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駄作? 意味不明だった人は必見 やっぱりすごいぞ 君たちはどう生きるか ネタバレ 考察 文学読解

割引あり

レンタルしてきました。


君たちはどう生きるか・・・。について、自分なりの考察を行いたいと思います。今回も手ごわかったし・・・。大筋はつかめたと思っています。

私はレンタルビデオのみを見てこの考察を書きます。

また、この話は、宮崎駿自身が、『わからないところがあったと思います。私にもわからないところがありました』、という主旨の発言をしています。
どこがわからなかったんでしょうか・・・。気になりますね。

 そこで、宮崎監督がわからなかったところって、ここじゃないかな!と思うところについても言及し、私なりの答えを書いていますのでお楽しみに!

この宮崎氏発言のソースはウィキペディアです。この物語の流れは、ウィキペディアにうまく要約されています。私が閲覧した時点では、解釈系の話は全く載っておらず、全体のあらすじと、先ほど紹介したような話だけが載っていました。私はそこしか読んでいません。

 私は映画を見に行ったりしませんでした。あくまでもレンタルで借りてきた内容の本編くらいしか見ていませんので、悪しからず。

 理由は、本編を見るだけで伝えたいことを伝えきらなければ、作品を出す意味があんまりないかな~って思うから。こういう作品は、大筋として、万人向けに作っているはずだからだ。

 ※言い遅れましたが、私の解釈は内容がかなり重いので注意してください。


あらすじと発端

 まず、塔が天から降ってきたのが始まり。明治維新のちょっと前だという。1868年頃になる。

 30年後、森ですっかりと埋もれる。それを大叔父が見つける。塔を建物で覆うことにした。これが1900年頃。

 大叔父はその後、塔の中で姿を消す。

 おばあさんが奉公にあがって60年である。真人がアオサギ屋敷を訪れたのは、戦争が始まって4年目だった。この戦争とはいったい、どの戦争を指していたのか。

 昭和12年(1937年)に、ヒサコは、『君たちはどう生きるか』という本に直筆で『大きくなった真人君へ』と書いた。つまり、1937年には真人が既に生まれていた。1937年に生まれたとしても、アオサギ屋敷へ来た1943年には、6歳にはなっているはずだ。戦争から3年目に母さんが死に、4年目に東京を離れたということは、1943年頃の話だ。だから、第2次世界大戦のことである。

 とすれば、おばあさんが奉公に上がったのは、それから60年を遡った1883年頃である。大叔父がこの塔の存在に気が付いたのは、1868年ちょっと前から30年後。つまり、1898年ごろになる。

 奉公に上がるのは、この時だと13~14歳ころだったかもしれないから、1900年頃になると、おばあさんたちはちょうど30歳前後だった可能性が高い。

 おばあさんたちはそれぞれ同じように奉公にやってきて、ここでずっと働いていたのだろう。

 とすれば、大叔父にも奉公していたことになる。大叔父が姿を消した時、キリコや他のおばあさんたちも、その塔に入った可能性がある。なぜならば、おばあさんたちは塔が自分達を取り込むことを知っていたからだ。

 キリコに至っては、塔の主という言葉や、塔の主の声は血筋の者にしか聞こえないと言う知識まで持っていた

 この物語の終盤で、ヒサコが塔から出たことが、ヒサコが1年失踪した後のことを示しているのであれば、キリコも同じように塔から出てきているはずだが、キリコについての話は全くなされていない。これは非常に不自然である。

 また、ヒサコが1年失踪の後、何食わぬ顔をして戻って来た、ということをおばあさんたちが知っているということは、その時には、少なくともおばあさんたちは塔の世界からは離れて、この家に奉公していたことがわかる。

 ヒサコが死んだのが1942年頃だとする。とすれば、真人は何歳だろうか・・・。

 まだ6歳ということはあるまい・・・。おそらく、その倍の12歳程度にはなっていると考えられる。

 当時は、結婚の年齢が大体20歳ころであったこと。ヒサコが消えたのが大体真人と同じくらいの歳だったとすれば、死んだ年は30代前半だ。仮に32歳だとする。そして、ヒサコが失踪したのは、結婚の8年前ころだろうか。

 1942から32を引くと、1910年。大叔父が失踪して約10年後にヒサコが産まれたと仮定する。とすれば、失踪したのは大体1922年頃だろうか。

 真人は新しい母親(夏子)を受け入れることができなかった。新しく生まれてくる子の命も喜べなかった。そして、死んだ実の母親(ヒサコ)を求めていた。

 小学校でいじめられた際、自分で頭を打ち付ける。それは後で大叔父の前で告白したように、真人悪意の証明である。

 真人は、悪意を持つに至ったのだった。


 大叔父は、塔の中にある隕石と契約を結ぶ。下の世界を創造する力を持つことができたのは、隕石のおかげだ。その代わり、後継者としては大叔父の血筋の者を選ぶという契約を結んだ。

 この契約関係は、隕石にとって一体どのようなメリットがあるのだろうか。これだと、大叔父に一方的に力を貸しているのと大して変わらない。だが、神は世界の創造を人に任せるという特徴がある。力を貸す代わりに、大叔父が何度も世界を破壊し、再生する仕事を引き受けたことになる。『封神演義』に出てくる神と同じだ。その神の代わりに仕事をしているようである。

 このことを考えると、神が作り上げたい世界と、大叔父が作り上げたい世界は同じものであり、だからこそ大叔父が正当な契約相手として選択されたのだと考えることができる。そうした世界を築き上げることができれば、それは神との契約を果たしたことになる。神は、その契約を履行するために必要な力を大叔父に与えたのだ。

 隕石は、隕石にしか見えないけれども、塔の門に書かれたラテン語の言葉を解釈すると、『我々は神によって作られた』と書かれている。だから、ここでは、隕石=神と言ってもいいかもしれない。隕石がはじけ飛ぶと同時に塔が崩れ落ちたように、隕石=塔だとも考えられる。

神ですら抗えない理

 大叔父は、穏やかで平和で、清らかな世界を作ろうと考えた。しかし、この世界には、神でさえも超越しえないルールがある。生と死の理だ。生は他の『生』を取り込むことによって、自身の『生』を保つ。取り込まれた『生』は死を迎える。『生』は『生』を保とうとする自己保存の欲求を持つ。この欲求のために、『生』と『生』は互いに争い、傷つけあうことになる。

 大叔父は、穏やかで平和で、清らかな世界を作るために、『生』を極限まで抑え込むことを考えた。しかし、世界は『生』を持つものがいるからこそ成り立つものである。どうあがいても『生』をゼロにすることはできない。しかし、『生』があるということは、それと同時に『死』が存在するということである。生まれるということは、死ぬということなのだ。生を完全になくすことはできないが、しかし、ある程度抑え込むことはできる。だから、『生』を墓の下に封印し、門を閉じた。門を閉じることが『生』を復活させないための条件だった。

 必要なだけの生を世界へ呼び込み、バランスを整えようとした。大叔父が作っている世界は、生と死が人為的に管理された世界である。

 『われを学ぶものは死す』 我=『生』であるとすれば、生を学ぶことは死へつながると言う意味だろう。いきなりこういうことを言うのはどういうことだろう・・・と首をかしげたくなるものだが、とりあえず、生きることと死ぬことは等しいことである。

 この言葉は、『われ』という主体が何を指しているのかが最大の問題点だ。『私のことを学ぶ者は死にますよ』という意味と、『自分自身を学ぶものは死にますよ』と2通りの意味にとれる。

 ただ、ここでは『われ』=『生』であるとして話を進めたい。『われ』=『生』であると考えた理由は、後で説明する。

 命をつなぐためには、どうしても食べて生きなければならない。食べるためには、他の者を死へ追いやらなければならない。だからといって、全ての存在に殺す力を与えてしまうと、殺戮をし合う世の中になる。だから、若キリコに殺生の権利を与え、ワラワラや骨人間たちには命を奪う権利を与えなかった

 命を奪う存在を限定することによって、傷つけあうことを最小限に抑え込もうとしたのだ。

 海の魚は非常に少ない。ワラワラがしばらく飛ぶことができなかったくらい、不漁が続くことが多い。そんな海だから、ペリカンたちも食べる物がない。あるとすれば、滋養を付けた後のワラワラだった。大叔父は、ワラワラを食べさせるためにペリカンを連れてきた。そしてそのペリカンヒミが焼くことになる。この連鎖から、ペリカンは逃れられないと老ペリカンは語る・・・。

 ワラワラは、上の世界で人間として生まれる。にもかかわらずペリカンを連れてきたということは、現世で生まれる人間の子を制限するためだろうか?

 私の考えだと、ペリカンを生かすため、そして、殺すためである。ペリカンヒミによって燃やされ、海に落ちると、恐らくは海の魚の餌となる。魚の少ない海であるが、なぜか不自然なことに、巨大魚が生息している。この魚たちは、私の推測だと、ペリカンの死体を食べることによって繁殖する

 ペリカンワラワラを食べ、巨大魚ペリカンを食べ、若キリコ巨大魚を取り、ワラワラ巨大魚を食べる。こうして、小さな世界で食物連鎖が成り立つことになる。 

 生きるということは、体内の栄養状態を保ち続けることでもある。その栄養は他の命が持っている。栄養は一度砕かれ消化器官に渡らなければならない。そうなるためには、対象の『死』がなければならない。生きたまま他の生命に取り込まれるということはないのだ。

 ここでは、機械の歯車のように、『生』と『死』の循環が産まれている。私たちの世界で多くの生命が行っているような、汚い手段を取る余地もない。ただ決められたとおりに、生きるために行動するだけだ。それ以外の選択肢はない。

 ヒミの役割は、ペリカンを燃やすことでもなく、ワラワラを助けることでもない。ペリカンを焼いて、巨大魚の餌を作ることだ。だから、ワラワラもペリカンも見境なく焼く。確かに、助けるためには少数の犠牲は必要、という見方もあるにはあるが、私としては、この食物連鎖を保つための仕掛けとして、ヒミはその役割を任されたものであると考えている。

 真人は、ヒミに対して、ワラワラを燃すな~と叫ぶ。しかし、このことを後からヒミに生意気を言っていたと言われる。真人には、この世界の理がまだ見えていなかったのだ。

 生き物は『生』を保つために知恵をめぐらす。相手を騙し、自分を優位に立たせる。相手を騙すためには、自分の持つ心の刃を隠す必要がある。つまり、悪意が必要となる。よって、『生』は悪意を呼び込むことになる。自分の正直な姿を常にさらし続けると、自分は食われてしまう。『死』をもたらそうとする存在に対して、『生』は対抗しようとする。

 私が別の記事で何度か書いたことだが、『悪』とは、犯罪者のことではない。『悪』とは、内面とは違う外観を作出することである。例え我が子を守るために自分が犯罪者だと身代わりとして名乗り出るような親でも、それは悪人である。逆に、皆が近づきたくもないような狂暴な人間がいたとしても、その狂暴な人間が、自分の狂暴性を包み隠さず外に出しているのであれば、その人間は悪人ではない。近づくとやばい人間だ。この人間が悪人であるならば、ライオンやクマも悪いということになる。

 真人は、自分をいじめる子供たちに対抗するため、大人の力を利用することを考えた。自分の頭を自分自身で傷つけた。あたかも、いじめっ子が行ったものであるかのような外観を装った。

 これは真人の悪意だった。

 そして、父親の怒りを味方につけた。父親は300円を学校に寄付し、校長を買収した。これで、自分達をいじめた生徒たちは、ひどい目にあうだろう。それが真人の計算だったのだ。

 一応、この物語が語る『悪』と、私が説明してきた『悪』とは、違いがないということを理解していただけたと思う。


 1943年 真人夏子の実家 アオサギ屋敷に疎開する。
アオサギ屋敷という名の通り、庭にはずっと前からアオサギがいる。
真人が来た途端、真人の傍を通過する。夏子はとても珍しいと驚く。

 アオサギ真人を塔の中へ連れ込もうとする。真人は罠だと感じ、アオサギを怪しんだ。だから、すぐにアオサギの招聘に応じることはなかった。

 アオサギは、恐らく、大叔父の命令を受けているのであろうが、この時点では、何が目的なのかは定かではなかった。

 そして、夏子が失踪したことを皮切りに、真人アオサギの招聘に応じることにする。だが、真人の意識は、ヒサコが本当に生きているのではないだろうか・・・という淡い期待に向けられていた。

 大叔父は、アオサギのことを、『愚かな鳥』と言った。どちらかというと、鳥側の存在なのか・・・。

 そして、案内する・・・というのは、『夏子の元へ』ということだ。大叔父は、真人夏子の元へ向かうことを知っていたし、それを認諾していたと言える。

 下の世界に真人が行けば、インコに食われる可能性もある。そのため、アオサギはご武運を・・・といいながら下の世界へ真人を連れて行く。

 大叔父真人が食われる危険を知りながらも、真人を下の世界へ連れて行ったのはどうしてなのか・・・。真人ならば、切り抜けるという確信は、あったのだろうか。

 大叔父はおそらく、若キリコに対して、真人が下の世界に降りてくることを伝えた。そのため、若キリコ真人がいる島へ偶然とも言えない状態でやって来ることができた。(しかし、若キリコは、真人のことを知らなかった・・・あるいは、知らないふりをしていた・・・。?)

 真人がカゼキリの7番を弓矢に装着することができるくらい、この物語は偶然要素が強い。だから、若キリコが来たのもたまたまかもしれない。大叔父若キリコを、ワラワラの滋養をつけさせるためにこの世界に住まわせている。若キリコには大叔父からの役割が与えられている。大叔父若キリコ真人の助けに向かわせた可能性がある。

 インコ大王真人大叔父のところへ立ち寄ると、大叔父は来ることがわかっていたかのような応答をする。彼には世界の全体が見えているのだ。そうでなければ、下の世界を作り上げることはできないだろう。

ペリカンと真人のやり取り

 ちょうどその折、真人ペリカンの襲撃を受けていた。ペリカン真人に対して、立て!進め!行こう!食いに行こう!とはやし立てていた。

 ペリカンたちは、『生』を再びこの世界に充満させ、ペリカンにとって豊富な食べ物がある世界へ変えてほしかったのだ。だが、どうして真人でなければ門を開けられなかったのだろうか。

 門を開けることは、ペリカンにはできなかったのはどうしてだろうか。
門の向こう側へは、簡単にいくことができる。このことから考えると、重要なのは、門が開いているか、あるいは、閉じているかで、違いがあるということだ。

 私はこの門を、陰門のメタファーだと考えている。

 そのことを論証するために、ちょっと考えてみよう。墓の下に入るのは、生きていた存在である。そして、生きていた存在が死んだあと、墓の下に入れられる。

 とすれば、その墓の中から何が出てくるのか。つまり、墓の主とは何者か。それは、死である、と考えることができる。

 だけど、ペリカンたちが死を欲するとは思えない。

 だから、こうも考えられる。墓の中から再び出てくるということは、復活を意味している。そもそも、この世界は大叔父が作り出した死に近い世界だ。若キリコが言うように、この世界のほとんどの者は死んでいるやつが多い。

 また、若キリコの火によって墓の主が去ったこととも整合性が取れない。火はをもたらすものだが、はすでにであるため、火を怖がる道理がない。(少なくとも、この物語では、火は『生』に死を与える役目として描かれているように思う。)

 だから、私個人は、この墓の下に入っていたのは「生」であると思う。(あるいは、死であったものが生として復活してくる。私としては、生それ自体がそのまま封印されているのではないかと考えている。)この中に「生」が入っていると判断したのは、大叔父が意図的に「生」を制限した世の中を作ろうとしていたとしか思えないからだ。

 生のある所に死がある。生と死は隣りあわせだ。死は生をはぐくむ。生は死をはぐくむ。

 真人は死の匂いがプンプンしている、と若キリコに言われる。真人という名前からは、正直者という意味が読み取れる。正直者が馬鹿を見る・・・という言葉通り、私たちの世界は、真っ直ぐに生きる人間には生きづらい世の中だ。適当な嘘をつける人間の方がうまく世渡りをすることができる。命は結局嘘であり、生は嘘の塊でできているからだ。嘘は心地よい。ゆえに、性は快楽をもたらしてくれる。

 この世界には死が二つある。肉体的な死と精神的な死だ。肉体的な死は、肉体の機能が停止すること。一方、精神的な死は、都合のいい嘘に包まれることだ。人は快楽を求め、都合のいい情報を自分にまとう。この世界で受ける苦痛を感じないで済むように。快感を得続けられる場所へ帰ろうとする。それが可能な唯一の場所は、母胎である。

 母胎に回帰すれば、人はこの世界の苦しみから逃れることができる。しかし、それはこの世界では生きていないことの証明だ。すなわち『死』である。人は暑ければ冷房を使い、寒ければ暖房を使うように、不快なものは遠ざけ、快を感じるものは近づける。諫言するものは傍にはつけない。イエスマンだけを傍につける。嫌いな人間は傍によせない。好きな人間だけを傍によせる。そういうものだ。

 私たちが家を作り、その中に入るのも、母胎回帰の精神があるためだ。雨風をしのぎ、自分から命を刈り取りに来る存在から身を守るための場所だ。

 母胎から出て生きることは、人間を強く、たくましくする。逆に、母胎の中にずっといるということは、人間を弱くする。

 だからといって、むやみやたらに外にいてばかりいると、死ぬ恐れもある。母胎の外にいるということは、死と隣り合わせの状態になることは確かだ。例え母胎の中にいることが情けないとはいえ、身体と心をいたわる必要があることも確かである。

 性行為が単に肉体的快楽だけではなく、精神的な快楽をももたらすのは、母胎に回帰した感覚を直に味わえるからである。母胎は、新しい生をはぐくむ場所であり、生の原点なのだ。しかし、そこにたどり着くことを夢見ることは、この世界には産まれていない者が存在するべき場所、すなわち、死を目指すことに他ならないのである。

 そのように生きていく人間は、人としての死を迎える。生の原点を目指し、その場所へたどり着こうとするもの・・・。すなわち、生を学ぶものは、死へと帰するのである。

 人間は、生を求め、毎日を生きる。生を感じ、死を遠ざける。しかし、それがこの世界へ多くの死をもたらしている。人間はそれがために、罪深き存在だ。生を強烈に感じられる場所を目指す。財産を出来る限り多く持つことであり、異性を求めることであり、住処を求めることであり、仕事を求めることであり、・・・一言で言い換えれば、母胎の代わりを求めることである。

 母胎は陰門の先にある。よって、私はこの門が、陰門のメタファーであると読み取った。

 とはいえ、生き物にとって、生を取り込むことは必要なことだ。私たちは他の命をいただいて生きていく。他の生を取り込むことによって、他方には死を残して行く生き物だ。これがエロスの法則である。食べることも一つの快楽である。一方が快楽を感じ、他方は快楽の元となる。快楽を感じる者は生を味わう。快楽を味わわさせるためには、他方に死がなければならない。

 エロスは、快楽を感じる一方で、死という損害を生み出すものだ。男性が女性と性行為を行うのも、例えばレイプなどは、男性が快楽を得る一方で、女性には損害が発生するものである。だから、基本的に女性は性行為を嫌がるものだ。それは、胎内へ回帰したいだけの男を受け入れるわけにはいかないからである。その男は、人間として死を迎えた存在であり、世界で生きる上で強い存在とはみなされないからだ。しかし、この地球上では、生きることへの辛さから、生きることから逃れたい者達が、母胎を目指して殺到するのである。真人を襲ったペリカンたちのように・・・。彼らの激しい暴力に、真人は抵抗する術もなかった。

 もちろん、エロスは性に関係するものだけではない。生を感じたいと思う心一般を指す。死を迎える者は、生を感じたい者達のために、生を提供する。生を巡って、人々は争い合う。男が女を巡って争い合うように。あるいはその逆のように。

 ここは非常にややこしいところだ。生と死が交差する地点だからである。
生の極地は、死なのだ。

 大叔父は、エロスを求める生物の欲望こそ、争いの火種であると知っていた。従って、エロス=生を墓の下へ封印したのだった。ちなみに、エロという言葉は、eroticで、性愛の、という言葉が元であるが、eloというフィンランド語がある。これは何と、[生命]という意味だ。

 若キリコは、墓の番人でもあり(多分)、ワラワラ管理者でもあり(これは間違いない)、真人の水先案内人でもあった(結果論だけど)。そして、この世界で殺生ができる権利を与えられた数少ない人間であった。

 大叔父は、殺生ができる人間を少数に絞り込むことにより、生が死を与え合う醜い世界を極力制限しようとした。そこで、若キリコヒミペリカンのみに、生を殺す力を与えた。インコも自分達で他者を殺す力を身に着けた。

 というよりも、殺生の権利が与えられたのは、外の世界から呼ばれた存在のみであると言うことに注目だ。この世界で産みだされた存在は、殺生の権利が与えられていない。このことから、若キリコは、「私はずっとここで暮らしているんだ。」と言っていたものの、結局は外からやって来た人であることがわかる。ずっと、っていつからいつまで?が判明しない。アバウトだ。

 若キリコは魚を取り、ワラワラに食べさせる。ペリカンワラワラを食べ、ヒミペリカンを焼く(ついでにワラワラも焼いちゃう)。焼いて死んだペリカンを、巨大魚が食べる。

 ワラワラを助けたいなら、天敵のペリカンを根こそぎ焼き尽くせばよい。なぜそうしないのか・・・。それは、巨大魚の餌となるペリカンの死体がなくなるからだ。ペリカンはある程度ワラワラを食べ、ある程度は死んで魚の餌となる。絶滅させてしまうと、この循環は途絶えてしまう。
 
 しかし、その機械的な生き方は、生の力を弱め始める。ペリカンの子孫は飛ぶことを忘れていってしまう。このことは、老ペリカンの言葉からもよくわかる。

インコが存在する意味

 一方で、生の力をとてつもなく享受しているのが、インコである。インコペリカンの進化は、どうしてここまでの差ができたのか・・・。(最初、インコペリカンアオサギ・・・。鳥ばっかで変な世界だな・・・と思ったが)、結局は生き物が何であるのかはどうでもよかったのかもしれない。

 インコとペリカンの進化と退化。ここが注目するべき点だったのだろう。
ペリカンは水のある場所に生息する。海のある場所でなければならない。一方で、インコは屋内でも生活できる(もちろん、水は必要だろう)

 インコは体が小さいが、食べ物は穀物などだ。草食動物である。この世界でも植物は実るわけだし、ペリカンと違って栄養不足にはなりにくい。

 インコはこの世界の食物連鎖の仕組みの中にはいなかった。天敵となるものが存在しないのだ。そのため、異常な繁殖を見せてしまったのだろう。数が増えすぎて、食べる物がさすがになくなってしまったかもしれない。

 また、木の穴とか、そうした屋内に自分の棲み処を作ることができる。格好の住処として選ばれたのはこの世界の原点となる塔だった。塔は悪意の石でできている。悪意は、『生』を希求する者が宿す意思だ。悪意とは、『生きる』ためのずるい知恵だ。

 真人は、大叔父と夢の中で出会った際、大叔父の出す石を見てこういった。

 『その石は墓の石と同じです。悪意があります。

 墓の石は、生を封印した石だ。石は悪意を持っている。生きようとするものには悪意が宿る。アオサギ若キリコの家でこう語っている。

 『ずるいのは我々の生きる知恵です。』

 生=悪意=我々の生きる知恵

 この3つの言葉が密接に関係しているということに気づけるかどうかが、この物語を読み解くヒントになるのではないだろうか。

 この石の影響をインコは受け続けた。そして、インコは生きるための知恵を持つ存在として進化を遂げていったのだ。脳は肥大化し、道具の使用ができるようにもなった。体は大きくなり、肉食までも行うようになった。

 真人を迎え入れているようで、背後には刃を隠し持っている。悪意が無ければできないものだ。

 このインコたちを、なぜ大叔父は放っておいたのか・・・。そして、そもそもなぜこの世界にインコを連れ込んだのか。

 アオサギは、大旦那(大叔父)が連れ込んだのが増えたんだ・・・という。しかし、今となってはこのインコの存在は、大叔父の作りたい世界を壊している厄介者であるとしか思えない。

 彼らは、見境なく、獲物を取っては食べる存在へと進化したのだ。これでは大叔父の穏やかで平和な、理想として思い描いた世界とは、かけ離れた状態になるばかりである。

 おそらく・・・、大叔父自体の手によっては、インコを絶滅させることはできない。それはやってはいけないのだろうと思う。それができるのならば、自分でワラワラの数を制限する。それをペリカンに食べさせるなんて悠長なことはしない。巨大魚にも自分で餌を与えてやる。自分で命の量を管理し、死の量をも管理することができるはずだ。

 大叔父が目指したのは、自分が直接的な介入を行う必要もなく、その世界で生きる存在達が自然に生きていくことを通して、穏やかで平和な世の中になって行くことなのだ。そのための実験を行っているのである。

 では、インコの天敵として、例えば猫を連れ込むことなんかは考えなかったのだろうか。じゃあ、今度は猫がインコにとってかわる存在になるだけだ。では、猫の天敵である何かを連れてくるべきか?すると、鷹とか鷲になるかもしれない。調べたところ、オオカミとかコヨーテとかも猫を襲うらしい。

 じゃあ今度は、そのオオカミやコヨーテを・・・と考えていくと、私たちの世界にある食物連鎖の構造をそのまま持ってこなければ、バランスが結局取れないのではないか・・・という結論に行きつくようになる。

 とすれば、そもそも・・・、インコを持ち込まなければよかったのではないだろうか。という話にまでもつれ込んでいく。

 大叔父インコをほったらかしている(ように見える点)、そもそもどうして連れてきたのか?ということが不可解な点。こいつらさえいなければ、大叔父の世界はもう少しまとも(ペリカンは苦しんでるけど)のように思えたのだが・・・と、私は忸怩たる思いでこのアニメを見ていた。しかし、ここには、とてつもなく重要なメッセージが隠されている。

 つまり、この不可解な状態をあえて物語に取り込んだところに、宮崎駿の一つの狙いがあると感じる。そして、これこそが、私がこの記事の冒頭で語ったような、本人が語る、『私にもわからなかったところがある・・・』という点なのだと考えている。

 これは、私たちの世界と同じだということだ。神はなぜ我々人間を作ったのか・・・。我々さえいなければ、世界は食物連鎖を十全に保つことができていたのではないだろうか。人間がこの世界で繁殖し、他の動物たちから住処を奪い、自分達が動物界の頂点に君臨したがため、世界は却ってバランスを崩すことになってしまった。

 この疑問は、大叔父インコを自分の世界に持ち込んだことと並行して考えることができる。つまり、なぜ我々はこの世界に産まれたのか?なぜ神は我々をこの世界に作り出し、人間はこの世界で様々な問題を引き起こしているにもかかわらず、神は我々を全滅させないのか・・・という疑問と並行して考えることができる。これは、私たちが、『君たちはなぜ生きるか』を見て、なぜ大叔父はインコをこの世界に連れ込んだのか?なぜ大叔父は、インコを絶滅させないのか・・・という疑問を抱いたことと、全く同じであることに気が付く。

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