったようね。言葉に甘えてしまって…礼を言うしかないな。
それよりもいいの?寝なくて」

「いいの いいの。早く顔の痣…良くなるといいね。
それより先生。今夜だけじゃないわ。暫くはここで暮らして。両親もそれは承諾してるから」

「そんな訳にはいかない。彼には一晩だけの家出で頭も冷やすと思うから」

「駄目。先生、もし何らかの自尊心が帰ろうとさせるなら、そんな自尊心は捨てて。
もし先生が彼氏さんをまだ好きだとしても…捨てて。
あの部屋から何か持ってきたい物ある?衣服以外に…そうね、例えばアルバムとか…
家具や家電なんかはもうあの男にあげちゃいな。父が新しいの用意してくれるから」

「何を言ってるのよ。
そこまで大袈裟な事する訳にはいかないし、そこまで貴方達家族に甘える訳にはいかない。第一、私の人生、何故貴方に決められなくちゃいけないのよ。さ、もう寝ましょう」

「駄目よ、先生。もう少し話に付き合ってよ。先生はもうあの男の元へ戻っちゃいけないってば」

「わかったから。今日はもう彼の話も荒木先生の話も、男の話はウンザリなの。ホントに今日は驚かされたわよ。貴方たち親子には。お願い、寝ましょ」

「ママから聞いた?叔父さんの話。ママはよく、子供の頃の話を聞かせてくれたわ。いつも「お姉ちゃん、お姉ちゃん」って、ママの後ばかり追いかけてたってさ。
ねぇ、先生?私は昔から友達らしい友達もいなくて、体調崩して修学旅行も行ってないしこういう風に夜の寝室で恋バナとか青春ゴッコするのが憧れだったの。
舞台の話でもいいわ。あと少しだけ付き合ってよ」

「10分だけよ」

「やっぱり!叔父さんの話、もっと聞きたいんでしょ!」

「馬鹿言ってるんじゃないの」

「またまた〜、強がっちゃって」

「それより友達いないの?貴方?」

「友達ね…表面上はいるわよ。でも本当に心開ける人はいない。演劇部のみんなも友達というのとは違うわ。
そういう先生はいたの?友達?何となく…同じ匂いを感じるんだけど」

「まぁ、私も似た様な物ね…」

「先生…初めて男の人に抱かれた時はどんな感じがした?」

「貴方ね…教師に普通それ聞く?しかも突然…フッ
まったく…どう答えたらいいのよ…
貴方は好きな人いるの?」

「好きだったのかなぁ…よくわからない。お付き合いしてた人はいたよ。彼とも寝てみた。クラスは別なんだけど…小林鋭士君っているでしょ?」

「ちょっと。小林君って…あの少し不良ぽくて目立つ子でしょ。貴方とは不釣り合いに見えるけど?」

「まぁね。彼は両親が離婚してお父さんと暮らしてるんだって。お父さんは何して働いてるのかはよく知らない。ただ、彼はウチの両親は絶対に交際は許してはくれないタイプね」

「それで?どうだったの?そっちの方は?」

「うん…気持ち良かったとは思うわ。でも彼って、悪ぶってる割には慣れてはいなかったよ。初めてだったけど、上手くはないんだってわかった。オーガズムを知りたいの。だから彼とはもういいかな…って」

「は?ちょっと貴方、何考えてるの?ベッドシーンでも演じる気?それに…彼が好きでセックスしたんじゃあないの?」

「好きだよ。少なくても嫌いな人とは寝たりしない。でもね、先生。私は恋愛もセックスも経験ないとさ、演技に生きないと思ってるのね。芸の肥やしって訳。私が恋する理由なんてそんな物」

「貴方…もしかして小林君と付き合ったのもロミジュリの身分違いの恋を…」

「うん。実体験があった方がより演技の幅が広がるかと思って…悪い?」

「呆れる…まぁ、今日は一宿一飯の恩もあるし、聞かなかった事にしてあげるわよ」

「先生こそ叔父さんを裏切ってあんな男の元へ行ったのは何で?他の劇団の演技に目移りしたの?外の世界も知りたいと思ったからとか、何かあったんじゃなくて?
先生に私の事を言う資格 なんてないわよ」

「…そうかもね」

「ごめん、言い過ぎたかしら…」

「罵るのも謝るのもやめてちょうだい。本当は貴方の顔を見るのも嫌な位に、苛立っているのは私の方よ。ひどく混乱してるんだから」

「話題変えましょ。そう、さっきの質問の答えは?初めて男の人に抱かれた時、どうだった?」

「まったく…貴方ってゆう子は…そうね。ジェットコースターあるじゃない?あの急な傾斜をカタカタと乾いた金属音が鳴って登ってゆくでしょ?最初の彼が私の中に入るまではその傾斜を登っていく様な気分だった」

「ふふ、面白い。そして?彼が挿れてきたら?」

「決まってるじゃない。後はそのジェットコースターは高速で下ってゆくだけよ」

「先生!面白過ぎ!そっか、何事も『初めて』はジェットコースターだよね!」

「さ、もう10分よ。お話はおしまい。変な快楽に溺れたりしたら駄目よ。寝ましょう。明日から本番まで猛特訓よ。痣が引かなくても学校へは行くから」

「望む所。それでこそ憎き鬼監督よ。おやすみするね。あ、そうそう、一宿一飯じゃないからね。先生の落ち着く所が決まるまで監禁するから」

「何を言ってるの!寝るわよ!出ていきなさい!おやすみ!」

「おやすみなさい、先生」

〜◆〜

文化の日。市の文化顕彰記念式典当日を迎えた。市の文化センター内は、絵画、写真、書、盆栽…市民の様々な作品で溢れている。その式典の中でホールでは市内の学生達による演劇や合唱合奏などの披露も予定されている。
瞳の演出、悠里主演、渾身の「ロミジュリ」とうとう本番の日を迎えた。

結局 瞳は、現在も南雲家に居候していた。悠里に演技指導を打ち込んでもらう為という大義名分。南雲家の余りある好意に甘え、壮一郎のDVから保護を受け続けていた。同時にそれは、瞳にとっても都合の良い体裁に過ぎない。
その間、悠里の父親で南雲グループを牛耳る南雲達央とは一度も会った事がない。多角的に事業を営む彼は常に出張続き。悠里のどこか芯が強く、また陰を感じる性格は家族愛の枯渇から由来しているのではないかと分析する事もあった。元より、どうでも良い事ではあったのだが。
壮一郎はもうどうでも良かった。荒木へ繋がる道を探し続けていた事は自分でわかっている。しかし奇妙な共同生活をしている中で、悠里とマリの親子はけして瞳に荒木の近況を聞かせる事はなかった。

現代版「ロミオとジュリエット」は、衣装面において低予算で済む事が演劇部にとっても助かっていた。ほぼ現代の若者の恋愛を等身大で演じる作品である。衣装は私服でも遜色なく通せる。身分の違いを越えた愛とはいえ、主役・樹里を演じる悠里のセレブな衣装も地の生活そのままでいける。
楽屋で準備している部員達も、開演時間が近づくにつれ高揚感を増していた。その光景を眺めながら、瞳はいつしか自分の持つ穿った感情が心の中から消えている事に気付く。幾つものプリズムに屈折した光線が、真っ直ぐ素直に、貫く様に。
当然瞳自身、そう感じている理由にも認識している。
愛弟子達の晴れの舞台に対する希望や期待だとか、過ごしてきた時間の集大成たる万感の思いであるとか、そういう類いだけではない。むしろその部分は小さい。
悠里やマリから連絡を聞いた荒木が、会場のどこかにヒッソリと足を運んでいるかもしれない。もしかしたら荒木が舞台裏に激励と祝福に現れるかもしれない。勘が鋭く働く悠里には見抜かれぬ様に振る舞っていたが、所詮それが本心だ。心はざわついている。

開演時間が近づいてきた頃だった。楽屋を出た若き役者達が舞台裏に向かう。廊下で瞳は一人一人に声をかけ続けた。主役露実役の男子生徒には
「いい?貴方は普段通りに、激情狂おしく演じるのよ。市民の皆さんに、今までの高校生演劇で最高の作品、そして最高のイケメン俳優の印象を与えてね」
とエールを送った。
そして最後に悠里が楽屋から進み出てきた。透明に澄んだ、優しくそよぐ風まで流れ出た様に感じた。
「先生」
瞳は、自信に満ちた悠里の姿に、数十分後には紛れもなく拍手と喝采に包まれるであろう予感に安堵する。
「綺麗よ」
混ざり飾りのない素直な言葉が溢れた。
「ようやくこの日を迎えたわね。やり残しのない様に。行ってらっしゃい」
「うん。私、先生を超えてくるから」
悠里はまるで緊張とも無縁な、これまでで最も輝かしい笑顔を瞳に向けた。
「10年早いわよ」
「叔父さんの演技…免許皆伝って言ったじゃん。もう今から感情は溜めて溜めて、溢れんばかり。そして今日、弟子は師匠を超えるのよ」
「早く行くわよ。みんな待ってるんだから」
悠里は笑みを浮かべたまま頷き、右手を差し伸べた。握手を交わそうという意思表示だった。不思議だった。青春の青々としたすべての行為を嫌ってきた瞳も、同じ気持ちでいた。
力強く握り合う掌。瞳は悠里の指の細さ、しなやかさに触れ、つい声をかけた。
「がんばれ。あの頃の私」

〜◆〜

幕が上がり、物語が始まる。
高校生の演劇部が演じる芝居は例年、来年のコンクールの行方を占う前哨戦として、市内の関係者の注目を浴びていた。暗いホール内、ほぼ満員である客席を瞳の眼差しには羨望と懐かしさも隠せなかった。
「おぉ、露実。何故にあなたは露実なの…」
スポットライトから放たれる一筋の光のトンネル。悠里の台詞はよく通っていた。瞳は舞台の袖から固唾を呑み、見守っていた。他の演者の生徒達は反対側の袖口で待機している。
「荒木先生…始まったよ」瞳は胸の中で祈る様に語りかける。瞳へ近寄る男の気配にも気付かずに。背後からいきなり首に腕を回され引き寄せられる。逆らえない重力の歪みに気が動転するも、悲鳴をあげる事だけはどうにか堪えた。
男の顔は見えなくても、それが誰なのかはすぐに理解できる。全身が恐怖で粟だった。
「よぉ、瞳先生…俺にゃ随分酷い事してくれといて、自分は生徒の芝居のギャラリーかよ…」
身動きが取れなかった。
「お前…いつ俺と別れたんだよぉ…マンションの管理人に、お前が退去の届けを出したから、すぐ出てゆく様に言われたんだぜ?あんまりじゃねーかよ」
「ちょ…ちょっと…離して。離しなさいよ。今、あんたと揉めてる場合じゃないの、わかるでしょ?」
「やっと見つけたんだ。離すもんかよ。学校へ行っても取り次いでくれねーしさ…ずっと探してたんだぜ。教え子の芝居をブチ壊されたくなければ言う事聞けよ」
舞台の上では露実と樹里が逃亡を大人達に阻止される場面が進行している。騒ぎを起こす訳にはいかない。こうなると瞳は、いつもの自責の念に支配された。自分の選んだ道だ。荒木の元を去った報いだ。そう、結局はこの男の闇へ戻るのだ。
「お願い。もう逃げないから場所を変えて。言う事聞くから…」
「よしよし、よくわかってんじゃねーか」
壮一郎は羽交締めは解いたが、瞳の右腕を力強く掴み、無理矢理引き連れて蟹歩きに移動を始めた。
そこへ通路の角の陰から長身の男が現れた。暗がりの中でダークスーツを着こなしているのがわかる。顔つきはよく見えはしなかったが、引き締まった輪郭に端整な顔立ちである事が伺える。男の鋭い眼光だけが白く光っていた。
「先生をどこへ連れてゆく気だ?」
深い地底から声が低く響いた様だった。
「誰だ?テメェは?」
「まったく…口の聞き方も知らないのか?君は。女性に暴力は良くない。離すんだ」
男は余裕という赤マントを纏い、闘牛士の様に壮一郎の威嚇を受け流す。
「これは俺とこいつの問題なんすよ。関係ない人は引っ込んでてくれないかなぁ〜」
「そういう訳にはいかない。私は南雲達央と言う者だ。彼女はうちの娘が信頼してる大事な先生であり、私の大事なお客様でもある。何より女性に乱暴を振るう輩を黙って見過ごす事が出来ないタチでね」
悠里の父親!瞳は驚きで目を見開いた。
「客〜?客ってどういう事だよ?あ?瞳、お前も答えろよ」
「マンションの契約をしてる不動産会社の社長さんよ」
「先生は君の事を同居者届けを出してはいない。契約を結んでいるのはあくまで武沢先生だけだ。先生の契約が切れてもあそこに居座りたいと言うのであれば、君の名義で再契約を結んで頂こう。勿論、敷金等は通常通りに頂く事になるがね」
壮一郎は重ねられる正論と屈辱感から何も言い返せずに黙り込み、ただ野犬の様に南雲を睨み続けている。
「さ。その手を離すんだ。でなければ君が後悔するぞ」
「ほぉ〜う…どう後悔するってんだ?見せてもらおうじゃんか!」
壮一郎は言いながら瞳の腕をつかむ手を離し、そのまま南雲に殴りかかった。言葉で自分の願望を届けられない時、暴力で意思表示しようとする幼さは瞳に示す時と同じだった。瞳は両腕を抱えて、肩をビクリとすくめる。目を閉じた直後にパチーンと音が響いた。馬鹿、この男はなんて馬鹿なの?とゆっくり瞼を開けば、壮一郎の拳は南雲の片手にキャッチされている。
「くっ…」
壮一郎は舌打ちしながら、押しても引いても離れぬ南雲の握力からの拳の逃げ道を探っていた。
「俺は瞳を離しただろ!離せよ!訴えるぞ!」
「君は何か勘違いしていないかい?マンションの住所で住民票も移動しているかい?
マンションの件にしても、今君から殴りかかってきた事にしても、そして女性の顔に何日も消えない様な痣を残す事にしてもだ。何一つ正当性は感じられないんだが…」
南雲の背後に駆け寄ってくる二人の人影が見えた。
「社長!」
呼んだのはあの運転手の長谷川だった。もう一人は警備員である。壮一郎は観念した様だった。
「南雲社長、誠に申し訳ございませんでした。関係者以外立入禁止の所、顧問の先生に呼ばれてると言い張る物ですから…」
警備員が弁解した。
「とにかく大事になる前で良かった。長谷川さん、後は頼んだよ。さ、先生。ウチの娘の芝居を見届けに行きましょう」
瞳はあまりの出来事に呆気に取られていたが、そうだ、芝居は続いているんだと我に返った。だが、まだその場に呆然と立ち尽くしている。
壮一郎は何か泣き言を吠えながら警備員と長谷川に連れ去られて行った。その後ろ姿を見送りながら、これが壮一郎との終焉となるんだろうなと感じている。南雲はただ黙って瞳が歩き出すのを待っていた。
「さよなら。あの頃の私」

〜◆〜

「先生、本当に何と御礼を申し上げれば良いか。娘をここまで熱心に指導してくれて」
舞台の袖で意外な男と一緒に演劇を観る事となり、瞳は居場所に困っていた。
彼はそう言葉を発しながらも、視線は悠里に釘付けである。
「御礼を申し上げるのはこちらの方です。何から何までお世話になり、そしてつい今程まで…
それに私の指導なんて…嫉妬と嫌悪の塊でした。彼女があの場所に居てスポットを浴びているのも、彼女自身の努力と才能です」
悠里の演技は本当に素晴らしかった。完璧だと思った。
演技の評価など、記録を競うスポーツやどちらが強いかを争う格闘技とも、美しさを比べる演技種目や芸術などともまるで違う。役の人間の感情が観客にどれだけダイレクトに引き込ませるかで分かれる。そして録画した動画を後で見る事も出来るが、基本的にはその時その時のタイムリーな演技にこそ真実があると信じている。その時に何の先入観も持たずに役の人生に入り込ませるか。人の心、魂までをも震え上がらせるか。

最前列にはマリの姿も確認できた。
「あの…いいんですか?奥様の隣へ行かなくても?」
「ありがとう。今日は私は完全に黒子なもんで。ここで観ていたいんです」
南雲はその場に足を固めてしまったかの様に直立し続けていた。
「私は彼女のこの舞台に対する情熱を、自らの持つ力をすべて注ぎ込んででもバックアップすると決めていました。先生の演出がその必要条件の一つだったのです。私にとっては当然の事だったのです。親馬鹿と言われようとね」
南雲は囁く様に言った。それでも舞台の上の悠里から目を離そうとしない。
「マリさんも同じ様な事をおっしゃってましたね。これで来年のコンクールの主役も演じるのはほぼ決まりだと思いますよ。彼女は先天性の何かを持ってます。
でも、私にはわからなかった事がある。荒木先生の作品への思い入れ…そして以前の私の舞台に焦がれてくれたという経緯は聞きました。それにしても、特に上のコンクールに繋がる訳でもないこんな一つの市の文化記念式典に彼女が固執していたのかと。
いえ、けしてこの式典の舞台を馬鹿にしている訳ではありません。彼女のこれからのキャリアを思えば一つの通過点に過ぎないだろうと思うこの舞台を、彼女はまるで集大成の様に取り組んでいた。そう、鬼気迫るとでも言うか…」
南雲は悠里の演技を見つめたまま黙っている。瞳は思いを口にした事を後悔した。そうだ、きっと南雲は忙しい合間を縫って今日のこの舞台を観る時間を捻出したに違いない。
集中したいのだ。そう考えを改めて「すみません、観劇の邪魔をして」と一言呟いた。

物語は身分を越えた男女の、許されぬ悲恋の国内現代版である。シェークスピアの原作に忠実な部分もあれば、今風にアレンジした部分もある。
ストーリーは佳境に差し掛かる。主役には当然男側もいるのだが、悠里の演技は物語が進むに連れ、次第にその「鬼気」が研ぎ澄まされてゆく。今、世間で持て囃されている10代女優でもここまでの圧巻の演技をこなせる女優がいるであろうか。感情は自ら出すのではない。出さない様に食い止め尚、溢れてこぼれ落ちるのだ。沈黙の「間」も絶妙にこなし、悠里のそれは見事に体現されていた。
南雲はポツリと言った。
「あの子は…義弟の演出に魅かれたのではない。先生、あくまで貴方だった。彼女のこの物語に対する熱の入れようは…貴方の為だったのかもしれない」

「え…?」

場面は二人の男女の悲しい結末に至った。
樹里は父親の息がかかる病院で、自分の言う事をきく医師にニセの死亡診断書を書かせる。この世にいない者としてしまえば、露実と誰も自分達を知る者のいない世界へ逃避行出来る。
それを知らない露実は樹里が死んだと思い込み、院内の劇薬を盗み出し飲み込む。
苦しみもがく露実の前に樹里が駆けつける。樹里の腕に抱かれ、樹里が生きている事を驚いて見上げ露実は、何かを語りかけようとして虚空を睨んで息絶えた。
院内が騒ぎ出す。
樹里は悲しみのあまり、涙を流したくても流せない。悲しみが押し寄せた。悲しみが溜まり出した。台詞はない。騒ぐ看護士や医師達を後に振り返り、人知れず屋上へ上ってゆく。
心の器の中には悲しみが溢れているのがわかる。表面張力で膨らんだ液体の様に。
病院の屋上から飛び降りる演技。まるでそこが本当に屋上の様に思え、瞳にも南雲にも、悠里は底の見えない奈落へ身投げしたかの様に思えた。
溢れこぼれた悲しみは、肉体をこの世に残す意味はないという答えを出したのである。

幕が降り、呆然とする時間がホール全体を包んでいた。
やがてスコールの様な拍手喝采が湧き上がっていた。

9月。蝉の鳴き声もいつの間にか消え、替わって夜には秋の虫達が優しい音色を響かせる。深まりつつある秋は彼岸を迎えた。
瞳は3月の年度末をもって高校の講師を辞めており、シルバーウィークの連休を利用して半年振りに悠里達と過ごした街へ足を踏み入れていた。
昨年の文化顕彰記念式典で悠里の演技を観て以来、心に火が点いている。あの時、南雲が言った「貴方の為かもしれない」という一言はずっと胸に残っている。
学習塾講師や時折、文化行事のイベントコンパニオンなどをこなしながら生計を守っていた。本当は劇団にも戻ろうと思っていたが、もう少し、もう少しだけ生活の安定を立て直してからにしようと決めていた。
その目処も立ち、ようやく再出発に気が向かうに当たって、一度マリや悠里に会おう、会って聞こうとしてた事があるのだから。

悠里からの連絡は、彼女らの学校が夏休みに入る直前、7月の近況報告のメッセージが届いたのが最後だった。
「周りも受験勉強を頑張り出しています。私はいよいよ遠くにいる叔父の元へ芝居の勉強に旅立ちの準備を始めます」
叔父の二文字に心が揺らがずにはいられなかった。荒木の現在の居場所を悠里やマリへどれ程尋ねたかったか。
「頑張りなさい」と最後に返信して迷いを断った。
演劇部も今は秋のコンクールに向けて稽古に余念のない時期だろうし、前職場の学校へは立ち寄らない事にした。瞳自身が相変わらず青春の気配が苦手なままであったし。
しかし時には頭を過ぎる。演劇部に今年は新しい部員は入っただろうか?悠里は秋のコンクール後も案外まだ引退せずに、先輩風を吹かせているのではないか?
悠里や演劇部の近況を気にする自分に対し意外だ。
もしかすると彼女は荒木の元へ演技の勉強をしに行くつもりでいるのを、瞳も一緒にどうかと誘っていたのかもしれない。何とも我ながら都合のいい解釈をするものだと滑稽だった。

思えばあの子は…そう、あの子は、あの頃の自分そのものだった。
離れたからこそ、益々そう思える事がある。荒木の言葉がフラッシュバックする。「君は早熟だったんだよ」人生は甘いも苦いもブレンドされて熟成する。酒と一緒なんだ。
ただ一つ違う事もある。
カゴの中の小鳥達は解き放たれると空へ羽ばたいてゆく。瞳はそれでも飛ばなかった。臆病だった。悠里は飛んだ。その違いだ。

飛び立つ悠里はどこへ向かうのか?「演技の勉強」メッセージにはそう残されていた。遠く?もしかしてブロードウェイ?
「まさかね」飛躍する自分の想像に瞳は一人呟き苦笑した。
どれ程想像を巡らせようと、荒木の前に姿を見せる資格は、自分にはまだない。言い聞かせはするが、マリに血縁の真相を聞かされたあの日から荒木の事を思わなかった日もない。

荒木の所在は、悠里やマリに尋ねれば良いではないかと他人が見れば思うだろう。瞳にそれは出来なかったし、あの親子も瞳には伏せた筈だった。南雲にしてもそうだった。そう感じさせる見えない壁で常に遮られている事を瞳は知っていた。

しかし今日は違う。素直になる事にした。強くなる決意もした。その為に南雲家に出向いていた。
荒木はどこにいるのか?
遠くとはどこなのか?
それでもあの親子が口を閉ざすというのであれば、それはそれで仕方ない。新しく踏み出した自分の近況を、彼女達から伝えてくれれば良いだけだ。
もう隠さない。瞳の心は荒木に再会したい気持ちだけが日々強まり、溜めて溜めて、そして溢れんばかりだったのだ。

あの日、南雲家のお抱え運転手・長谷川が運転するレクサスで上った坂道を、瞳は歩き続けた。あの小さな逃亡劇に身を投じた夜を思い出しながら。
相変わらず威風堂々と佇む南雲家が見えてくる。一級建築士が設計したと言うサイバーな城は、プロバンス風な建築に未来的なデザインが組み込まれてる。ここの裕福な城主の支援に、どれ程自分は救われたであろう。
大きな門扉は、自分が鳥カゴの中にいた小鳥だった事を再び思い起こさせる。
今、ここを開ければ自分は再び荒木の元へ羽ばたける。あちらからは悠里が女優の世界へ飛び立てる。
そう思った。

インターホンを押し返事を待つ間、瞳は姿勢を正した。
「ハイ…あら、瞳さん、着いたのね」
おそらくカメラを覗いたマリの声が聞こえてきた。
「ご無沙汰しております」
「お久しぶりね。門扉は今開けるわ。中へどうぞ入っていらして」

爽やかな秋晴れを受けた緑の芝生が、相変わらず新鮮な庭だった。玄関までたどり着き、中からマリが扉を開けた。
「今日は突然、すみません」
「いいえ。なるべく早く貴方には来て欲しかった。いつ来るのかしらと思いながらね。よく連絡してくれたわね。さぁ、中へどうぞ」
「はい、お邪魔します」
マリが自分が来る事を待っていた?来る事を予感していた?マリの言葉が意外だった。が、マリはすぐ目を逸らし、踵を返して歩き出した。
靴を脱ぎ、差し出されたスリッパに足を入れ、瞳は荷物を抱え慌てて後を追った。あの日と変わらず宮殿に映る眩い豪邸の廊下を、しかしどこか冷たく、重く沈んだ廊下を。
「懐かしいわ、この素敵な調度品の数々。その節は本当にお世話になりました。ここで居候させてもらってたあの二ヶ月、何とお礼を言えば良いか」
前を進むマリの背中に向かって言ったが、マリは振り向きもせず黙って歩いた。緊張が微弱な電流となって体中を駆け巡る。そういえばどこかマリらしくない違和感がある。かつての明朗さを欠いたまま、マリはポツリと言った。
「虚像よ。そんな調度品なんてね。御礼なんていいのよ」
今度は瞳が黙るしかなかった。

「どうぞ、かけて」
通されたのは応接間だった。応接間内の書棚を見回す瞳をソファへ促し、運んできたコーヒーを置いたマリも対面するソファに腰を下ろした。
「頂きます。あ…これ、お土産です」
瞳は頭を下げ、手にしていた菓子折りをマリへ差し出した。
「ありがとう。悠里に後で持って行くわ」
言った後で、マリは冷酷な言葉の矢を瞳に向け静かに放つ。
「享年18よ」
一瞬にして時が凍りつく。
部屋の中は天地の逆転を始め、思考が奪われる。やがて込み上げる罪悪感が肺腑の中まで烈火の如く渦巻いた。
「え…今…なんと?」
瞳がようやく口を開いて出た言葉はそれだけだった。
「あの子の人生が長くはないと、私達夫婦はわかってはいた。本人もよ。覚悟はしていたわ」
「え…?マリさん、あの…どういう事でしょうか?嘘でしょ?
だって彼女…七月には荒木先生の元へ演技の勉強に行くと…」
「そう…そんな事、あの子は貴方に言ってたのね」
マリは珈琲を一口啜って顎を引き、上目遣いに瞳を見つめた。澱んでいた決意が晴れてゆく様な眼光。それは限りない哀しみの色に満ちている様にも見えた。
「弟は…史康は既に亡くなってるわ。貴方が劇団を去ってからよ。二人とも助からない…血液の病だったのよ」
「嘘…嘘でしょ?マリさん」
信じたくなかった。信じられる筈がなかった。砂の城が打ち寄せる波に崩される様に、瞳の希望も、そして肉体その物が彫像となり静かにボロボロ砕けゆく。罪悪感の次には果てしない喪失感が襲ってきた。
「冗談が…過ぎるよ、マリさん」

〜◆〜

「弟はね。小さな頃から私の後を『お姉ちゃん、お姉ちゃん』と呼んで付いてきてた。
何をするにも一緒でね。真似ばかりしてたの。
だからよ。私がお芝居の世界に飛び込んだのも彼が真似して付いてきたのは。大人になっても相変わらずだった。
でも私は脚本の道を歩んだ。文章を書くのも嫌いではなかったのね。彼も当然真似して来たけど…実際には放送作家の道へも進んだ訳だけど。演劇の中ではやはり彼は脚本よりも演出だし演技だったのよ。実際はね。
そうして姉と弟で『ロミジュリ』を完成もさせたわ。
その頃の達成感も二人で味わった物だけど…でもやはり私の中では、弟は幼い頃に『お姉ちゃん、お姉ちゃん』と後を付いてきてた印象が強かったわ。今でもね。

主人はね、多角的に事業を営んでるって話はしたわよね。この市内では不動産がメインよ、確かに。
でもね、実は芸能プロダクションにも一役絡んでいるの。主人と私の馴れ初めなんてそこから始まってるのよ。
私達の劇団にも…もちろん様々な公演にも多額の出資をしてくれてね。あ、その頃はまだ亡くなった義父が現役で、彼は専務を務めていたわ。
主人とは…もうすぐ離婚するの。
元々ね、私達の愛は破綻していたわ。強いて言うなら一人娘のあの子だけが繋ぎ止める唯一の存在だったのね。私も主人も、悠里の事は愛した。弟もよ。そもそも彼女の名前の由来は樹里から一文字貰ってるんだから。韻も似てるでしょ?
私も主人も…そして弟も…悠里には女優になって欲しいと願っていた。そうなるべく、教育もしてきたつもりだったの。わかるでしょ?子供に夢を託す大人の気持ち、大人の事情。
いや、貴方にまだ子供がいなくたって、生徒に物事教える時ってそういう気持ち湧かない?
あらそう…ま、いいわ。とにかく、そういう事だった訳よ。

弟は妻子を持ったわ。そして都内に残り劇団ともいつまでも切れなかった。
私は主人に付いてこの街へ越してきたけど、彼も都内の事業…芸能関係ね、そちらの方で殆どこの家にも帰っては来なくなったわ。
わかってはいるの。仕事よりもオンナよ。週刊誌でスクープされた事もある。そう、売り出し中の女優だったからね。
まぁ、遊びではなく本気ではあったらしいけど、とにかく娘の事だけは責任を持つと約束してくれたわ。

その次には弟から聞かされた、貴方の才能。貴方の存在。貴方への愛。
まったく…男って何でそうなの?と世を呪いたくもなったわ。
でもね…私にも恋人が出来た。彼は作家よ。脚本と原作の違いはあれど感性…そう、いつか話したわよね、感性。感性が合う所は居心地が良かったし、何かこう…救いだった。

そうして私達大人はそれぞれ別の方向を向く様になったけど、その中心には悠里を置いた曼荼羅の図の様だったわね。
悠里が早熟だとか、大人びて生意気に見えたとか、貴方が長く持っていた彼女に対する印象もそこが源泉かもしれないの。いいのよ、誤魔化さなくても。別に責めてるんじゃないから。
弟は貴方と別れてから程なく離婚もしたわ。彼は嘘がつけない性格だったのは貴方も知っているでしょう?奥さんには言ってたのよね。で、結局全部失って…病気もわかったわけよ。
最期は…ずっと私の後を付いてきた幼い子供のままよ。悲しくない訳がないじゃない。

そして悠里も…

何で?何であの子なの?と、私はずっと神様を憎んだわ。遺伝性の病ならあの子の前にまず私じゃない。主人も恨んだ。あなたがその病気になればいいのにともね。もうこの世のすべてがどうなっても良かった。その頃はね…

ある日ね、悠里と主人と三人でこれからの治療生活の事を話し合った時の事だった。
主人も私も、どんな支援も惜しまないから悠里の望む事を全力で助けようとは決めていた。
でもね、あの子は何て言ったと思う?笑っちゃったわ。生物の子孫の存続の話をするのよ。
叔父さんには子供がいたけど…つまりあの子にとっては従兄弟に当たる訳だけど、『あの叔母さんではきっと演劇の世界へなんて関わらせないと思う』なんて言ったのね。
次には、『パパは新しい奥さんと子供をまた産むチャンスはあるかもしれない』などと話し出してね。その時の主人の顔ときたらもう、忘れられない。
『ママは…ママは再婚しても子供はもう無理かもね。私がいなくなったら、ママが残すDNAが何も無くなる』なんて事も言うのよ。
主人はその時、何か言ったわ。俺にとっても子供はお前だけだみたいな事をね。そしたらさ、あの子…『パパは男だから母性本能って物はわかりっこない』なんて言ったのよ。
私だってまだ女現役のつもりではいたけどね。何も言える雰囲気じゃないじゃない。三人であの子がどうしたら生きてゆけるかを話し合ってるのに、あの子唯一人だけが運命を受け入れる覚悟をしてるんだから。
そしてあの子は続けたわ。提案があると。
『ママのDNAをね、継いでくれそうな舞台女優さんがいるんだ。ママのDNAは作品よ』
すぐ弟が愛した貴方だとはわかったわ。貴方の芝居を観て、悠里が惚れ込んでいた事も知っている。幸いにして、貴方がこの街の高校教師で演劇部顧問をしていた事も知っていた。
弟の演出と私の脚本…悠里は貴方を私が残すべきDNAだと言ったのよ。貴方を表舞台にまた引きずり出してね。
なんて優しい子なんだろう。そう思ったわ。心の底から。悠里の『ゆう』の字は優にすべきだったわねなんて、切なさを誤魔化す為に言った事も覚えてる。
そしたらね…あの子はこう言った。
『いいの。私は最期まで悠々自適に生き抜きたいから』
涙が止まらなかった。
でもその時点では主人も私も、まさか本気とは思わなかった。本気だったのよ、あの子は」

瞳はようやく南雲達央が公演のあの日、舞台の袖口で言った言葉を理解した。
『貴方の為』

「今はね、私も主人も前を向いて歩き出してるの。愛が破綻してるのに、主人と呼び続けるのも可笑しな話ね。
悠里からは多くの事を学んだ。私達二人の間に彼女が捧げられてきた意味もね、本当に二人で考えてきたわ。
今は新しい生活の為にお互い、準備を進めているわ。
私達は悲しみをね、溜めて溜めて…溢れるまで溜め続け何度も感情をこぼしてきたわ。弟の教えを、頑なに守ってきた貴方の様に。見事に演じた娘の様に。
今日も感情は抑えてたつもりだけどどうかしら?

さて、次は貴方の番よ。
史康仕込みのその溜めて溜めて溢れる感情…それだけを私は観たいのよ。娘が太鼓判を押したそのシーンをね。
劇団に戻りなさい。怖がる必要なんてないわ。
そしてね…2年後には南雲も出資してロミジュリは映画化する。貴方にはぜひオーディションを受けて欲しいのよ。
こちらの願望ばかり押し付けてごめんなさい。貴方が私や弟のDNAだとか、悠里の遺言じみたそんな話もね、もちろんそれが貴方の希望する事でないのであれば受け流して構わないの。貴方の人生だもの、尊重するわ。
だけど瞳さん。本当は貴方、今でも女優を目指したがっているのは伝わってきてるわよ」

〜◆〜

何でよ。何で黙ってたのよ。
遠くの荒木先生の元へ演技の勉強をしに行くってこういう事だったなんて。
冗談が過ぎるわ。

貴方、昨年のロミジュリ、あれ程最高の演技したじゃない。
あれだけの才能を見せつけられて、貴方に越されたと思って、まだ私だって演れるんだからと負けずに奮起しようと決めたのに。
もうこれで貴方には追いつこうにも追いつけなくなったじゃない。しかも永遠に。

貴方自身の病気の事もそう。
荒木先生の事もそう。
私だけが一人不幸なつもりになってたじゃない。

何だったの?貴方と過ごした時間は?
貴方は本当は何の為に私の前に現れたの?
もしかして天使か何かのつもりだったの?

冗談が過ぎるわ。早過ぎよ。
きっと貴方のお芝居を観て、これからが楽しみだなんて思ったファンもいた筈よ。
いいわ。天国から観てなさい。そのファンをごっそり私の物にしてみせるわよ。

冗談が過ぎるわ。過ぎる。
貴方、一体どれだけの覚悟を毎日して過ごしていたわけ?想像もつかないんだけど。
それに負けない位、私も毎日を生きてみせるわよ。
そしたらね…ええ、きっと死ぬ事だって怖くないわ。貴方に追いつけなくてもね、貴方に負けないわ。
今を…そして未来に繋がる今を生きる演技においては、けして貴方になんか負けない。
貴方はもう過去よ。過去に縛られたりしないわ。もちろん荒木先生にもね…縛られたりしない。
せいぜい二人で天国から、私の芝居を観てるといいわ。
わかった?悠里。わかりなさい。
わかったら返事しなさい。
最期くらい私に先生らしくさせなさい。
そうよ、私が先生なのに…追いつけない程遠くへ行くなんて。

冗談が過ぎるんだから。

〜◆〜

ガタン
カタカタカタカタ…

先生。ジェットコースターよ。
乾いたこの金属音。来たよ。先生。ようやくここまで来た。
坂道を上ってゆくわ。頂上付近ではどんな景色が待ち受けてるの?
先生。
あなたは確かに私より先に生まれ、先を生きたわ。それは経験の差ね。
恋をするのも。
男の人に抱かれるのも。
大学を受験するのも。
主役に抜擢され舞台に上がるのも。
すべて私より先に「初めて」を経験してたわね。
あなたを超えるにはその経験の差は埋められない。

カタカタカタカタ…

先生。
頂上に上ったら、その後はどんな風にジェットコースターは疾走するの?

見て。
私が先生よりも先に「初めて」を経験出来る事があったわよ。
何事も経験は芸の肥やしよ。きっと私はこの経験も活かして、誰にも真似できない「死」の演技を極めてみせるから。

ジェットコースターが疾走した先ではね、叔父さんが待っててくれてる筈よ。
いいでしょう。先生があれ程会いたがってた叔父さんに、本気で稽古を積んでもらうわ。
叔父さんの居場所を教えなくてゴメンね。
だってそれだけは先生に先を越されたくなかったから。
先生に教えたら、先生ってば本当に叔父さんの元へ行きそうな気がしたんだもの。その位の不幸が先生の顔には浮かんでた。
こればかりは駄目よ。私の特権。
病院の屋上から飛び降りるくらいの演技じゃない。本当に「死ぬ」とはこういう演技よという位、目に物見せてあげるんだから。

先生はそちらでもっと芸を磨いてね。そしていつか競演しましょう。
叔父さん仕込みの演技…たっぷり見せつけてあげるわ。こちらはね…叔父さんと再会したら時間は沢山あるんだから。

あ、見てホラ。もうすぐ頂上よ。
風が爽やかに吹き抜けてゆくわ。見晴らしは…空?海?青い世界よ。レールの先は…
どうなってるんだろう?眩しくて見えない。
見えないよ、先生。
光が…
光が眩し過ぎて見えないよ、先生…

〜完〜

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