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ナナ子さんのまりも

 デパートの屋上でゴーカートにのってあそんでいたら、とつぜん大男がわめきはじめて、けたたましく非常ベルが鳴った。みんな一目散に逃げたけど、僕はゴーカートにのったまま、ぐるぐるあせってまわりつづけた。

 気がつくとふとんの中だった。電話が鳴っている。もそもそおきて受話器を上げると、ナナ子さんだった。

 「ねぇ、ちょっとおねがいがあるの。あなた殺虫剤もってる?今、わたしお月さまの公園にいるんだけれど、もってきて下さらない?それと、バケツも忘れずにね」

 時計を見ると、午前三時だった。僕は仕方なく言われた通りに殺虫剤とバケツを持ってもそもそと外へ出た。月も星もない夜で真っ暗だった。きもちのよい、ぬるい風が道いっぱいにひゅうひゅうと吹いている。

 公園に着くとナナ子さんはジャングルジムのてっぺんで小さな足をブラブラさせながら座っていた。足をブラブラさせて、頭をブラブラさせてこう言った。

 「今日はね、朝おきたら頭の中がしんくうになっていたの。お母さんにものすごくしかられたわ。でも仕方なくて困ってしまって、ずっと泣いてるふりをしてたのよ。だってそうじきでぜんぶすいとっちゃったなんて言えないものねぇ」

 黄緑色の外灯のしたでナナ子さんはやけに青白く見えた。ぼくは、殺虫剤とバケツを持ったまま「まりも元気かい」と聞いた。ナナ子さんはいつもいつもいつも必ずくびからひもでくくってぶらさげた小瓶の中にまりもを入れているのだ。

 ナナ子さんは大事そうに服のえりからそいつを取り出すとじっと見つめた。

「このこったらねぇ、あたしの頭がしんくうの間に、どんどん増えていったのよ。お母さんはうんざりしてたわ。ここへくる時、ぐーぐー寝てるお母さんの口の中にひとつ入れておいたの。一瞬びくんとなってね、そのままのみこんだわ。あたし、おっかしくって笑いそうになっちゃった。いそいで出てきたけれど、明日びっくりするでしょうねぇ」

 ナナ子さんは瓶の中のまりもを外灯にすかしてみせた。みどりいろのまるい物体がゆらゆら光って美しかった。それからナナ子さんはジャングルジムのてっぺんからぴょーんと飛び下りると、深刻そうにぼくのそばにきて殺虫剤をうけとった。

「悪い虫がね、くるのよ」

 ぼそっとつぶやいて上着のポケットにしまいこんだ。ぼくはじっとナナ子さんの顔を見ていた。とても哀しげな顔をしていた。ナナ子さんもまりもの瓶をいじりながらぼくをみていた。とてもかなしそうでとても美しかった。ぼくはまりもをとりあげてどこかへすててしまいたいしょうどうにかられたけれど、じっとがまんをしていた。そんなことをしたらナナ子さんは死んでしまうだろう。
 人は自分以外の命がないと生きてゆけないものだけど、愛することができない時、人は何か別のものを対象にして安心するのだ。
 僕はナナ子さんを愛していたけれど、まりもをすてることはできない。愛はどんな権利をも持ち得ないものなんだ。

 ナナ子さんはすっかり黙りこんでしまって、スタスタスタと三歩あるくと「さよなら」と言って駆けていった。黄緑色の電灯のあかりが「ジジッ」とないてゆれた。

 目が覚めた私は、
いつものようにバケツの中のまりもに「おはよう」と言ったけれど。


(1999年著)


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