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出会い

先日、素敵な出会いがあった。
これを出会いと呼んでいいのか、身体的な介在のない出会いを”会う”と呼んでいいのか。そこは意見が分かれるところだと思う。
けれど素敵な映画や本との出会いも”出会い”と呼べるし、そのことを知らなかった昨日と知った今日では、自分が認識する世界の彩りは明らかに、違っている。
そういう意味でならば、”出会い”と呼んでいいのではないかな、と思っている。
少なくとも、私の中では。

テクノロジーの発展とともに、場所と距離を超越できたような錯覚に陥ってしまうことがある。
実際、この2020年に入ってから、世界の色々な場所にいる人達とインターネットを介して話をする機会があった。そんな日々が当たり前になるなんて、想像もしていなかった。
テレビ電話、ひと昔前はビデオレター。
人と人はどうにかして、離れたところにいる人と繋がろうと試みてきた。
それがコロナという不可抗力で、映像によるコミュニケーションツールは一気にスタンダードになった。

電話は苦手じゃない。テレビ電話も、そんなにキライじゃない。
でも、いつも感じるモヤモヤっとした気持ちはなんだろう…と、ここ半年でずいぶん考えた。相手の存在を感じられる順番として、手紙<メール<ライン<電話<テレビ電話 だろう。
手紙という手段は、相手の存在は最も希薄だ。届くかどうかすら、時に定かではない。その点、相手の姿カタチが見えるテレビ電話形式は、それこそ相手の存在をある種のリアリティをもって感じることができる。
けれど、そのコミュニケーションツールを切断するとき、つまり電話を切った瞬間、相手がそこに”居ない”という事実が、まざまざと自分の前に立ちはだかる。
相手の”存在”をリアルに感じられれば感じられるほど、”不在”もまた等価に押し寄せる。私がモヤモヤっとしていたのは、きっとこの感覚だったのだろう。不意に今までの答え合わせをしたような気持ちになった。

この出会いが、リアルな”meet”になるだろうか。それは全くの不確定要素だ。
未来はいつだって、わからないし不確定だ。わかっている決まりごとは、約束だ。
約束のことを、人は”未来”とはそうそう呼ばない。
けれど約束という少しの制約があるからこそ、安心して未来を見ることができるのかもしれない。何も約束されていない状況はとても自由だけど、同時にとてもツライだろう。人は何かから解き放たれたいと時に願う。しかし実際に身に起こってみると約束という「やるべきこと」が、自分の支えになることは、確かにある。

出会い、と言うと案外大げさに聞こえるかもしれない。
日本語には「縁」という素敵な言葉があるので、それを使ってみようと思う。
どのような物事にも縁があって、自分とそれとが何かしらの形で結びついている。それを繋いでいけるのか、それとも途切らせてしまうのか…その境目には、やっぱり多少の努力や自分の振る舞いも関係がある、と私は思っている。
自分の目の前に訪れたさまざまな機会。モノや出来事、そして人。
良い形に繋げられるかどうかは、自分次第なのだ。
だからこそ私は私を知らねばならないし、その努力をしたいと強く思う。

自分の知らないことを知る、そして知ることが増えると知らないことがもっと増えていく。
人は知らないことを知るために学ぶのではないか…そんなことをふと思った。

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