古典は表現の宝庫
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。それの年の、十二月の、二十日あまり一日の日の、戌の時に、門出す。そのよし、いささかに、ものに書きつく。
土佐日記の冒頭です。今日の午後は体験会と大人の生徒さんのレッスン。
「大人のための深める音読コース」は土佐日記でした。
この冒頭の文を一音一音切りながら発声すると心地よいリズムを感じます。
この土佐日記は指導者養成講座の試験の前に何度も読んだのを覚えています。
レッスンの後、いつものようにしゅりさんとアフター。午前中西荻窪のブイネットのシフトに入ってたしゅりさんは十数ページに及ぶ松永先生の手記を渡してくれました。冒頭部分に目をさっと通すと、「自己紹介代わりに、いささか自分のことを書きつく。」と書いてありました。
あれ!これは土佐日記の冒頭みたい!
今日読んだ古典が今日読んだ現代文に。
古典はいくらでも現代の文によみがえることができる。
栄養豊富だから。
古典はミネラルみたいなもので、現代のものに使っても文章を生き生きとさせることができるのだと思いました。
松永先生の手記は他にも古典のエッセンスが見られました。
古典音読、日本語の響きやリズムがそこにありますが、それを楽しむだけで終わらない。それらは古典を飛び出し私たちの口から手から新たな表現を作っていくのです。
改めてもっともっと古典を音読して自分のものにしていきたいと思いました。
古典を読むために読むのではなく、未来のために読む。
おもしろいおもしろいおもしろい。
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