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正論には少し自己中心的な質問で返すのもいいと思う

正論を振りかざす人がいる。
なかなか厄介だ。
だって正しいのだから。

職場や義理の家族にいると、めんどうくさいやつである。
そして、そういうところに必ずいるのだ。
これが。

しんどい。
そういう人にどう対応したらいいかと考えた。

はじめに論点を整理しよう。
多分論点は、少なくとも2つあると思う。

1つ目は、正論を振り回す人が本当に正しいかどうかだ。
2つ目は、自分が正しいかどうかだ。

正確に言うと1つの論点だった。
「正しいかどうか」についてだ。
正しいかどうか、自分と相手について考えればよい。

はじめに正論を振り回す人について考えよう。
便宜的に「嫌なやつ」という言い方をする。

それでは、嫌なやつが本当に正しいかどうか考えてみる。
その嫌なやつは、どんな正論を振りかざしているのだろうか?

嫌なやつは色々いるだろうが、多分毎日の掃除の時にですら窓のサッシの上のほこりを指で拭き取り、「まだ終わってないじゃないの?」とあたり前のように言うようなメンタリティーの持ち主ではないだろうか。

別に細かいということを言いたいのではない。
もちろん、めちゃめちゃ細かいのだが、要は過剰なのである。
基準がおかしいのである。

自分と嫌なやつの間には大きな溝がある。
時には、その溝は大海のように広がっているように見えるだろう。

いやいやまったく困ったことだ。
どうしたものか。

ここでよく考えてほしい。
嫌なやつが振りかざす、普通に考えていると思われる正論、それは本当に正論だろうか?
どんな物事だって、その正しさには振れ幅がある。

1から10まで正しさがあったとして、4から6位は誰もが正しいと思うけれど、例えば1から3は「それほど正しくないかな」と思う人がいて、7から10は、「それは違うよ」と思う人がいることもあるだろう。

つまりこれは「あそび」である。

車を運転する人ならイメージしやすいだろうが、アクセルを踏む時やブレーキを踏む時に、車がいきなり急加速し、急停止するわけではない。

徐々にスピードが速くなり、徐々にスピードが遅くなるのである。
これは、アクセルやブレーキが急に作動しないように「あそび」と呼ばれる余裕が設けられているからだ。

これがないと上手く運転はできない。

乗り心地が悪いだけでなく、危険ですらある。
嫌なやつの正論は、「あそび」がなくて、1とか10とか、限界までいきなり踏み込んでくるという気がする。

「いきなり限界まで踏み込むじゃねえ。危ねえだろ!」ということだ。

と、ここまで嫌なやつの正論ぶりを見てきた。
正論は正論だが、「いきすぎだよねっ」という気がしてきたわけだ。

とは言え、相手が上司だったり、姑だったりした場合、「あそび」がどうこうなんて言っている余裕はない。

そこでどうすればいいか、考えてみよう。

結論から言うと、質問するのが良い。
質問を通して、相手と自分の溝の深さや形を測るのだ。

そして、その質問の仕方を工夫して自分の主張に変えるのだ。
質問は、溝を埋めてくれるのだ。


もっと詳しく見ていきたい。
その嫌なやつは、正論を振りかざしており、それがなかなか痛い正論なはずだ。
ということは、それに同意はするが、受け入れたくない、という気持ちなのだろう。

いやはや、そういう時ってあるよね。

そこで、もう一度考えよう。
物事には「あそび」があると言ったけれども、そもそも価値の基準なんて人によっても違うわけだし、本当に正しさなんてあるのだろうか?

何が正しくて何が間違っているかなんて、自分が決めたわけではない。
自分が決めたわけではないから納得できないのだろう。
そこが問題なのである。

実は世の中に正しさなんてない。
いや、正しくは、こうあるべきという基準はある。
なぜなら、そうしないと世の中が回らないから。

そして、世の中が回った方が結果として自分も利益を受けられるので、従っているからにすぎない。

そうなると嫌なやつの正しさは、いよいよ怪しくなってくる。

次に自分の正しさである。
嫌なやつの正論の正当性を疑い始めた自分がいるではないか?
ならば、自分の正しさにも、分があると思う。

つまり、間違ってはいない。
付け加えて僕は言いたい。

少しきつい言い方になるかもしれないが、間違っていないが、正しくもないと言っておこう。

なぜなら 嫌なやつの正しさを受け入れてしまっているからだ。

つまり、問題の一部は自分が起こしているのかもしれない。

いやはや困ったことになってきた。
ますますややこしくなってきた。

ここで論点をもう一度整理したい。
最初に考えた、嫌な奴と自分の正当性については、だいたい解決したと思う。
つまり嫌な奴の正当性が揺らぎ、自分の正当性が比較して上がってきたはずだ。

そして新しい論点が浮上した。
それは、嫌なやつの正論を受け入れてしまったために、問題が起こっていることに、自分が気づいたことだ。

実はここが最も肝心な所だと僕は思っている。

相手が正しいか、自分が正しいかの是非は、もちろんあると思う。
でも1番重要なのはそこじゃない。

自分が相手を認めてしまっている。
受け入れてしまっているところが問題なのだ。

だからここに気づかない人は、いつまでたっても問題を解決することができないだろう。

自分の問題に気づいた人ならば次に進める。
つまり、問題の解決法、対処法である。

最も単純で最も効果的な方法である「質問する」ことを紹介する。
その次に、その使い方について話したい。

最も単純で最も効果的な方法は、とってもシンプルで「質問すること」である。

「いやはや、簡単すぎるね」と思うが、相手と自分の間に正論の振れ幅の違いがあるのだから、当然どの程度違うのかということについて、理解しておかないと話が進まない。

もし、嫌なやつにひたすら凹まされているだけで、質問したことがなかったのなら、もしかしたら、意外に早く解決するかもしれない。
やってないのなら、大変もったいないことである。

質問は、相手に自分と相手のとらえ方の違い、誤差の大きさを認識してもらう大事な機会になる。

そして相手の求める正論と自分の考える正論の隙間を埋める方法を、相手が納得する方法で知ることができるのだ。

これが最もシンプルで、最も効果的な解決法である。

通常これが手にすることができるであろうと思われる最高の正解である。
ところが、これは完璧ではない。
なぜなら、質問しても自分にとって良い答えが返ってくるとは限らないから。

質問したところで、相変わらず相手に都合のいい答えを押し付けられただけだったら、質問するだけ無意味である。
逆に 失望感や徒労感が増すに違いない。

そこでもう少し深掘りしたい。

質問するというのは、方法である。
方法というのは、ツール、道具である。

通常この道具を紹介するところまでは、割と教えてくれる人がいるのであるが、使い方を教えてくれないのである。

そこで僕の使いかたを紹介したい。
少し変わった方法である。

もう一度おさらいすると、世の中の価値基準は、絶対なものが存在するのではない。
あなたが受け入れている価値基準は、受け入れなければ、世の中が回らないから受け入れているにすぎない。

これは、いわゆる常識である。
おそらく、この常識にとらわれているのである。

少なくとも正論だと思っているのにストレスを感じているのであるから、自分の自由を常識に奪われたくないと思っているだろう。

であるならば、自由を取り戻そう。

質問することで相手の意図が分かったのであるから、次は自分の意図を振りかざす番である。

自分の意図とは、自分が自由になることである。

これはなかなか難しいのであるが、自分が自由になるには主張しなければならない。
質問することで、自分の主張をするのだ。
どういうことかと言うと、質問を主張に変えてしまうのだ。

質問するにしても、どうすればいいかを相手に聞いているのでは、それは自分の主張ではない。
相手の主張が返ってくるだけなのである。

自分の主張に沿った質問をしよう。

例えば自分が「こうしたい」と思うことがあれば、「こうしたらいいですか?」と質問してみるといい。
やはり否定されるかもしれないが、その回答には自分の主張が少しは盛り込まれて返ってくるはずだ。

その積み重ねを続けていくといい。
どんどん質問攻めにしよう。

その時に、わがままになると良い。
自己中心的なろう。
自己中心的な質問をすれば良い。
それが自分の主張というものなのだ。

最初から相手の答えが「正しい」と受け入れてしまっているから、自分が「間違い」になってしまうのである。

自分の基準に合わせて答えを出してもらうようにすればよい。
何もそれは自己中心的な主張を相手に押し付けているのではない。
なぜなら、ただの質問だから。
判断は相手がしてくれているのだから。

わがままになれ、自己中心的になれと言ったが、それは、このような悩みを抱える人は、謙虚で、まともな思考の持ち主で、相手に飲み込まれてしまっている人だと推測されるからである。

ここで注意すべき点は、いきなりわがまま、自己中心的になるのではなく、礼節をもって、小出しに、徐々になっていくのがよい。

これはテクニックである。
どんなテクニックかというと、相手があなたをどう考えているかを知るテクニックである。

つまり、相手が自分に対して、どれほどわがままで自己中心的なのかを判断する質問でもあるのだ。

自分のことを考えてくれた上で正論を振りかざしていたのであれば、そのことを感じられる答えが返ってくるだろう。
ところが正論を振り回したいだけの正論しか言う気がないのであれば、 おそらくその答えには、自分への配慮は入ってないはずだ。

ここで自分のとるべき態度がはっきりする。
つまり、わがまま自己中心的な正論を押し付けてくる人には、こちらも、わがまま自己中心的な姿勢を鏡のように写せばいいのだ

質問することで、自分が相手にとってどの程度の人間だと判断されているかが分かるだろう。
これが重要なのである。

とはいえ、結局のところ相手に権力があり力が及ばない場合、取り得る選択肢は一見すると無いかもしれない。

ところが、例えば相手から無用の人間だと判断されていたと分かると、どうだろうか?
自分を全否定されていたと分かったらどうだろうか?

選択肢は 浮かんでこないだろうか?

極論を言えば、わがままを言いたいだけ言えばいい、という選択肢もあるだろうし、完全にスルーするという方法もある。
面従腹背という方法もある。

やりますと言ってやらないというのは、けっこう正論志向の人にはかなり効果的な武器になるかもしれない。
                                     とはいえ、正確には相手が自己中心的だったとしても、礼節をもってその溝を埋めるように質問していき関係性を変えるのが良い。

どんな方法を選択するにしても、或いは選択しないにしても、全て自由である。

しかし、取りうる、わがままな態度、わがままさ、どの程度わがままに振舞って良いのか、分かるのではないだろうか。

質問とは、相手にとっての自分の重要度を図るということでもある。

自分が相手は権力者だと思っている人であっても、実はそうではない事に気付くかもしれない。
それは自分の頭の中で勝手に権力者に仕立て上げてしまっているからかもしれない。

反旗を翻せば、簡単に攻略できる、意外と弱い敵かもしれない。
思い切って全面攻勢に出るのも良いし、白旗を上げながら、かげで舌を出してみるのもいい。

もっとワガママになろう。
もっと自己中心的なろう。
そして、もっとしたたかになろう。

足りないのは、そこだ。

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