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瓜生岩子を知っていますか

こんにちは、じゅんぷうです。
暑すぎる毎日、今年も百日紅が鮮やかに咲いています。

浅草寺五重塔と百日紅

夏の間、毎日ピンク色の花を咲かせる百日紅。サルスベリ、と聞けば耳なじみがありますよね。街のあちらこちらで目にしますが、わたしの日々の通り道、浅草寺境内の新奥山というエリアに咲く百日紅が「瓜生岩子」の目印です。

百日紅と街灯の右側に見える丸い背中、わかりますか?

百日紅の花の向こうにいるんです、岩子が。

講談でも始まりそう

瓜生岩子とは


社会福祉の母


日本のナイチンゲール


菩薩の化身



などと呼ばれる明治時代の社会事業家です。

昔は境内にベンチなどなかったので、幼子たちと屋台フードを買ったら往来のあまりない岩子ゾーンでちょこっと食べたりしていました。そのときはこのちんまり座ったおばあちゃんがどういう人物なのか、そこまで関心がありませんでした。

それが、ああ今年も百日紅が咲いてるなあって、何となくここに呼ばれたんですね。あらためてじっくり対面しました。

お茶がお供えされてる岩子

銅像の横の解説もあらためて読んでいたら、気になる一文が。

―—堕胎間引の防止に関心を持つに至る。

ここで俄然、岩子をもっと知りたくなったのです。

その生涯とは…

幕末の文政12(1829)年、現在の福島県喜多方市で裕福な油商の娘・岩として生まれます。岩9歳のときに父が急死、その後自宅が火災で焼失、母と弟とともに温泉業を営む母の実家・瓜生家に身を寄せます。14歳のとき、会津藩の侍医を務める叔父のもとに行儀見習いとして預けられ、ここでの経験や堕胎防止の啓蒙などが岩に大きな影響を与えるのです。

17歳のときに結婚して会津若松で呉服商を始め、子どももできますが28歳のとき夫が倒れ、看病と育児と商売に追われるように。頼りにしていた叔父が亡くなり、やがて夫も亡くなり、翌年には母も。悲嘆して母の菩提寺の禅師に「出家して尼になりたい」と言うと「お前よりもっと不幸な人のために捧げなさい」と諭され前向きになり、戊辰戦争のおり敵味方の区別なく負傷者を手当てし、その混乱の中で社会活動を始めます。

私財を投じて幼学校を設立。廃藩置県で生きる術を失った藩士とその家族に会津の産業技術を伝授。孤児や貧困者の世話。貧民救済事業を学ぶため上京もします。福島救育所を設立し、貧民救済の施設を全国に設置すべく第1回帝国議会に女性として初の請願書を提出。貧困者の救済に奔走し、渋沢栄一の要請で東京養育院幼童世話係長も引き受けました。

ちょっと前のめり岩子

明治30年に69歳で没するとただちに銅像建立の機運が高まり、渋沢栄一らによって明治34年に建立されました。会津若松出身で日本最初の女子留学生のひとりである大山捨松を中心に募金を集め、発起人の中には当時の侯爵夫人らも名を連ねているとか。この岩子像は戦時供出もまぬがれたそうです。のちに岩子の銅像は福島などゆかりの各地に建てられました。

婦人といえども人である、と言われた時代よりもさらに前、波乱の半生を経て精力的に社会福祉活動に邁進した岩子の銅像は、近代日本で初の女性の銅像だとか。

本堂のお屋根と百日紅
百日紅の花言葉は「雄弁」「愛嬌」「あなたを信じる」

浅草寺にお詣りされる方はぜひ、岩子にも会いに行ってみてください。夏の間はピンクの百日紅が次々開花します。花言葉の「雄弁」や「愛嬌」は、縮れた花たちが風に揺れる様子がおしゃべりしているようだから。ああ、この花は岩子が救済や教育に尽力した無数の子どもたちなのかもしれませんね!

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