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創作大賞2022応募作品 「立てこもり」13.9月23日14:00

13.9月23日14:00 

 山下は、ゆっくりと眼を開けると声がした方を向いて、中村が自分を見ていることに気がついた。中村は、感極まったのか泣き始めた。夢だったのか…。と、ほっとした。クーデターなど、日本にはそぐわない。山下は、「ここは…?」と中村に尋ねた。
「警察病院の病室です」
「警察病院? 今日は何日だ?」
「9月23日です」
 山下は、中村の言葉で自分が逮捕されたことを悟ったが、病室にいるのは中村と加藤それに見ず知らずの男の三人だけだった。
 山下が、見ず知らずの男を見たとき、「おかげで、私の給料も下がりそうになりました」と、男は苦笑いをした。
「山口さんですね」
 山下は、男の声で始めて男が山口だと知った。
「はい。おかげで、散々な目にあいました。貴方のお守りは、並大抵ではない。総理まで、シンパにしてしまうのですから。それから民衆まで味方につけてしまった」
 山口の眼は、言葉とは裏腹に笑っていた。
「総理が、解放された後の会見で、内閣改造をすると言ったときには驚きましたよ。即刻ですから。最初に防衛大臣を更迭すると言ったときは、溜飲が下がる思いでした。それに、今回の事件は不問に付すということですぐに解放されました」
 中村は、ほっとしたのか涙をぬぐわずにいつもより饒舌になった。が、自分があそこで、折れなければ取り返しがつかないことになっていた事を考えるとゾッとした。

 山下が倒れたとき、急いで藤田と久保を起こし病院に運べと譲らない総理に中村は、「何があっても中止はするな。これが、隊長の命令です」と、胸を張って答えた。が、心中は人一倍山下の身体を気遣っていた。
 それに対し総理は、「もし、倒れたのが君だったら、いや、ほかの誰でもいい。君たちの誰かが倒れたら、機動隊との銃撃で撃たれたらどうかな? 同じことを言って、君たちを見殺しにするというのかね?」と、穏やかな声で中村に尋ねた。
「それは…。」
 中村は、見殺しと言う言葉に何も反論が出来なかった。山下の気持ちは、手に取るように解った。もし総理の言うとおりのことが起こったら、躊躇なく自分を犠牲にしてまで助けようとするだろう。隊長は、そんな人だ。
「もう十分ではないかね?」
 総理は、静かな怒りを目に湛えて執務机から立ち上がると中村たち全員を見回しながら、ゆっくりと中村の前まで歩み寄って、「あなたたちの主張は、国民に届いたと思わないか」と静かな口調になった。
「しかし…」
 中村は、苦渋に満ちた顔になって目を泳がせた。
「私を、信じてくれないだろうか。悪いようにはしない」
 中村の顔を正視しながら、総理は優しい口調になった。中村は、複雑な顔で総理を見た後少し頭を整理するかのように俯いた。
「中村。総理を、信じようじゃないか」
 加藤は、中村の頑なな態度に危惧を抱いて、「このままじゃ、本当に隊長は死んでしまう」と詰め寄った。
「隊長の命には代えられん」
 藤田は、中村の前に立ちはだかった。
「そうだ!」
 他の者たちも口々に言った。
「いいのか!?」
 中村は、全員を見回した。
「決まったようだな」
 総理は、全員の気持ちが変わらないうちにと思いもう一度電話の受話器に、「こちらの了解は取り付けた。すぐに、救急車を呼ぶんだ」と怒鳴った。
 古賀は、目を覚ましたが、珍しく憎まれ口を言わずおとなしくソファに座ったまま成り行きを黙って見ていた。自分の余計な発言でこの場が混乱するという配慮ではなく、中村と総理のやり取りに気圧されていただけだった。
 それからすぐに、全員がエレベーターで、三階にある正面玄関ではなく一階の西通用口前に向かった。正面玄関は、内情を知らない群衆がまだ詰掛けており混乱が予想されたからだ。
 一階に降りると、長谷部が、「どうしました?」と声を掛けた。その時、救急車のサイレンが聞こえてきた。
「隊長が倒れました」
 総理が、答えた。古賀は、ほっとしたような顔をしていた。群衆の中からどよめきが起きた。
「道を開けてくれないか」
 総理は、時間を惜しむかのように言った。
「解りました」
 長谷部は答えると、バリケードの前まで歩いて行き、「誰か手伝ってくれ」と群衆を振り返った。
 細谷と大沢、それに数人の男たちがバリケードを片付けに掛かった。
「どうなるんすか?」
 大沢は、心細そうな顔で尋ねた。
「これで、終わりだよ」
 長谷部は、あっさりと答えた。後悔や苦渋ではなく、何か吹っ切れたような顔をしていた。
「まだ何もしていないっす」
 大沢は、不服そうな顔をして、バリケードの机を運ぶ手を休めた。
「君は、山下さんを見殺しにするつもりか?」
 長谷部は、大沢を睨みつけた。
「そんな…」
 大沢は、困惑した顔を長谷部に向けた。
「これで、いいんだよ。俺たちは、山下さんの少しでも助けになるならと勝手にやっただけだ。それを、見殺しには出来ないだろう」
 長谷部は、バリケードを片付けながら淡々と話した。
「そうっすね」
 大沢は、納得してバリケードの机を運び始めた。残りの群衆は、立ち上がると心配そうに山下の周りに集まってきた。

「それは、超法規的措置ということかね?」
 山下の問いかけに中村は、山下の言葉で我に返ったが答えようがなかった。中村は、ただ事情聴取だけで解放されたが詳しい理由は知らされていなかった。
「違います。総理は、これは政治的配慮だよ。と、言われました」
 山口は、困惑した中村の代わりに答えた。
 山下は、山口の言葉に驚いて真意を確かめるような顔で山口を睨みつけるように見て、「政治的配慮とは、胡散臭いね」と、複雑な顔になった。
 山下の憂慮することは、山口にも分かった。それはそうだろう。何か裏にあって、この事件を総理が利用しようとしていると考えるのが常識なのだから。
「我々を、ねぎらいに来られた時に聞いた言葉です。しかし、総理が言う政治的判断とは、胡散臭いものではないと確信します」
 山口は、その時の光景を思い起こしていた。

 総理は、手の空いている対策本部のメンバーを全員会議室に集め礼とねぎらいの言葉をかけた。その後に、「今回の事件は、不問に付す。彼らの事情聴取が終わり次第開放するように」と言った。会議室は、騒然とした。主犯の山下大輔が倒れ、呆気なく事件が解決したことに肩透かしを食らった対策本部の面々は、総理の意外な言葉に驚かされることになった。
 山口は、思わず立ち上がり、「それは、超法規的措置ですか?」と、尋ねていた。折角事件が終息したのに、今までの苦労は報われないのか? という意味ではなく、純粋に総理の真意が理解できないという想いからの質問であった。昔ハイジャックされた時に、超法規的措置で犯人の要求を呑んで世界から非難を買ったこともある日本ではそういうことも考えられたからだ。
 しかし、今回は事件が収束している。犯人たちも全員逮捕され、官邸に立てこもっていた一般人も素直に退去している。なぜ、不問に付すのか見当もつかなかったからだ。
「君は、山口君だね」
 総理は、電話対応していた山口の声を覚えていてにこやかな顔になってから、「違うね。簡単に言うと、政治的配慮だよ」と、余計に意味不明な言葉を使った。
 会議室は、ほとんどの対策本部のメンバーが困惑した顔になり隣の人間と小声で話す声がそこかしこで聞こえた。
「休戦協定が調印されたと考えてもらってもいい」
 総理の言葉に、会議室は騒然とした。
「山口君には電話で言ったが、彼らは、犯罪者でもテロリストでもない。クーデターというよりは、革命軍と位置づければみんなも納得してくれるだろう」
「革命軍にしては、薹(とう)が立ちすぎているようですが」
 誰かが発言した。誰かが失笑する声が聞こえた。
「そうだね。それに、たったの7人だ。彼らが、止むにやまれず行動を起こしたことは、諸君たちも理解していることと思う。我々は、彼らの行動に敬意を払う必要がある。信じられるかね? 国会よりまともな犯罪者が存在することを…」
「しかし、罪は罪です」
 対策本部長は、憮然とした顔をした。
「そうだね。しかし彼らが本気なら、内戦に発展したかもしれない。事実官邸に詰めかけた群衆は、君たちの対応如何によっては暴徒と化した可能性もある。それが全国に波及すれば、本当の内戦になったかもしれない。そうなれば、休戦協定を結んでお咎めなしだ」
 総理の考えは、飛躍していた。が、内戦になって休戦協定を結べば首謀者はお咎めなしになる可能性があることも事実である。
 海外では、革命軍が投降したあとに革命軍の指導者が政府の中枢を占めることもある。日本でも、明治維新の時に旧幕臣を政府に迎入れたこともある。そう考えると、政治的配慮という言葉が現実味を帯びてくる。まさか? 総理は、試案を採用しようと考えているのだろうか?
 犯人…、いや、革命軍の言うように国民の判断を求めるつもりなのだろうか?
「休戦協定の内容は、革命軍の要求に応える内容になる」
 総理は、あっさりと言った。会議室は騒然とした。総理は意に介していないのか、「これからは、経済ではなく国民の命を最優先する」と、少し大きめの声を上げた。
 少し前、コンクリートから人へというスローガンを掲げて政権交代を果たした政党があったが、結局人はないがしろにされ行き当たりばったりの政策で国民が離れていった記憶が山口を少し不安にさせた。
 今にして思えば、政権交代をするためだけの継ぎはぎだらけで国民に媚を売るだけの何の根拠もない政策であった。官僚に対案を考えさせるということで、少なくとも現実味を帯びてくることで少しは安心していいのかも知れない。と、考え直した。 

 その後総理は、撤収準備をしている山口のもとに一人でやって来て、「もし、これが狂言だとしたら、どうなる?」と、山口に尋ねた。
 山口は、総理の言葉に驚いて無言で総理の目を見た。山口は、今までいた部下たちがいなくなっていることに気がついて入口を見た。部屋の入口には、困惑したような顔でこちらを見ている部下たちと、複数のSPが見えた。
 山口は、手際の良さに驚いたが、「もし、狂言だとしたら、万が一、総理が事前に知っていて…。いや、総理が首謀者だとしたら?」と、言ってから総理の顔を見た。
「ほう。そこまで考えるのかね?」
 総理は、笑った。
「あくまで、可能性の問題です」
 山口は、そこまで答えて総理の真意を測りかねた。何が言いたいのだろうか? 冗談で言っているわけではないだろう。
「そうだね。可能性はありうる」
 山口は、総理の言葉に驚いて総理の目を見つめてしまった。
「で、私が首謀者だったら?」
 総理は、目を泳がせることもなく山口から視線を外さずに尋ねた。
「もしこれが狂言だとしたら、防衛大臣も一味だとしたら拉致監禁に関しては無罪になりますが…」
 山口は、そこで口ごもってしまった。
「君も、そう思うか」
 総理は納得した顔になった。
「いや…」
「君の思っているように私が首謀者なら、あんな男を仲間にしたりはしない。今、あの男を(防衛大臣に)起用した事を恥じている」
 山口は、驚いた顔で総理を見た。総理は、「話の腰を折ってすまない。続けてくれないか?」と、素直に謝った。
「なら、違ってきます。理由がどうであれ、防衛大臣を拉致監禁した罪は消えません。それに、いくら狂言とは言え、犯人が要求した内容から考えると、脅迫罪(刑法第222条)、強要罪(刑法第223条)に該当する可能性もでてきます。が、一概に言えませんし、事実関係も曖昧ですので、取り調べをしてからでないとはっきりしたことはお答えできません
 山口は答えてから、「何をお考えですか?」と、総理に尋ねた。
 総理は、「大統領経験者のほとんどが罪に問われる国もあれば、我が国でも過去にそれで失脚した政治家もいることだ。今回だって、何を言われるか知れたものではない。様々なことを、考えておかないといけないと思っただけだよ」と答えたが、山口には納得できなかった。それでも、これ以上質問することははばかられた。
 その後の展開を見ていると、総理は狂言という言葉を使ったのかも知れないという懸念が残った。狂言という言葉で、腹心の部下を黙らせた。自分を自分で人質にとって、国民に全て話すと総理が言ったとしたら? 政権は沈没する。いや、大多数の国民は歓迎するだろうが、政界の混乱は避けられない。 

 山口は、会議室で聞いた総理の話を手短に山下に伝えた。が、その後の総理と二人での話はしなかった。
「で、野村くんはここにいないが無事か? どうしている? 試案はどうなった?」
 山下は、気掛かりにしていることを立て続けに尋ねた。
「すいません。総理との会見が延びているようです。間もなく現れるでしょう」
 山口は、素直に謝った。
 山下は、総理の言葉に嘘がなかったことにホッとしたと同時に驚いて、「外交辞令ではなかったのか…」と、複雑な顔になった。
「対案は、まもなく出てくるはずです。時間通りに」
 中村は、少し胸を張って誇らしげに答えた。
「ということは?」
 中村の言葉に山下は、困惑を隠せなかった。こんなに自分たちの主張が受け入れられるとは、考えられなかったからだ。まだ夢を見ているのだろうか? と、少し不安になった。
「あなたの、クーデターが成功したということです。いや、これは革命です」
 山口は、中村の代わりに答えた。山下が思いもよらない革命という言葉を敢えて使った。山口には、革命以外には考えられなかった。しかも、たった7人の老人たちが起こした革命であることを考えると、前代未聞と言って良いだろう。
 山下は、この三人の言うことが真実かどうか考えてみた。自分は、もう長くはないのだろうか? だから、この三人は自分を気遣って…。いや、そんなことが許される訳はない。ということは…。この三人は、真実を語っているという事だろうか? 山下は、そこで考えることをやめた。
 これで、充分だと思った。そんな事はどうでも良くなっていた。自分のやることはすべてやった。あとは、国民に託そう。そうだ。もう自分の役目は終わったのだ。
 山下は、総理や山口それに官邸に詰め掛けた人々官邸に立てこもろうとした長谷部たちに任せることにした。
「事前に武器が発見されて、革命が不発に終わったらどうするつもりだったんですか?」
 山口は、革命だと確信していた。山口の質問に山下は、「革命などと大それたことではない。少しだけ、総理に無理やり付き合ってもらっただけだ。事前に発覚しても、結果は同じことだ。彼の試案は、世に出る。今回のような騒ぎにはならないだろうが、彼の主張が国民に知れ渡ることに変わりはない」と、答えてから笑った。
「君たちにも礼を言う。ありがとう。よくやってくれた」
 山下は、中村と加藤に礼を言うとゆっくりと眼を閉じた。
 山口は、真剣な眼差しになると、「山下さん、最後に一つだけ聞きたいことがあります」と、控え目に尋ねた。
「なんだね?」
 山下は、眼を開けると山口を見た。
「自動小銃は、どうして手に入れたのですか?」
「そんな事か」
 山下は、笑った。
「おかしいですか?」
「おかしいね」
 山下は、少し山口を無言で見た後に、「君は、自衛隊が軍隊だと思っているようだね」と、質すような顔になった。
「違うのですか?」
「もちろんだ。日露戦争以降に、旧日本軍も含めて、日本には、軍隊などなかったのだ」
 山下は、子供に諭すような口ぶりになった。
「どういう事ですか?」
 山口は、突拍子もない山下の言葉に思わず尋ねた。
「自衛隊は、武器を持った官僚に過ぎない」
 山下は、断定的に答えた。
「武器を持った官僚…。ですか?」
「そうだ」
 山下は、そこまで言って山口の唖然とした顔を見ると、「勝手にやっても、結果がよければ良い。結果オーライだ。日本の満州事変だって、軍部が勝手にやったに過ぎない。責任も取らせずに、そのまま勝手にさせた。結果が満州国であり、その後アメリカなどの反発を食って太平洋戦争を始めた。
 それまでは、能力ではなく序列が優先された。太平洋戦争まで、まともな戦争はしていなかったのだからそうなったのかもしれない。それを、太平洋戦争に突入しても続けた。そんな軍隊は、勝てるはずがないではないか。今の官僚と同じではないか。違うかね?」と言って、山口を見た。
「はい」
 山口は、山下の真意を図りかねながらも同意するしかなかった。
「武器だって、新しくなる。古くなった武器は、廃棄処分になるが…。まあ、その先は君が勝手に解釈してもらって良い」
 山下は、満足そうに笑みを浮かべ眼を閉じることで話を終わりにした。

  老兵は死なず、消え去るのみ、か…。山下の脳裏には、マッカーサーの言葉が思い浮かんだ。私は、どのみちもう長くはない。後は、安心して後輩に譲るとしよう。これからは、自分の次の世代がこの国をまともな国に代えてくれるだろう。もしかすると、世界に通用する。いや、一歩進んだ国になる可能性をはらんでいる。総理の言葉を、額面通りに受け取って良いものだろうか? という不安も脳裏をよぎった。
 相手は、海千山千の政治家だ。単に総理に利用される危惧も捨てきれなかった。それでも、今回の事件で知り合った男たちの顔を思い浮かべて山下は、彼らに後事を託すことにした。
 必ず彼らが、日本を正しい方向に導いてくれることだろう。と、安心して深い眠りに落ちていった。
 山口は、山下の静かな寝息を聞きながら、廃棄しようとしていた自動小銃を、退官の記念に貰い受けたのかも知れないと漠然と考えた。そんなことが出来るのか? いや、山下の言った『武器を持った官僚』が正しいとしたら、あるいは…。と、思った。山下の人柄と立場、それにバレなければ何をしてもいいという官僚の方程式が絡み合ったのかもしれない。武器を渡しても、実弾がなければ問題ない。という考えがあったのかも知れない。
 山口は山下の寝顔を見ながら、山下が倒れてからのことをもう一度思い返してみた。それは、一国の出来事というよりも、茶番劇を通り越してコントに近かった。

  山下が倒れたことで、総理と防衛大臣は解放された。犯人グループも拘束され、官邸の中の群衆も外に出され事情聴取が始まった。驚いたことに、自動小銃や拳銃は本物だったが、銃弾は一発も入っていなかった。犯人たちを質した警察に犯人の一人が、「我々は、そんな危険なことはしない。何かあって、偶発的に引き金を引いた場合を考えてしたことだ」と、涼しい顔で答えたそうだ。後で聞いたことだが、そう言ったのは中村だった。やはり、最初から弾は存在しなかったのだろう。

  各府省に集められた官僚たちは、ほっと胸を撫で下ろしたことであろう。保守派と呼ばれる官僚たちは、総理たちが解放された報に接するとすぐに何もなかったかのように霞が関を後にした。犯人が逮捕されたからには、こんなつまらん試案を見たくもないと思ったことだろう。連休の残りをゆっくり過ごそうとした。改革派と呼ばれる官僚たちは、せっかくの機会を逃すのが堪らなかったのか、そのまま試案の作成を続けていた。 

 厄介だったのが、正面玄関前に集まった群衆の処遇だった。

 正面玄関の前で山下が倒れたことを知らない群集たちは、五階の総理や玄関でスピーカーを設置していることにもほとんど気がつかず、「俺たちを切り捨てるな!」「試案を受け入れろ!」などと口々に様々な不満を叫んでいた。
 明らかに統率がなく、テレビを見て急遽駆けつけてきたことは想像できた。テレビでベーシックインカムに触れたあとに、家を出た人達は、「ベーシックインカムを導入しろ!」と叫んでいたが、「ベーシックインカム」は、そのうち群衆の中でうねりのように広がっていった。
 数分経つと、群衆は口々に「ベーシックインカム!」と、叫んでいた。総理は、詰めかけた群衆のどれほどがベーシックインカムを理解しているかと思うと空恐ろしくなった。ベーシックインカムだけが一人歩きし始めていることに危機感を持ったが、それほど底辺の国民は自分が思っていた以上に生活が苦しいのだろう。と、納得するしかなかった。 

 テレビ中継は、続いていた。官邸前に詰め掛けている群衆には、ライトが当てられていた。不測の事態に備え官邸前には、多くの機動隊が配備されて二重三重に整列して群衆と対峙していた。騒ぎの収まった西門からも、手の空いた総理大臣官邸警備隊や機動隊が応援に駆けつけて正面玄関前は更に険悪な雰囲気を醸し出し始めた。

 篠崎洋一は、群衆を背にマイクを持って、「正面玄関前です。先ほどより西門の騒ぎが収まってから、正面玄関前に西門からの増援と思われる機動隊の姿が多くなり、群衆との睨み合いは続いており、一触即発の様相を呈してきました」と、言ってから、スタッフから手渡されたメモに目を落とすと、「只今。この混乱を回避するため、総理自ら説得にあたるとの情報が官邸から届きました」と、興奮気味で伝えた。他の各局も同じ内容で中継を行っていた。連休のさなかということもあり、テレビにかじりついている国民はまだ多数いた。

  総理は、あくまで官邸の外で群衆を説得しようとしたがSPに混乱は避けられなく不測の事態が起きる可能性があると説得された。止むなく、正面玄関が見渡せる官邸の五階から窓ごしに群衆の説得にあたることになった。三階が正面玄関の総理官邸の五階は、正面玄関から見ると三階に見える。
 三階にある正面玄関では、スタッフがスピーカーを設置していた。数分後、総理にマイクが渡された。総理は、何度か官邸に詰めかけたデモ隊を目の当たりにしていたが今回の群衆は動員されたのではなく様々な事情で自発的に来たことを改めて感じた。
 テレビで報道されてから数時間の間に、これだけの国民が大挙して押しかけた群衆を思うと解決するためには今が正念場だということを思い知らされた。

  総理は、いきなりマイクを口の前に持っていくと、「私は、内閣総理大臣―――」と大声を張り上げた。総理の説得は、唐突に始まった。正面玄関に詰めかけた群衆は、一瞬何事が起こったのか理解できず音がしたスピーカーに視線が集まり少し静かになった。それから群衆は、声の主を探し始めた。
 総理は、群衆が静かになったときを見計らって、「私は、五階にいます。皆さんの声は、私が確かに聴き届けました」とだけ言って、群衆の反応を確かめることにした。
 群衆は、総理の言葉で五階の総理に気がついて一斉に総理に視線を移した。総理は、群衆の目を見て自分のこれまで行なってきた施策の足らなかったことに初めて気付かされた気になった。そうだ、弱者に目を向けていなかった。いや、経済が活性化されれば…、景気が回復すれば、タイムラグはあるものの弱者にも波及するはずではなかったのか?
 彼ら弱者には、タイムラグの時間は残されていないのだろう。それに、弱者に景気回復の恩恵が来るとは限らない。たられば…。景気が回復したら、経済が活性化すれば、株価が上がれば、本当に弱者にも恩恵が回るのだろうか?
 株価が上がっても円安になっても恩恵を預かっているのはごく一部の人間だけではないか? 自分の政策が間違っていたのではない。と思いながらも、弱者に対して配慮が足らなかったことは真摯に受け止めるしかない。最初に目を向けるのは、時間が残されていない弱者ではなかったのか? そう思うと腹は決まった。

 群衆は、総理がひとりで立っていることに疑問を感じ始めていた。
「山下さんは!? 山下さんはどこだ!?」
 群衆の中の一人の言葉で群衆は、ざわめきだした。総理には聞こえなかったが、一階にいた側近から報告を受けた総理は、「山下さんは、倒れて救急車で病院に搬送されました。命には別状ありません」と、事実だけを群衆に向かって告げた。どう贔屓目に見ても、混乱は避けられない。それを分かっているが、今更嘘をつくわけにはいかない。
 総理が危惧したように、群衆は騒ぎ始めた。分厚いガラスを通して、群衆の声が聞こえてきた。迂闊だったか? いや、そうではない。最初に真実を告げることが、自分に課せられた課題のような気がした。騒ぎが少しおさまったところで、彼らに私の考えを伝えれば群衆も納得してくれるはずだと日本人の良識を信じることにした。
 群衆は、総理があれから一言も発しないことに少し不安を覚えだしたのか困惑した顔になり、騒ぎは徐々に収まり始めた。
 総理は、今だと思い群衆に対して、「山下さんたちは、事情聴取が終わり次第釈放、いや不問にすることにしましたので皆さんご安心ください」と言って一旦言葉を切ることにした。群衆がどんな反応をするのか確かめてから本格的な説得を始めることにした。
 群衆は、一瞬静まり返った。彼らも驚いたのであろう。いや、信じられないのだろう。いくら政府や政治家が無能で、山下の発言が正しいとしても罪は罪のはずだ。事情聴取だけで、不問に付すということがあるとは彼らも信用できないのであろう。
「私が言ったことは事実です。我々は、決してテロには屈しません。が、山下さんたちが行ったことは、テロではなく革命だと考えております」
 総理は、もう一度群衆の反応を見ることにした。群衆は思いもよらぬ言葉に騒然となった。
「あなた方は、革命軍と言ってよい。海外なら、自分たちだけではなく、国の未来を憂いて決起した革命軍になっていたかもしれません」
 総理は、多くの群衆を目の当たりにして自分がチャウシェスクやマルコスのような状況に立たされているような気になった。
 官邸に詰めかけた多くの群衆のほとんどは、恵まれていない国民であろう。今の日本の状況に不満なのだろう。それは、政治の限界を意味していた。ここで不用意な発言をすれば、本当に革命になりかねない空気が官邸に詰めかけた群衆から感じられた。
 総理は、ゆっくりと群衆を見回した。群衆は、総理の言葉に騒然としていた。

「私の政策は、今でも間違っていなかったと自負しております。しかし、一つだけ足らなかったものがあります。本来、真っ先に考えなければならないあなた方。一生懸命働いても報われていない、あなた方を後回しにしたことです。景気が回復すれば、株価が上がれば、結果タイムラグがあるとしても、時間がかかるとしても、中小の会社や非正規雇用の皆さんの生活も改善できると考えていました。
 山下さんたちとの会見で、私の間違いに気がつきました。恵まれている人は、後回しにしても良い。恵まれていないあなた達こそ、真っ先に救済が必要だと思い知らされました。私は、ある人物が書いた試案をそのまま参考にして対案を約束通り出すことを官僚に指示いたします」
 総理が次の言葉を発しようとした時、群衆から歓声が巻き起こった。群衆の中から総理の名前を呼ぶ声が聞こえ、それはうねりとなり官邸の群衆に波及していった。
 総理は、やりすぎたかな? と、一瞬考えたが、今まで恵まれず搾取され続け使い捨てにされてきた底辺の人たちの喜ぶ姿に感動すら感じた。
 これでいい。詳細な対案は、優秀な官僚に任せて結果の確認と将来の制度設計を考えるのが自分たち政治家のこれからの仕事になると腹をくくった。
 優秀な官僚とは、嫌味でも皮肉でもなかった。今までは、政治家が無知で覚悟がないから官僚に見放されていただけだ。政治家がちゃんと覚悟を示し方向を官僚に示せば、自ずと本当に国民・国家のための答えが出るに違いない。そう思うと、これから与党内や野党の批判など取るに足らない事柄に思えてきた。
 群衆の歓声は、徐々に収まっていった。最後に総理は、「後は、私に任せて解散してください。鉄道やバス各社に特別に要請しました。本日に限り鉄道及びバスは、終夜運転を行います。事故に気をつけて、帰ってください」と言ってから、詰め掛けた群衆に向かって深々と頭を下げた。 

「総理の発言は、前代未聞といっていいでしょう。個人的には支持したい気持ちですが、ベーシックインカムの内容もわからず、政府内で検討する時間もなかった模様ですので、先走った発言と受け止められ、政府与党での混乱が予想されます。
 それにそれに、ベーシックインカムを党規約に掲げている政党もありますがごく一部に限られ、これからの総理の出処進退がどうなるかこれからの永田町から目が離せません」
 篠崎洋一は、総理の説得を受けて締めくくった。
 官邸前からスタジオに画面は代わった。スタジオは、騒然としていた。全員が篠崎のように、困惑した顔だったが、「あなたがたの革命は、成功したようですね」と、宅間の発言でカメラは、野村を映し出した。宅間は、嫌味ではなくこれで新しい日本が誕生する夜明け前のような気になっていた。もうすぐ実際に夜は明ける。が、これから迎える夜明けは、日本にとっても新しい夜明けになる可能性がある。
 総理の覚悟如何にかかっているといっても過言ではない。総理の言葉を聞いていると、新しい夜明けは期待できると確信のようなものを覚えた。
 野村は、戸惑った顔になった。まさか? たった数時間で、こんな結末を迎えるとは…。願ったり叶ったりには違いないが、総理以外の政治家が黙っているとは考えられなかった。
 カメラは、続いてスタジオのコメンテーター席の前に立っているアナウンサー川辺修を映し出した。
「我々は、日本の新しい時代の幕開けを見たのかもしれません。結果はどうなるかまだわかりませんが、総理の言葉を聞いていると日本の新しい方向が示されたと言っていいでしょう。
 ベーシックインカムに関してはまだ議論を尽くさねばなりませんが、Aさんの試案を通して新しい日本の未来が開けるかもしれません。我々は、これからも報道を通して見守っていく所存でございます。今まで、長時間ご覧くださってありがとうございます。報道特別番組はこれで終了いたしますが、明日改めて今後の情勢をお伝えします。それでは、皆さんおやすみなさい」
 川辺は言い終わると、深々と頭を下げた。画面下には、報道特別番組とテロップが流れスタッフの名前が次々に流れていった。画面はスタジオ全体を映し出し、コメンテーターたち全員が頭を下げる映像を映し出した。その中にぎこちなく頭を下げる野村の姿もあった。長時間続いた特別番組は、やっとコマーシャルに切り替わった。 

「これで、あいつも終わりだな」
 テレビを見ていた有力議員の一人は、言ってからほくそ笑んだ。目の上のたんこぶがひとつ消えたことになる。官邸に詰めかけたひと握りの、それも票にならないような底辺の国民に媚を売ったとしか考えていない有力者は、総理が失脚したあとの総裁選で自分が選ばれることを確信した。が、それにしてもあの群集はなんだ? 自分たちの意思でやってきたように見えたが、どこかが動員したのに違いない。そう思い込むことで、自分の将来が開けたような気になった。
 有力議員の期待は、官邸に詰めかけた群集たちが総理の名前を連呼し始めると裏切られた。何だ? この熱気は!? 官邸に詰めかけた群衆が歓喜して、総理の名前を呼んでいる。今まで有力議員が見た、日本の有権者の姿とは掛け離れていた。この群衆を敵に回すとどうなるか一瞬考えた有力議員は、その時のことを考えて一転恐怖に駆られた。これで、下手に総理を追求することができなくなったと考えた有力議員は、総理のお手並みを拝見することに決めた。
 ベーシックインカムというスイスですらまだ導入できていない制度を、日本が導入するとなると問題山積だ。どのみち失敗するに違いない。なら、その時まで待ったほうが得策ではないかと考え直した。その時までは、従順な側近として振る舞えば次の総理はこの俺だ。と、思うと自然と顔がほころんだ。
 野党にしても、初めのうちは今までのドタバタ劇を一気に晴らすチャンスと捉えていた。ツッコミどころ満載の総理の行き過ぎた発言に、自分たちが政権を倒すきっかけにして次の選挙で躍進する気でいた。が、その考えも長続きはしなかった。
 有力議員と同じで、群衆が口々に総理の名前を叫びだしてから態度は一変した。どの野党も、ベーシックインカムを党の政策に掲げている政党までもが群衆の行動に目を見張った。
 これでは、我々の立場がなくなる! と、危機感を募らせた。下手に総理に対抗すると、次の選挙も勝てないというジレンマに陥っていった。

  閣僚たちは、案の定犯罪者の戯言に付き合う必要はないと総理の翻意を迫った。総理は、耳を貸さなかった。山口が聞いたように、「彼らは革命軍だ。革命軍と、これから休戦協定を結ぶ。休戦協定の内容は、革命軍の要求に応える内容になる」と言ってのけた。それを知った保守派の官僚たちは、慌てふためいたことだろう。だが、遅きに失した。もう彼らには時間が残されていなかったのだ。
 それだけではなかった。総理は、記者会見を行い最初に防衛大臣の更迭を行った。内閣の総辞職を発表し、新しい内閣を民意の総意が判明するまでの管理内閣と位置づけた。山下の要求した通り、国民投票で民意を問うと発表した。
 その時総理と同席していた防衛大臣は、呆気に取られたアホ面をテレビの画面に晒していた。
 本来なら総理の発言は、政府や与党で大きな問題になるはずであった。なんの相談もなく、勝手に犯罪者の言いなりになったのだから至極当然の帰結である。あくまでテロに屈した。自分の命押しさにテロリストに迎合した。という永田町の論理がまかり通るはずだった。
 しかし、そうはならなかった。官邸に詰めかけた多くの群集に、政府も与党も更に野党の議員までが浮き足立ったというのが実情だ。総理が、狂言という言葉を使う必要もなかった。
 次の選挙のことを考える与野党の議員たちには、無視できない数の群衆だったからだ。それも、どこかの政党や団体の動員でないことが余計に議員たちの心に重くのしかかってきた。ルーマニアのチャウセスク政権や、フィリピンのマルコス政権の崩壊時のような多くの群衆で埋め尽くされた総理官邸を認めないわけにはいかなかった。
 テレビ画面を通して呆然と見つめることしかできなかった議員たちは、国民の力を初めて思い知らされた格好になった。山下たちの立てこもりは、山口が言ったような革命の様相を呈してきた。
 山下が倒れなければ、本当の革命になったかも知れないという想いから総理の暴走とも言える言動を糾弾できる人間は皆無となった。

  堀は、もう一度試案を見て今までのいきさつを、いや、茶番劇を思い出していた。
 総理と防衛大臣が解放されたとの情報が入ってから、最初に現れたのは津本だった。彼は、「やっと終わったな。こんな茶番劇は、もうこりごりだ」とほっとした顔をしながら、「私は、帰る。君はどうする?」と、機嫌の良い声で尋ねた。
 津本は、私の困った顔を見に来たに違いない。と思いながらも、「せっかくの機会です。最後までやってみます」と、真剣な顔で津本を見返した。
「ご苦労なことだな。どうせ日の目を見ない対案など作って、どうする積もりだ?」
 津本は、呆れた顔をした。
「解りませんが、最後までやります」
「そうか。勝手にすればいい」
 津本は、堀のきっぱりとした態度に少したじろぎながらも、「大事な休みが、老いぼれのために台無しだ」と言ってから欠伸をするとそのまま帰って行った。
 そこまでならいつもと変わらない風景だったが、総理に報告が行くと状況は正反対になった。保守派を外して、改革派だけで対案をまとめるように指示が出た。津本の呆然とした顔が見えてくるようだった。
 他の府省も、同じようなやり取りが行われたことを堀は後で知った。改革派の官僚は、あまりにも革新的な試案に最初はたじろいだものの、自分たちの立場を度外視して試案をまとめることにした。初めて、自分たちに訪れたチャンスと捉えたからだ。どのみち保守派と呼ばれている官僚にしても、自分たちの保身のためだけにうわべだけは尻尾を振ってくるに違いないと思うと複雑な心境だった。
 堀は、対案から眼を離して部下を見回しながら、「やっと終わったな」と言った。国民の立場に立った、始めての対案といって良かった。国民の立場に立てば、今までの施策が愚かしいものに思えてならなかった。堀に、後悔はなかった。何故か、久しぶりにまともな仕事をしたと清々しい気持ちになった。自分たちの立場は、この対案で終わったと認めざるを得なかった。
「給料が下がりますね」
 部下の一人が、冗談半分で言った。それは、当たり前のことだった。
 世間では、派遣切りや期間工の首切りがまだ続いている。一時報道から消えただけで、依然として一部の会社では続いていた。消費税増税後の景気低迷でさらに加速するのではと危惧されていた。政治家や官僚は、世間がどれだけ大変になっても守られてきた。それを、一般の給与水準にするだけのことなのだ。給与の高い大企業でなく、全国民の平均水準とする。
「そうだな。しかし、官僚だって国民だ。真面目に働いた人間は、世間だって認めてくれるだろう」
 堀は、そう言って笑って、「首になるかもしれない。しかし、これでまともな仕事が出来るとは思わないか?」と、部下たちに笑顔を見せた。

 

12.9月22日01:40←前の章
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