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100名城にも続100名城にも入らないけどたしかにそこにあるお城の話

 試験勉強はいつもギリギリ。こんにちはじゅんぷうです。

 城郭検定2級リベンジに向け、日本のお城の構造や歴史に地理、戦国武将や大名についてなどなど限られた時間でお勉強中の日々ですが、今日は現実逃避。自分の出身地にある城跡のことを振り返ってみます。

 私が生まれ育ったのは埼玉県岩槻市。現在はさいたま市岩槻区となっていますが、かつては岩槻城があった城下町です。といっても天守や石垣はなく、現存する建築物は門のみ。曲輪(お城を構成する区画のこと)の一部が岩槻城址公園となっていて、ここをわれわれ昔ながらの市民はおはやし公園と呼んでいます。お囃子ではなく御林。小学校の校歌の歌い出しも「林の空に」でしたねそういえば。小学校も中学校も林に囲まれていました。

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 ちょっとした校外学習といえば、おはやし公園。

 ボールとお弁当持って遊びに行こうぜ~(自分女子です念のため)といえば、おはやし公園。

 お花見といえば、おはやし公園。

 ボール遊びやお花見ができる広場の周囲はこんもりと土が盛られていて、よくそこをよじ登って遊んだものでしたが、今思えばそれ、お城の土塁。あのころ、ただ登ったり下りたりしているだけで笑っていられたよね僕たち…。

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さいたま市HPより

 天然の外堀だった元荒川から低湿地が広がり、台地を利用したいくつかの曲輪の間は深い沼地、城下町も含めた外郭を大構といって土塁や堀で囲んでいたという岩槻城。たしかに関東平野のど真ん中とはいえずいぶん起伏が激しい土地です。子どものころ、なんでこんなに坂道が多いんだと思っていたのはそういうことだったんですね。うちから最短でおはやし公園に向かう道も、長~い下り坂からの長~い上り坂でした。それが見事な直線だったので、友だち何人かで自転車で出動のときは確実に『西部警察』のオープニングごっこをしながら(みんな舘ひろしの取り合い。女子です念のため)。

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 築城は江戸城と同じ太田道灌と言われていますが、近年発見された史料によると埼玉県内の忍城と同じ成田氏説もあるとか。とにかく室町時代に築かれたのは間違いない岩槻城。武蔵平定をめぐる上杉家の争いで陥落⇒太田氏が奪還⇒上杉家を滅ぼした北条氏の属城に⇒豊臣秀吉の小田原征伐(北条攻め)の際に落城⇒北条氏が滅亡し徳川家康が関東入り⇒徳川の譜代大名の居城に⇒江戸中期から廃藩置県まで大岡氏が岩槻藩主として固定。というのがざっくりした歴史です。何度も戦ったお城だったんです。多くの血が流れたお城だった。

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 実家は日光御成街道沿いのエリアにあるのですが、一本裏に入ると、鬱蒼としていました。今は宅地が広がり新しい道もできて明るい雰囲気ですが、私が子どものころは、闇が深かった。町内に八幡神社という小さな神社があり、町内の人たちは「はちまんさま」と呼んでいました。子どもたちが肝だめしで行くような、そんな神社です。定期的に祭礼が行われていましたが、それが子ども心にも何だかめでたくない雰囲気のものでした。

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 ふだんは神主さんもいない神社でご祈祷が行われて、人々は木立に囲まれた祠の裏で車座になって何か食べたりしていたような…。諸星大二郎先生に調査に来てほしかった。

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妖怪ハンター稗田礼二郎のフィールド・ノートより『闇の客人』

 そして、その神社から、今は埋め立てられ道路になってしまった小さな川の向こうに大きな森があり、そこに久伊豆神社という岩槻の総鎮守が鎮座しています。この久伊豆神社の参道の真正面から、おはやし公園までの道が先ほど書いた『西部警察』の道です。

 大人になって地元を離れてから、あまりに開発が進んでぞんざいにされた「はちまんさま」のことが気になり、調べたことがありました。

 秀吉の小田原平定で、小田原城への攻撃と平行して行われた関東の北条氏攻め。その戦いの際に、秀吉方の軍勢が低湿地の岩槻城を攻めあぐねていたそうです。そのとき、白馬に乗って川を渡っていく何者かの姿が…!

 わー、あそこ馬で渡れるやん! 攻めれるやん! 突撃~!!

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 というわけで岩槻城は落ちたという伝説があるのですが、この白馬に乗っていたのが八幡神社の神職。敵の襲来をお城へと早馬で知らせに行ったのが仇となってしまい、以来、お城方の久伊豆神社とはちまんさまの氏子とは縁組もご法度だったとか。わたし、高校生のころ何も知らずに久伊豆神社で巫女さんのアルバイトを何度かしたのですが、さすがに平成の世では何事もなく楽しくお仕事できました。

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 埋め立てられた川と鬱蒼とした森は、そうした歴史を抱えていたんです。この川の名前は「荒川」です。現役の荒川と元荒川があるのでややこしいのですが、わたしが実家にいたころは、この荒川にまだちろちろとした全然荒ぶらない流れと日光御成街道に小さな石の橋があり、草も生え放題で歩道は見通しが悪く、夜道注意なポイントでした。

 早馬の神職は処刑されたのか、戦いに巻き込まれてしまったかわかりませんが、あの物悲しい祭礼もうなずけます。「はちまんさま」にはさらにいわくありげな謎のお盆行事もありました。8月13日の夕方、氏子の男子小学生たちが提灯片手に「えーとーえーとーわっしょい」という謎のかけ声を発しながら氏子の各家を回り、お菓子やお小遣いをもらうという…ハロウィン的な、考えれば考えるほど不気味な慣習でした。正式名称も不明で、家でもえーとーえーとー来るね、と言ってたぐらい。

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 誰も知らないローカル歴史note、お読みいただきありがとうございました。自分でも身近な歴史が整理でき、お城を知るには歴史も地理も地形も大事で、実際に見て知っているというのは大きな財産だとあらためて思いました。お好きな方には地形だけでけっこう楽しめるお城だと思います、岩槻城。さて勉強勉強。

 すきすきいわつき、城下町(岩槻市民音頭)

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