佐竹潤子

ヒューマンデザインジャパン認定アンバサダー 人生の転機を迎えた人のための「専属ガイド」…

佐竹潤子

ヒューマンデザインジャパン認定アンバサダー 人生の転機を迎えた人のための「専属ガイド」としてリーディングおよび講座を提供しています。 病院勤務の臨床検査技師から起業して独立。少額投資や食の講師・SNSコンサルを経て現在に至ります。 中2、小3の不登校兄弟の母。

最近の記事

モミジバフウの落ち葉と、母の思い出。

図書館に行こうといつもの公園を通ると、モミジバフウの落ち葉が階段のところにたくさん落ちていました。 階段を登ると、カラカラの落ち葉が靴に当たってさくさくと音を立てます。お掃除の人は大変だよなとは思うけれど、私はこの「落ち葉を踏む時の音」がとても好きです。楽しい気持ちになるからとか、秋を感じられるからとか、そんな理由もあるけれど、一番は亡くなった母のことを思い出すから。 まだ母が元気だった頃、母と父は友人数人と一緒にドイツへ旅行に行きました。 旅行といっても観光ツアーでは

    • ヒューマンデザインを学ぶきっかけは不登校の子どもたち

      ヒューマンデザインを学ぼうと決めるきっかけはいくつかありましたが、その一つは​現在中学2年生と小学3年生の2人の息子たちのことでした。 ​ 中2の長男は、中1の夏休み明けから不登校になり、今はフリースクールに通いながら週に1日1時間だけ担任の先生と話をしに登校しています。 ​ 小3次男は学習障害という発達障害があって、まあそれだけで学校に行けないわけじゃないんですけどそれも含めた居心地の辛さがあって小1の冬休み明けから不登校になり、今は自然がいっぱいのオルタナティブス

      • 自己紹介。

        少しずつ新しく人と会うことが少し増えていて、「佐竹さんて(仕事)何やってるひとなんですか?」みたいな質問への答えとして「8月からヒューマンデザインという個性分析のリーディングを始めたんですよ〜」と答えるんですが、そうするとだいたい「それまでは何してたんですか?」と聞かれることが多いです。そりゃそうだ。 今年の8月まで、自分が一体何してたのか?については、期間を区切るならこの1年くらいは「ヒューマンデザインの勉強も含めて仕事を始めるための準備をしていた」になるし、3年で区切る

        • 思い残すことの無い人生よりも、たくさん思い残したまま死にたい。〜グループ展「Art is…」を振り返って〜

          今年の5月にアート合宿で出会った仲間とグループ展「Art is…」を開催することになりました。先日、無事に4日間の会期を終えることが出来たので、振り返ってみようと思います。 アート合宿のこと、高校の美術の授業以来26年ぶり(!)に絵を描き始めた経緯はこちら▼ わたしのこと▼ 佐竹潤子です。 子どもに「お帰りなさい」が言いたくて働き方を変えた主婦です 。 10年以上大学病院で臨床検査技師として働いていましたが、ふと「自分の人生このままでいいのかな?」と思ったことをきっかけ

        モミジバフウの落ち葉と、母の思い出。

          おかえりなさいの絵

          絵を描くことが好きと言えなくなった子どもの頃は絵を描くことが好きだったし、高校の美術の時間も毎回楽しみでした。でも高校を卒業して以来、絵を描くことはなくなりました。 数学や物理、体育のマット運動と同じように、授業で取り組むことでも無ければ「絵を描くこと」は生きていくうえで必要無いものだったから。 ふと思い立って「何か」を描いてみようとしたこともありました。 でも、描けませんでした。 形が上手く捉えられないし、見たとおりに描けない。すると脳が判断します。 「全然上手じ

          おかえりなさいの絵

          奄美大島でヌードになったら新しい自分に出会えました。

          おおよそ自分の人生にそんなことが起るはずもないと思っていた、というか選択肢にすら1度も上がったことが無かったのですが、奄美大島でヌード撮影してきました。ㅤㅤㅤ  ヌード撮影したこと自体は、自分なりに大きな気づきや影響があったものの、果たして人に伝えるほどのこでは無いのかもしれない…と思ってたんですが。ㅤㅤㅤ  じゃあ、そもそも何のためにそんなことをしたのか?って考えたら、すごく大きな発見をしたのでやっぱり記事に書きました。ㅤㅤㅤ  ずっと前からうすうす感じてた「なりたい

          奄美大島でヌードになったら新しい自分に出会えました。

          プロの応援団が教えてくれた、本当の「応援」。

          プロの応援団である我武者羅應援團の「応援」をLive配信で見せていただく機会がありました。 我武者羅応援団の応援は、一見するとよくある「応援」のように見えるんですが、注意してみると一般的に考えらえているような応援とは全くの別ものでした。 だけどその「応援」こそ、私がずっと知りたかっ「応援」そのものだったのです。 この記事では、日本で唯一のプロ応援団である我武者羅應援團の代表、武藤さんが教えてくれた本当の「応援」についてシェアしたいと思います。 我武者羅應援團とは 200

          プロの応援団が教えてくれた、本当の「応援」。

          天才性をビジネスに落とし込むプログラム「天プロ」を受けた4か月間で、自分に起こった変化。

          その人の強みや資質を活かす、桁外れの実績がある山田研太さん(やまけんさん)が「天才性をビジネスに落とし込むプログラムー通称天プロー」を開催するという。 自分のビジネスの幅をもっと広げたい 資質を活かしてビジネスをしていきたい…と思っていたわたしが申し込まない理由は無く、だいぶ前のめりに申し込んだ。 その「前のめりっぷり」にやまけんさんはドン引していたと知ったのは、入ったてしばらくしてからのことだったけど。 ここでは、天プロに入ってからの気づきや、天プロがきっかけで掘り下げ

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          最期のおにぎり

          紫陽花がお花屋さんの店先に並び始めましたね。 紫陽花を見ると、どうしても 母のことを思い出してしまいます。 紫陽花は、母が一番好きな花だったから。 母は7年前の夏、長男が3歳の時に亡くなりました。 鬱病でした。 若いころから鬱病を患っており 自律神経の不調から眠れないことも多かった母。   でも、私が大人になってからは 比較的安定していてそんなことも忘れて過ごした時期も 長かったんです。 それが…いろんなことがきっかけで再発し 亡くなる半年ほど前から症状が酷くな

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