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サクラサクマデ:3〜札幌編終了〜

退院し、自宅からの登校が出来るようになった。
その数週間後、骨折する・・・何やってんでしょうか。なので、入学後のクラス写真や部活の写真はギプスしてます。本当に何をやってるんでしょうか。
クラスは仲良しの子と一緒になれて、嬉しかった。部活も彼女は男子部のマネージャーで私は女子部のプレーヤー。
そうそう、試験監督で病院まで来てくれた先生の1人は古文担当だった。やっぱり授業を受ける事になった。

勉強はついていくのが必死だった。最初の中間テストは何とか100番以内には入っていたけど、違う意味で鼻血を出すくらいに必死だった。
そんなこんなで6月下旬

「お父さんは8月から東京に転勤が決まったからそのつもりでいるように」

え?また転校なの?せっかく(あんな思いをして)入ったのに?
「そのつもりでいるように」は「お前達も一緒だからな」です。単身赴任は我が家の辞書には無いのです。迷惑な辞書。
高校1年の夏に編入学を募集している学校なんてほぼ無いわけです。欠員が出ない限り募集しないんだから。しかし、見つけられた・・・私学のお金持ちの方々が通うので有名な学校・・・我が家は中流ですので。
何を言っても泣き叫んでも無理で試験を受けた。受かった。
そして入学金を納めに行く日、私は強硬手段に出た。
その入学金を隠した(自分の下着の中に隠す)のだ。受付の時間をとっくに過ぎてから「ここにある」と出した。そんな私を見て、母が札幌の父に電話をした。
「可哀想だから、ジュンコを札幌に残しましょう」
それで私だけ札幌に残れる事になった。
成績が落ちたら東京に行く、これが条件。
まあ、今では絶滅危惧種でしょうが「下宿」という事で。

下宿には同じクラスの男子、同じ部活の子、ひとつ上の男子先輩と社会人の人も何人かいた。
北海道は大きいので、札幌の進学校に島嶼部や北海道の遠い場所から越境入学をしてくる生徒が多い。そういう生徒達は下宿やそういう生徒達(色々な高校から)が住む場所で生活していた。
当然、みなさま賢い。

夏休みに入り、家族とバラバラになる。
下宿のメンバー達はそれぞれの実家に帰っている・・・淋しい・・・。
3日経過・・・淋しい・・・・ここでまた私は動くのだが、それはまた今度。

夏休みが終わった。学校が始まった。
何だか胃が痛い、調子が良くない。
肝炎の事もあったので受診したら神経性胃炎と言われて即入院になった・・・何やってんの?ねえ、何やってんの私。
夏休みの宿題は半分くらい同じクラスの子と部活が同じ子に写させてもらったから?
2週間の入院で、学校に戻ったら全く授業についていけなくなっていた。
何語を話してるの?くらいについていけなくなっていた。
下宿で夕ご飯の後に3人に勉強を教えてもらう。教えてもらうんだけど何語かわからない。
中間考査は300番台まで落ちた。
これはまずいと思った、色んな意味で。東京に連れて行かれる・・・。
学校はテストの点数、学年成績を自宅にしなくてもいい郵送をしてくれちゃうから。
そこから転がり落ちるように成績は下がる。だってもう、異国の地みたいなんだもの。
3学期、501番まで下がった。学年511人しかいないのに。
担任に呼び出され「今回のテストは509人しか受けてないからな、腐ったみかんはうちのクラスにはいらないんだよ」と金八先生みたいな事を言われた。まずい、看護婦になれない。

凍てつく心・・・

「東京に来るように、嫌とは言わせない」

ですよね、そうなりますよね。
転校=いじめられる の公式は私の中から消えていた。それよりも大きな事がある。このままでは看護婦になれない。それしか無かった。看護婦になれるなら何でもしますな心境だった。
入学式が終わってすぐに志望校を書かされたんですね。キョロキョロ周りを見たら、北大とか東大とか教育大とか書いている人ばかりで。どこの学校に行けば看護婦になれるのかわからなくて「看護婦になりたい」と入学早々に幼稚園の卒業アルバムみたいな事を書いたのです、私。
即担任に呼び出されて(入学早々からかい)、看護婦になるには色々な道があるのを知ったわけです。「北海道大学医療技術短期大学看護学科」と書き直しをさせられました。

しかし、私は東京へ向かう。
とにかく看護婦になるために。

この頃あたりから「看護婦になる」と言うこだわりが強くなって来たように思う。「なる」と決めていたけれど、その思いは強かったけれど「拘り」というものは無かったんじゃないかと思う。
確実に成績が落ちてからその「拘り」が生まれた。
そしてそのこだわりが結局自分を苦しめる事にもなるのだけれど、そんなのこの頃はわからないから。

サクマデは次回で終わるかな?どうかしら?
それではまた。


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