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記述する視点に正解が無いからこそ。

僕の「クラシック史 + ポピュラー史」について、民俗音楽サイドから見れば「西洋視点・帝国主義の視点だ」という見方がある一方で、クラシックサイドから見れば「バッハやモーツァルトの扱いがひどく、ドイツの大作曲家らを貶すような非常に偏った視点である」「現代音楽の扱いに悪意がある」などという見方もされますし、ロックサイドから見れば「ロック以外の細々した系譜まで書かれているくせに、肝心のロックは網羅しきれていなくて、○○メタルの系譜やUKの○○の系譜も枝分かれさせて書くこともできる」などという見方もされます。

どの意見も共通して、「コイツの歴史観は一見客観性のある資料であるかのように標榜しているにもかかわらず、個人の偏った視点で書かれてるぞ…!」というような見方なんだとは思うのですが、僕からしてみれば、全く正反対の方向から板挟みの指摘を受けているような感覚でもあります。結局どっちを目指すのが正解なんだ。と。すべての批判をかわすにはひたすら網羅するしかないと思いますが、そんなことは不可能です。

結局のところ「切り取らない見かた」というのは存在せず、「どう切り取るか」という視点の違いでしかなく、絶対的な正解というものは無いでしょう。

そのことは音楽史の記事のシリーズでも本編に入る前にわざわざ長々と書きましたし、何ならそちらのほうが通史よりも重要な部分だと思ってます。何度も言い訳がましいですが。

「切り取っていること」を反省し、「なるべく切り取らないこと」を目指した結果、何も記述できなくなるのは思考停止だし退化だと思います。「切り取っていること」を自覚しながら、その視点の移動を促すことができれば、個人視点でも通史の存在意義は充分あると思います。

別に炎上してるわけでもないし、特段誰かから直接叩かれている訳でも無いので、いったい誰に何を反論して言い訳しているのかって感じですが、ここ最近自分の心に引っかかっている "西洋音楽史の記述行為 = 植民地主義的" という問題について考えている故だと思います。

日本音楽史のことなど眼前の自己課題・関心事に決着がつけば、その次は非西洋音楽の系譜や "全・音楽史" の問題にも手を付けてみようかな。ただ、おそらく十数年後の話になるし、そんなものが実現できるなら学者の専門研究レベルの話になってくるからやはり厳しいなあ。

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