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夜を待つ人

 バニラアイスと生クリーム、ハニーシロップにべっとりと濡れたフレンチトーストと向き合っている午後三時。見ているだけで目眩がしそうなほど、甘い。

 昨日とは違う街の同じようなカフェでコーヒーをすする。煙草をふかす。真昼の陽光から隠れるように、日中何時間でもそうしていると、若いウェイトレスが、あるいは年老いた喫茶の主人が、迷子の子供に向けるような憐憫と好奇の目で優しく合図をよこす。
 頁に目を落とし、指で遊ぶ、めくる、煙草に火を点ける。


物語は今日も続いている。


 オールナイトの映画のように、終わりと始まりが同時に永遠のように繰り返され続ける。
 はてさてこれは現実なのか、それとも物語の中のこと?あらゆる登場人物が私の人生の上を通り抜けてきた。そっと近づいてささやいて、踊って笑って誘って奏でて抱きしめて。愛しい人々。生き生きとした男や女。

 彼らの体温は、水の底に沈んだ私の体を突然強く水面に引き上げて、息継ぎをさせる。私ははっとして、現実を、愛すべき日々の営みという、少々面倒なはっきりとした希望や絶望を思い出す。
 しかしそれも束の間。束の間の幻。
 気がつけば私はまた一人、どこかの町のカフェやレストランの窓辺の席に座っていて、ぼんやりと時間の底に沈んでいる。
 飾り窓にはクリスマスツリーと色とりどりの電飾。ファンシーなサンタの置物がまんまるい瞳で通りを行く人々に微笑みかける。ああ、もうそんな季節なのだ。

 いったいみんな 何処へ行ったんだろう、
と、夢のように、老人の様に、霧の彼方にかすむ彼らの面影に想いを馳せる。

頁をめくる、煙草を消す、紅茶をすすり、
夜を待つ。

時々波のように締め付けられる胸をさすりながら、
夜を待つ。


 孤独も日常も幸福も、あらゆるもの全てを平等に覆い尽くす夜。
 黒に限りなく近い青い闇が降りてくると、私はやっと海に辿り着いた魚のように泳ぎ始める。
 私を待つ、あなたの元へ。
 がらんどうの私を唯一この世界につなぎとめてくれる。生きることを許すたったひとつの理由の元へ。黒と白の世界の向こう側へ。あなたに会いに行く。私の闇の中の杖。


「君の命の半分を無条件で受け入れます」


 それが音楽なのかどうなのか、最早私にはわからない。しかし身をよじるほど、そうであることを願って。
 音が鳴り、響く瞬間を繋ぎ合わせて息をする。
 まじめくさって、馬鹿馬鹿しいほどまっすぐに息をする。ピアノが唸る。夜がうねる。その向こう側であの人が笑って「おかえり」と手を広げる。

 そして又夜は明ける。

 柔らかな日差しの差し込むカフェのテーブルの上には、吸いかけの煙草、かじりかけのフレンチトースト。バニラアイスに生クリーム、ハニーシロップでべっとりと濡れた。泣けるほど、甘い。
頁を閉じる。目を閉じる。


物語はまだ、続いている。


(2011年著)


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