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天才性をビジネスに落とし込むプログラム「天プロ」を受けた4か月間で、自分に起こった変化。


その人の強みや資質を活かす、桁外れの実績がある山田研太さん(やまけんさん)が「天才性をビジネスに落とし込むプログラムー通称天プロー」を開催するという。

自分のビジネスの幅をもっと広げたい
資質を活かしてビジネスをしていきたい…と思っていたわたしが申し込まない理由は無く、だいぶ前のめりに申し込んだ。
その「前のめりっぷり」にやまけんさんはドン引していたと知ったのは、入ったてしばらくしてからのことだったけど。

ここでは、天プロに入ってからの気づきや、天プロがきっかけで掘り下げることになった自分自身の過去、それらがどのように関わり合ったのか?をつづりたいと思う。

【泣ける映画が嫌い】
「泣ける映画!」みたいに、「泣ける」を枕詞に入れて、煽り文句にするのが嫌だった。
「泣ける映画=良い映画」みたいに言うのはおかしくない?って。
「泣けるかどうか?」なんてあくまで個人の主観なんだから、泣けるから良いってわけじゃない!!って、なぜか憤慨していた。

そうしたら「じゃあ、笑える映画はどうなの?」って聞かれて。
「あれ?それは全然抵抗ないなー」ってなって。

どうやらわたしは、「泣く」という行為に、すごく偏見があったぽい。


起業してからずっと「できること」をやってきた。
・もともと10年くらい経験のあった投資のこと
・投資の動画が売れたメルマガの書き方
・ある程度メルマガからの販売を仕組み化できたので仕組み化の方法
・インスタを学んだら集客やPRができるようになったので、その方法

できることを実践してみたら成果が出て、更に新しいことを学んで実践して、また成果を出す。
その繰り返しで、会社員を卒業し、何とか起業で独立するところまできた。

本当は、他の起業家さんのように、理念を持っていたり、自分の使命のようなものを仕事にできたらいいな…とは思っていた。
でも、飽き性の私はどうしても長く続けることができない。
気になったものにすぐ挑戦して、(失敗することも多々あるけれど)それなりに形にはしてきたと思う。


物事へのこだわりが薄く、適度に器用で、人の目線をあまり気にしないので行動だけはわりとすぐできる。
これはわたしの強みでもあり、コンプレックスでもあった。

もう、これでいいんじゃないか?

ずっと「できること」をやって形にし、収入は上がったし、時間の自由が利く働き方ができるようになったし、3年前の自分では想像もできなかったような生活をしている。
そうやって小さな挑戦を積み重ねて、人生を切り開いてきたんだから。
私にとっては、とにかく「できることやっていく」ことが使命なんじゃないか?

わたしが天プロに入ったのは、ずっとやりたいことがわからなかった自分自身に、そう折合をつけようとしていた矢先のことだった。


【初めて人前で泣いた20歳の夏】
後述するが、私は「泣かない子ども」だった。
保育園でも、幼稚園でも、小中高校の卒業式でも。
だからこそ、人前で絶対に泣かなかった私が初めて泣い日のことは、今でも鮮明に覚えている。
大学2年の夏、入っていたテニスサークルでの夏合宿の飲み会だった。だいぶお酒が入っていたこともあり、理由は全く覚えていないけど、とにかく涙がこぼれた(写真も残っているので記憶違いでは無い)。
酔ってボーっとしてはいたけれど「うわ…わたし今初めて人前で泣いてるわ。」と、どこか冷静に見ている自分がいた。


その時その時に、できることをやる。

これが自分のテーマだと思っていたら、違った。
理由は、グループコンサルの時にやまけんさんに言われて初めて気が付いたんだけど、私を知らない人が私を見たときに「一体何の人か?」が伝わらないから。
言われてみれば、確かに自分が提供しているモノに、何の一貫性も無かった。「ポジショニング」の意味は何となく理解しているつもりだったけど、私の場合メディア毎に使い分けてしまっていたので、インスタ、Facebook、アメブロ、それぞれで印象が違う。

器用貧乏で取り繕うことが得意なぶん、全体としての自分の「捉えられ方」をデザインできていなかったし、デザインしようとも思っていなかった。

「人にどう思われようと気にしない。人は人だし自分は自分」
そう思える自分の性格を、人と比べてモヤモヤすることが少ないから“良いこと”だと思っていた。
ところが!!
どうやら「人と自分を比べること」と「人からの見られ方を意識すること」は全く別のことだったらしい。


【坂本龍馬になりたかった14歳】
当時(今も)世界中で大流行していた中二病に罹患していた14歳の私は、坂本龍馬に憧れて、本気で坂本龍馬みたいな人になりたいと思っていた。
「世の中の 人は何とも云わば云へ 我が成すること 我のみぞ知る」
この歌のように、「人目を気にすることなく、常識という枠にハマることなく、自分の意思を貫く生き方をしたい」と文集にまで書いた(恥)。

だけど今思えば、坂本龍馬みたいになりたいわけじゃなく、人と向き合うことが怖くて避けようとしていただけ、という一面もあったと思う。
人にどう思われるか?を気にしないんじゃなくて、ただ怖くて考えたくなかっただけ、だったんじゃないかな?
その証拠に、この頃クラスの子に言われた「優等生ぶって…」の一言が、いまだに忘れられない。人の意見にわたし、ちゃんと傷ついてたっぽい。

坂本龍馬に謝らないといけない。
「龍馬になりたいだなんて、体のいい建前に使ってごめんなさい」って。


わたしが伝えてきたことは、
・投資をすることでリテラシーが身に付き、お金について主体的に向き合えること。
・インスタで自己表現することで自分の可能性に気付けること。
・ビジネスを仕組み化して、より自由度の高い形で働くこと。
・お金だけ持っているよりも、健康な体と心を満たしてくれる家族の存在、お金を自分で作りだせるスキルを持つこと。
・そのために、リスクを取ってでも挑戦し続けることが本当の意味での「安定」であること。
これらは全て、人生における資産を積み上げることとして、自分の中では一貫したテーマだった。

メルマガでは伝えているつもりだったけれど、「初めて出会う相手」つまり入り口となるSNSユーザーには伝わっていなかった。
成果を提示して憧れを抱かせる、マウンティング的な発信に慣れてしまっていたし、それが手っ取り早いとすら思っていた。
投資の時は「短期の利益よりも長期で着実に育てていこう」そう伝えているのに、ことSNSに関しては全く矛盾していた。

投資やインスタグラム、そのノウハウだけに興味がある人は、いったんお客様になってくれたとしてもすぐに離れて行ってしまう。
そのリスクに、ようやく気付けた。

自分の中にある、一貫したテーマ「自分自身を資産にしていく生き方」「人生の資産価値を上げる生き方」。
これを、どうやったら唯一無二のポジションに置き換えられるんだろう?
自分の「人に真似されない部分」って、何だろう?


【白川豊弘先生】
小学生のときからすでに「自分には何も特別なものが無い」思想を持っていたと思う。当時は絵を描くことが好きだったけど、私よりずっと上手に絵を描く子がいて「絵を描くことが好き」ということが恥ずかしくなった。勉強も運動も全部そこそこ。習っていたピアノもスイミングも辞めてしまった。
そんな5年生のある日、図工の授業でテープカッターを作った。木の板で作るテープカッターで、側面は糸鋸で好きな形にし、彫刻刀や絵の具でデザインを施すもの。すぐに「タコだ!」とひらめいた私は、タコの絵を描いてクラスで1番くらいの速さで仕上げた。それを見た白川先生は、わたしの目をまっすぐに見てこう言った。
「あなたは、こういうのはとっても得意だね。」

以前に作文か何かで「わたしには得意なことがありません。」と書いたことを、先生は覚えてくれていたらしい。
地味だけど、忘れられない思い出。
本当はずっと、誰かに認めてもらいたかったのかな?

白川先生とは、卒業してからもしばらく年賀状のやり取りが続いた。
先生は今、地元の小学校の校長先生をしている。


学生の頃からずっとやりたいことがわからなかった私は、思えば当時からいろんなことを学ぼうとした。総合科学部という、マルチに学べる学部に進学し、語学、経済史、社会学、細胞生物学…手当たり次第に受講したけど結局、探究できるものが見つかずじまい。
何とか就職したメーカーの事務職を辞めて臨床検査技師になったときは「ようやく見つかった!」と思ったのに、起業が面白くなったらあっさり辞めてしまった。

そのわたしに、人が真似できないような探究心を持てることがあるんだろうか…?

ある日のグループコンサルで、やまけんさんはわたしにこう言った。
「潤子さんの特徴は、持ってる知識の幅や好奇心から来る学習欲…」
 
正直最初はあまりピンとこなかったけど、しばらくしてからようやく腑に落ちてきた。浅くはあるけど、いっちょ噛みしてきた教養が、ずっとやりたいことが見つからなかったわたしの「葛藤資産」になっていたのかな?

やりたいこと、できることを探しながら生きることが、わたしの道だと思ってはいた。
だけど、探しながら生きてきた道そのものが、誰にも真似されることの無い私だけの背景なのだとしたら…。

さて、その葛藤資産を活かしていくのと別に、もう少し深堀すべき「私の背景」がありそうだ。


【松川のおばちゃん】
松川のおばちゃんは、母の友人だった人。
母が入っていた読書会の世話役をしていた人で、地域の子を集めて「子ども文庫」を開いていた。
小学生の頃の私は、“得意なものが無いコンプレックス”のほかに、“可愛くないコンプレックス”も持ち合わせていた。2つ下の妹が、容姿も性格も飛びぬけて可愛かったからだ。
とにかく手のかかる兄と、とにかく可愛らしくて愛嬌の良い妹の間で、わたしは大人に甘えることをせず、一人で何でもこなし飄々と振る舞っていた。本当は妹のようにちやほやされたかったけれど、そういった感情を出すことを恥ずかしいと思っていた。
でも、そんな私の気持ちを松川のおばちゃんは見抜いていたようで、ある日私にこう言った。
「おばちゃんな、潤ちゃんみたいな子が大好き!!」
詳しく説明しなくても、それで十分伝わった。
可愛くない自分でも、大好きと言ってくれる人がいる(親以外で)と知った。「自分が自分のままでいいのだ」と、心から思えた瞬間だったと思う。

長年ALSを患っていたおばちゃんは、その後亡くなるまで長い間寝たきりだったけど、そんな状態でも事あるごとにわたしを救ってくれた。


天プロに入って3ヶ月が過ぎたころ、メンバーと福岡に旅行に行った。
とくに、そこで何かを得ようとかは考えておらず、ただただやまけんさんやみんなと一緒に過ごせることが嬉しく、楽しみだった。

思えば、天プロに入った最初の頃は、メッセンジャーのやり取りも恐る恐るだった。
以前いたコミュニティでは「見る人の時間を奪うので、メッセンジャーで不要な発言はしないこと」というお達しがあった。そんな世界に長い事いたわたしは、自由なメッセンジャーでのやりとりにに度肝を抜かれたし、最初は慣れることができなかった。

それが、しばらくすると「人にどう思われるか?は考えずに発言しよう」と思えるようになった。わたしは思いついたことを、敢えて空気とか一切読まずに長文で書き込んだ。
書き込んだ後は正直すごくドキドキしたけれど、それにも次第に慣れていった。反応は、あっても無くても良いのだ。私の発言したことを誰もジャッジすることは無い。みんながそれぞれ思ったことを言って良いし、茶々を入れても、入れなくても良い。
 
こんな心地よい場所があるのかと。
こんな心地よい場所を作れるのかと、少しずつ、密かに感動していた。

福岡旅行はその延長線だったからか、とにかく居心地がよかった。

松川のおばちゃんから「潤ちゃんが好き」と言われた、
白川先生から「あなたはこれが得意だよね」と言われた、
テニスサークルの合宿で初めて人前で泣いた、
あの頃の自分の感覚に近いような気がした。

絶対的な、安心感。

そして気が付いた。
「あの頃」の自分が、知らず知らずのうちに封印されていたことに。

就職活動でなかなか内定がもらえず、やっとのことで就職した営業事務の仕事ではミスばかり。一念発起して臨床検査技師になったものの、苦手な確認作業ができない私は、そこでもやはり「仕事ができない人」だった。
比較的得意とする「ひらめき」を活かす機会は見いだせずにいた。
注意力散漫で好奇心のままに思考が飛んでしまう自分のままでは、ちゃんとした仕事ができないのだ。社会には適合できないタイプの人間だ。
そう感じていた20年の間に、忘れてしまっていたのかもしれない。

本当の自分では、就職できない。
本当の自分を出すと、仕事でミスする。
本当の自分を出すと、誰かに責められる。

本当の自分を出さない方が、社会に適合できる。
本当の自分を抑えて頑張ることで、何とか仕事ができる。
本当の自分を出さないことで、自分を守ることができる。

起業してからはだいぶ外れていたと思っていたブロックが、どうやらまだまだ残っていたらしい。
それが、福岡旅行の間に外れた、ということなのかな…?

旅行の間、特別何かをしたというわけじゃない。

だけど、旅行中は時間が経つにつれて、どんどん心が自由になっていくのを感じた。
不思議な事に、毎日夜遅くまで飲んでいたのに、朝はスッキリと目覚めて身体も軽くなっていった。


【泣かない子ども】
3歳で保育園に入り、20歳の夏にサークルの合宿に参加するまで、人前で一度も泣いたことが無かった。
自分ではそれほど特別なことではないと思っていたけれど、子どもを産んで初めて分かった。泣かない保育園児は、だいぶヤバい。
登園後にお母さんと離れたとき、転んだ時、お友達とケンカした時、普通はその年齢の子どもはちょっとしたことで泣く。母親が「あんたが保育園で全然泣かないから、保育士さんたち皆が不思議がっていた。」と言っていたのも、頷ける。
当時のわたしにとって、「泣くこと」は最も恥ずかしい事だった。何があっても泣いてはいけないと思っていた。また、泣きたくなるようなこともそんなには無かった。それは大きくなってからもあまり変わらず、中学の卒業式では同級生たちが皆泣いているのを冷めた気持ちで見ていた。

だけど、たった一度だけ、どうしても我慢できずに泣いたことがある。
たぶん、4歳くらいだったと思う。
保育園の遊びの時間に、普通の折り紙よりもちょっと良い両面カラーの大きな紙を先生がくれて、それで飛行機を作った。器用だった私は飛行機の先端の部分を丹精込めてズレないように折り、きれいな紫色の紙飛行機ができた。飛ばして遊んでいたら、そばにいたツボイリョウ君という男の子が落ちていた私の紙飛行機を拾って、その先端をおもむろに彼の鼻の穴に突っ込んだ。
キレイに尖っていた紙飛行機の先端が、リョウ君の鼻水で濡れてクニャっとなった(リョウ君は常に鼻が垂れている系の男子だった)。
悔しさのあまり、涙が出そうになった私は、慌ててロッカーに頭を突っ込み、声を押し殺して泣いた。
泣いているところは、絶対に誰にも見られてはいけないのだった。

ツボイリョウ君は、今は地元のイオンで靴修理の小さな店舗を出している。
地元に帰ってイオンの隅に座っているリョウ君を見かけるたびに、わたしは40年前の紙飛行機事件を思い出す。
かなり、根に持つタイプなのだ。


天プロのメンバーのひとり、さえさんの施術を受けた。
さえさんは人の身体に触れるだけで、その人の隠れた魅力や才能を見つけることができる人。やまけんさんに「にんげんプロデューサー」としての資質を発掘された一人である。

そのさえさんによると、わたしは本来かなり感覚的な人間なのだそうだ。
確かに、物事をロジカルに考える割に、選択するときはだいたい直感で決める。いつも自分にとって呼吸がしやすい場所にいることが凄く大切。

感覚的な人間だけど、感情のコントロールは割と得意。
人の動きや人の意見に自分の感情を揺さぶられないように、できるだけフラットになるようにコントロールできる。

ただ、それは抑える方のコントロールであり、感情を開く方のコントロールは凄く苦手だった。ずっと泣くことができなかったわたしは、人に感情を開くことをほとんどしてこなかったのだと思う。
20歳にしてようやく人前で泣くことができるようになったけれど、家族の前なら「今日のにゃんこ」程度で泣くことだってできるけど、他人の前で感情を「開くこと」は今もコントローラブルになっていない。

「潤子さんは、本当はどうなりたいんですか?」
施術をしながら、さえさんが聞いてくる。

ふと、泣けなかった4歳の私や、初めて人前で泣いた20歳の私が顔を出した。

思えば天プロに入ってから、自分の過去を振り返ることが俄然多くなった。それもそのはずで、唯一無二のポジションを確立するカギは、過去の自分が握っているのだから。

だとしたら…。


施術を受けた翌日、ふと思いついて、ツボイリョウ君に紙飛行機を汚されて泣いている自分を思い出してみた。イメージの中で、ロッカーに頭を突っ込んで泣いている4歳のわたしに触れるつもりで、自分の頭や背中を撫でてみた。

「泣いても大丈夫。泣いたからと言って、誰も泣いているあなたを恥ずかしいと思わない。自分の弱いところを見せてもいい。どんなあなたでも、ちゃんと受け入れてもらえるから。」

そう言いながら、また、一人で泣いた。


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ビジネスのことを中心に学ぶつもで天プロに入ったつもりだった。
「天才性をビジネスに落とし込むプログラム」なのだから。

ところが、天プロが始まって、進めば進むほど今のビジネスへの関心が薄くなり、意識は自分の内側へ内側へと向くようになった。

好き過ぎて他のことが手につかなくなるからと、ずっと封印していた漫画を読むようになった。案の定すっかり夢中。

ビジネスのために行動する量が減った分、もちろん売り上げは落ちた。
だけど、そんなことが全く気にならない自分がいた。

たこ焼きが食べたいと思ったら、2日連続で食べてしまうくらい、頭と身体と行動が連動するようになった。

売り上げには直接つながらないことを、思い付きでやってみるようになったら、その様子を知った人から仕事のオファーが来た。

人と向き合うことの怖さが和らいだせいか、自分の受講生さんとの距離もグッと近くなった。

こだわりが無いことが自分のコンプレックスであり強みでもあったけど
もっとこだわってみたくなった。こだわってもいいと、思えるようになった。

正直に言って、売り上げだとかマーケティングだとか、ビジネス的なことへの興味関心は薄れてしまった。

そのぶん、これまで生きてきた自分の人生を心から愛おしいと思えるようになり、自分自身への興味関心が深まった。

「ほんとうは、どうなりたいのか?」
答えはまだ出ていないけど、その断片は、既に手の中にあるように思う。

「これから、わたしはどうなっていくのか?」
それは、まだわからない。

確実に言えることは、天プロに入る前と後ではその問いに対する答えが全く違ったものになっていること。

描ける可能性が、ただ大きくなったというわけではない。
よりしっくりと、より本来の自分らしく、
備わった資質や経た経験は変らないまま、
それはまるで、もう一度新しく生まれた自分で在るかのよう。

ただし、「やり方」はまだよくわからない。
でも、それで良いと思っている。

今まではゴールから逆算して、すぐに結果につながることばかりをやってきたけど、それらは少しずつ手放していこうと思う。
その代わりに、もっと自分の感覚を大切にしてみる。好奇心の赴くままに、本を読む。「やり方」ではなく「在り方」と意識して人と関わる、あるいは文章を書く。
あとは…心から信頼できる人とだけ関わって、お酒を飲む!!

そして生まれ変わった私はもしかしたら、「エモジュン」と呼ばれるくらい、泣き上戸になっているかもしれない。


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(最後に)
このレポートは、4か月間のプログラムの最終課題(天プロでは卒論と呼んでいる)として作成したものです。
もともと文章を書くことは苦手ではなかったけれど、書き始めたら溢れるように言葉が湧いて出てきて…。こんなに夢中になって、こんなに楽しく文章が書けたことは久しぶりでした。
自分の振り返りのために書いたレポートだったけど、はからずもこのレポートがきっかけで、「ずっと探していたこと」が見つかったような気がします。

・本当に、やりたかったこと。
・本当に、いるべき場所。
・本当に、在るべき自分。

天プロは決して、わかりやすい形の「成果」が出る場所ではないかもしれません。
でも、人生には上に向いて成長する時期(成果や結果を求めて行動する時期)と自分の内側を太く色濃くしていく時期(本来持っている資質や才能を掘り下げる時期)がある。

前者はノウハウさえわかっていれば、それなりの努力さえすればいつでも誰でも実現できる。
だけど、後者を一人で実行することは本当に難しい。なぜなら、多くの人が自分のことを本当の意味で理解することができないから。

天プロは、やまけんさんを始めメンバー同士の関わり合いの中で、本当の自分に気づき、どんな自分でも受け入れてもらえる場所で、自分の天才性を発掘できる場所でした。
そして、本当の自分を知るということは、一時的な成果を遥かにしのぐ価値があると思っています。

なぜならわたしは、天プロの4か月間を通して、メンバーたちが本当の自分に気づき進化するさまを目の当たりにしたから。

人が本当の自分に気づく、美しく、尊く、まるで一筋の光が差すようなその瞬間を、わたしはいつまでも心に焼き付けておこうと思います。



やまけんさんが主宰する天才性プログラムの詳細は、やまけんさんのメルマガ(コチラ)でご確認ください。

わたくし佐竹潤子の詳しい自己紹介はコチラ
メルマガでは、普通のお母さんだった私が小さな挑戦を積み重ねて少しずつ望みを叶えた過程、人生の資産価値を上げる生き方について配信しています(コチラ)。








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