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創作大賞2022応募作品 「立てこもり」12.9月22日01:40

12.9月22日01:40

 対策本部は、色めきだった。試案を書いた野村修一が、対策本部に現れたからだ。野村は、捜査一課の課長と一緒に交渉班室に入ってきた。野村は、課長を従えているようにも見えるように物おじせずに山口のところまで歩いてくると、「私が試案を書いた野村修一です」と、名前を名乗った。
 野村は、自分の置かれている立場をわきまえているのだろう。野村が警察に連絡した時課長は、「鴨がネギだけではなく、鍋をしょってのこのこやってくる」と言ってご機嫌になった。試案を作った人間の割り出しに手こずっていた対策本部に、試案を作った本人が名乗り出たのだ。
 課長は、主犯がもうこれで自分の主張はある程度受け入れられた。と思い、出頭する気になったと解釈した。山口には、この人物が主犯だとは思えなかった。きっかけはこの試案に違いないが、主犯はあくまで山下。野村は、山下の身を案じて一切をなげうって説得に赴いたに違いない。
 山口は立ち上がると、「私は、交渉班の山口正義です」と自己紹介してから、課長をチラッとみた。課長は、野村を鋭い眼で見ていた。恐らく、課長は野村が主犯だと見ているのだろう。
「隊長は、凄い人物ですね」
 山口は、率直な意見を挨拶がわりに言ってから、「あなたの試案を読ませていただきました。見方によれば、素晴らしい内容だとも思えますが…」と、お茶を濁して課長の反応を見た。
「君は、何を頓珍漢なことを言っているんだ? 時間がない。早速電話をかけてくれ。とんだ茶番劇かも知れないが…」
 課長は、山口を急かせた。山口は、『茶番劇』という言葉が引っかかった。やはり課長は、野村修一のことを疑っているのだ。野村が主犯で、隊長のため止むを得ず説得に来たと思わせるのが目的だと。とんだお笑いだと思った。
 山下は、いくら野村のためいや日本のために行動を起こしたとしても、そんな茶番に付き合うほど愚かな人間ではないはずだ。今までの山下とのやり取りが、山口の核心となっていた。山下が見込んだだけの人間だからこそ、犯罪を犯してまで野村の主張を世に出したかったのだろう。
 野村は、一瞬課長を睨み付けるような目をしたがすぐに山口に向かって、「課長さんの言うとおりです。総理もそうですが、隊長は高齢です。それに、特別な環境に置かれていることを考えると主義主張を振りかざすつもりはありません。一刻も早く収束させないと、取り返しのつかないことになりかねません」と言った。
 あえて茶番という言葉を聞き流したかのような発言だが、課長を睨み付けた野村には、課長の腹の中が読めているのだろう。何故この人物は、不遇なのだろうか? 初対面だが、そんな不遇を甘んじて受ける人物とは思えない。事前に判明した野村修一の略歴は、それを物語っていた。現在の職業は、アルバイト。時給九百円で一日七時間労働。週フルで働いても、残業がなければ年収は二百万以下だ。俗に言う低所得者になる。税金など引かれれば、悪くすれば生活保護以下の手取りしかない。そんな境遇だからベーシックインカムを考えたのか?
「何を考えている? 早く電話しないか!?」
 課長は、山口の想いなど知る由もなく一方的に命令した。階級は、同じ警視。先に警視になった課長は、軍隊で言うところの先任士官と同じ立場になる。それに、課長は捜査一課の課長。自分は、交渉班の班長。と言っても明確な部署ではなく、第一特殊犯捜査・管理官(警視)と同列ではあるが現在のところ間借りに近い。会社で言えば本社の営業部長と庶務課の課長補佐ほどの立場の開きがある。
「すいません。ちょっと驚いたものですから…」
 山口は、お茶を濁すと、「どうぞ隣の席にお座りください」と、野村に席を勧めてから自席に座った。
「はい」
 野村は、勧められた席に座った。
 課長は、『何を驚いたんだ!?』という言葉を出すことはしなかったが、憮然とした顔でこの男は何を考えているのだ? と、訝しがった。残念ながら、交渉という自分には出来ないことをやってのける山口に任せるしかないと複雑な気持ちになった。腹立たしいが、この分野ではこいつには勝てない。と、認めざるを得なかった。
 山口は、何に驚いたと課長が苛立たしげに尋ねなかったのにほっとした。尋ねられれば、彼は主犯だと到底思えません。と、言ってこの場を混乱させたかも知れない。課長は、最低の礼儀は弁えているようだと考えなおすことにした。
「野村さん。いいですか? 私が電話をかけて隊長に説明しますから、その後で電話を代わってください」
「はい」
 野村は、少し緊張したようだが同意した。
「それから、くれぐれも感情的にならないでください」
「はい」
 野村は、同意したが、「私の試案で、皆様にご迷惑をかけて申し訳ありません」と、素直に謝った。

  山下は、群衆が雪崩れ込んでから自分の責任が重くなったことを感じていた。警察に、踏み込まないように釘をさしていたことを群集たちには伝えた。このままうまく運んだとして、自分達は投降すれば終わりだが彼らはどうなるのだろうか?
 いくら正しいと思って実行したとしても、法律に反していることは認めねばならなかった。それに、予想もしない思わぬことが発生するものだとつくづく思った。彼らを助けることが出来なければ、何が国民のためだ。国家を語る資格がないではないか。
 その時電話が鳴った。山下は、電話に出ることにした。ゆっくりと電話の受話器を取って、「山下だ」と、言った。
(交渉班山口です)
 山口の冷静な声が聞こえてきた。
「今度は何の用だね? 何か問題でも起きたのか?」
(いえ。霞が関は、あなたのおかげで今日から徹夜です)
「そうだろうな。それでも、今からやれば十分間に合う」
(それだけですか?)
「君は、何が言いたい?」
(霞が関にも、改革派は存在します。まさか、あなたはそこまで考えて?)
「さあな。改革派がいたとしても、日本は何も変わっていない。違うかね? もしかしたらこの試案は、改革派の官僚にもハードルが高いかも知れないよ」
 山下は、この男はそんなことで電話をかけて来たのではないだろうと察しがついた。落語で言えばまくら、手紙なら拝啓、季節の挨拶と言ったところだろうか…。と考えて思わず笑ってしまった。
(何が、おかしいのですか?)
「いや、君ほどの男が、そんなことを伝えるためにわざわざ忙しいのに電話をよこすとは思えなかったからだ。まるで落語のまくらのようだ。で、本題はなんだね?」
(さすが、お察しが早い。しかし、忙しくはありません。対策本部に拘束はされていますが、あなたのおかげで暇です。もう手の打ちようがない)
 山口は、山下を焦らすような言い方をしてから咳払いをして、(では、本題に入ります。野村修一さんの声がテレビ放映されてから、一時間ほど経っています。もうお分かりですね)と言って沈黙した。
「修一君が、君のそばにいるのだね」
 山下は、山口の言葉ですべてを察した。テレビではAさんと、名前を伏せて放送していた。テレビ局や警察に行った部下たちが口を割ったとは思えない。テレビで彼の存在が分かるまで警察は、自分が作ったと思っていたのだろう。そうなると、本人が名乗り出たに違いない。
(はい。おかげさまで、あなたの言うところの税金の無駄遣いをして、地元の警察署からこのビルまでヘリコプターを使いました)
「それは、嫌味か?」
(いいえ。ほんの私からのお返しです)
「君は、よくそんな事がいえるな。言っておくが、彼は、修一君は、今回の事件とは無関係だ。私が勝手にやったことだ。そこを分かって丁寧に扱ってくれないか」
(もちろんです。私は、そんなことは思っていません)
 山口はそう答えたが、野村を疑っている課長に聞かせるためでもあった。(今から、野村さんに電話を代わります)

 野村は、受話器を山口から受け取った。受話器がなくても会話ができる環境ではある。素人の野村が返って緊張するのではないかという考えから、そのまま受話器を野村に渡した。会話の内容はすべて録音され、この部屋にいる全員が会話の内容を知ることができる。
「修一です」
(おお。修一君か、今回のことはすまないと思っている。が、老いぼれの、わがままだと思って諦めてくれ。しかし、君が疑われては…)
 山下は、少し動揺しているようだ。今までとは声の調子が違っていた。
「私のことは心配しないでください。」
 野村は言ってから、少し逡巡して、「もう十分です。もう、隊長にこれ以上迷惑をかけたくないんです」と、付け加えた。
(迷惑だなんて、とんでもない。我々は、君だけのために事を起こしたのではない。私は、もう先がない。日本の将来を、考えただけだ。今一番まともな考えをしているのが、君だと思った。そう思ったからに他ならない)
「ありがとうございます。しかし、こんな形になろうとは予測していませんでした」
 野村は、言ってから肩を落とした。
(君の気持ちは、良く分かっているつもりだ。しかし、あと二日…。あと二日で、対案が出る。それを見届ければ投降する)
「そんな…。私は、隊長のお体が心配なのです。これだけ、社会に反響があったんです。もうで十分です。後は、本当にこの国を破綻から救えるかどうか国民が考える番です」
 野村は、少し興奮してきた。山口は、まずいなと思ったがそのまま会話を続けさせることにした。
(君は、まだ青いな)
 山下は、言ってから少し間をおいて、(この国の魑魅魍魎の官僚たちが、うやむやにするのは目に見えている。犯罪者の戯言で、そんな制度を作れるわけはない。と、言うに決まっている。マスコミも、そのうち他の事件や話題が起きたらこんなちっぽけな事件のことは忘れ去る。国民も同じだ。せめて対案がでるまで、このまま総理には付き合ってもらうしかない)
「それぐらい、分かっているつもりです。そんな官僚や国民のために、あなたの命を粗末にはできません。なら、いっそのことこのまま日本は破たんすればいい。自業自得です」
 山口は、二人の会話を聞いていてそこまで言うかと思った。が、日本の借金は増える一方。○○ミクスが思うような成果を上げていない以上、二人の会話のようにそう遠くない日に日本は破たんするかもしれない。と、考えを新たにした。
 後ろでじっと事の成り行きを見守るようにしている課長は、場違いな二人の会話を呆気にとられて聞いていた。これは、犯人を説得している言葉ではない。まるで、官僚組織が悪いように聞こえるではないか。破たんだと?
 そんな事があってたまるかと思えたが、必要なところにお金がいきわたらない現実も思い知らされた。東関東大震災の復興予算が、関係ないところに使われている。制度を利用しようとする被災者には、杓子定規で制度の趣旨と少しでも違えば制度を利用させないくせに、自分たちが使う時には、拡大解釈をして簡単に税金を使う。
 それだけではない。日本では、ありえないと思える餓死者がでる。そのたびごとに一応現場に出向くが、その悲惨な有様は何も助けがないあげくの死だ。国がもう少し弱者に重きを置いていれば、こんなことはなくなるのではないか。国に殺されたと思えてくるから、二人の会話は他人事ではないような気になる。
 二人には、これはあくまで犯罪だということを理解してもらわないと自分の立場がないじゃないか。と、複雑な顔になった。そこまで考えての行動なのか? 山下の行動に、舌を巻いている自分に驚かされた。
(おいおい。そんな無茶なことを言うものではない。日本が破たんすれば、どうなるか分かるだろう。私は、子どもの頃経験した。もう七十年ほど前になるがね)
 山下は、子供に諭すような言い方をした。
「はい。その当時より酷くなるかも知れません。多くの官僚は有無を言わさずリストラされます。消費税は、二十パーセント以上になるかも知れません。インフレが起き、景気も今以上に悪くなり会社の倒産やリストラが増加するでしょう。路頭に迷う人間が増え、日本は二流国に落ちることでしょう。いや、もっと悪いことになるかも知れません」
 野村は、最悪のことを考えてぞっとした。
 山口は、野村が平然と言ってのけた言葉を聞いて少し考えてみた。日本もギリシャのようになる? いや、まだ国債を買っているのがほとんど日本人や銀行であることを考えると、円が暴落することは考えにくい。が、銀行が破たんしたら? と、考えると空恐ろしい気がした。山下という男は、そのどん底の日本を経験したに違いない。その当時は子供であったかもしれないが、子供であったからこそ肌で感じたのではないか?
(日本の破たんを少しでも食い止めることができるなら、私の存在価値があるというものだ。今なら間に合うと思わないかね)
 山下は、そこであることに気が付き、(おっと、これは、君の持論だったね)と、野村の持論を、受け売りで当の本人に言った自分がおかしかった。

 総理は、山下の話の内容から野村修一が山本を説得していることを知った。が、どういう説得なんだ? これでじゃ、犯罪者を説得しているというより政策を議論しているとしか思えないじゃないか。と、考えて、野村修一と直接話してみたくなった。山下の体のことを考えているようだが、どんな人物なのだろうか? 
「隊長。話し中悪いが、少し私に代わってもらえないだろうか」
 総理は、会話が途切れた時を見計らって山下に声をかけた。
「修一君。ちょっと待ってくれないか」
 山下は、野村に言ってから、総理の方を向いて受話器を手で抑えて、「どういうことです?」と、怪訝な顔になった。
「いや、ちょっと野村修一という人物に、興味を持っただけだ」
 総理は、照れくさそうな顔になったが、「彼は、君を説得しにやって来たようだが、君も知らないうちに政策談義になったようだ。私は、直接彼と話がしたくなった」と本音を付け加えた。
「いいでしょう。一応確認しますから、少し待ってください」
 山下は、言ってからすぐに、「修一君。総理が、直接話したいそうだ。どうする?」と、野村に尋ねた。

 対策本部では、どよめきが起きた。総理が、直接話したいということに驚いたのだ。いったいどういうことだ? と、山口以外の者たちは、理解に苦しんだ。山口は、これが単なる犯罪やテロ・クーデターではないと改めて悟った。
 普通の犯罪なら、金を要求するだろう。テロなら、有無を言わさず総理と防衛大臣は死んでいるだろう。いや、まず防衛大臣を見せしめで殺してから、総理の命と引き換えに政府を脅すだろう。
 クーデターなら、総理が殺されても文句は言えない。クーデターとは、そもそも政府側の一部が起こすものである。現役の自衛隊員でない以上、クーデターも当てはまらない。どれにも該当しないなら、いったいどう解釈すればいいのか?
 山下の最初の要求の時に感じた、革命という言葉が蘇ってきた。革命…? それも、血を流さない無血革命だというのか!? 官邸前に詰めかけた多くの群衆が、それを暗示しているような気がした。と、突拍子もないことを思い浮かべた山口は、自分の考えを肯定するしかないと考えるに至った。もし革命だとすると、前代未聞の革命に我々は立ち合うことになる。この革命は、独りよがりを廃する為に国民投票という形で国民を巻き込んだ革命になるのだろうか?
 野村修一は、困惑した顔を山口に向けてきた。
「あなたの判断に、任せます」
 山口は、野村のために言った。彼にとっていいチャンスになるかも知れない。
「隊長。いいでしょう。直接話します」
 野村の答えに山下は、(分かった。しかし、くれぐれも礼を欠かないように。いいね)と、くぎを刺した。
「分かりました。隊長の言うとおりにしましょう」
 野村は、同意した。
 山口は、礼を欠かないようにとはどういうことだ? と不思議な気がした。野村は、相手によってへりくだったりしない男なのだろうか。野村を見てから、自分の考えが間違っていないことを確信した。いくら電話だと言っても、一国の総理と会話する緊張は微塵もないように見られた。
(私が、隊長に無理やりつき合わされている総理です)
 総理の声が聞こえた。その声は、先ほどと変わりがなかった。丁重に扱われている証拠だろうと、山口は改めて考えた。それに人質の身でありながら、野村修一と話がしたくなるとはどう理解すればいいのか? と、困惑した。
「野村修一です」
 野村は、名前を名乗った。
(どうして危険を冒してまで、隊長を説得しに来たのかね? 君なら、主犯だと疑われることは分かっていたと思うが…)
「あなたにはお気の毒だとは思いますが、隊長ならあなたに危害を加えないことは分かっていましたから心配はしていません。ここに来たのは、隊長の体が心配だからです。私の書いたもので、隊長に犯罪を犯させるきっかけを作ってしまったのは後悔しています。が、私の試案は、その辺の政治家の公約よりはまともだと確信しています」
(そうだね)
 総理は、反論はしなかった。それは額面道理に受け取ることもできたし、人質になっているから反論ができなかったとも受け取られた。山口は、前者で額面道理受け止めていいだろうと考えた。総理は、拉致されて隊長と呼ばれている山下と接している間に、何かを感じたのだろう。(君は、どうしてベーシックインカムを思いついたんだね。スイスで国民投票が取り沙汰されているがまだ実施には程遠い。それに、君が試案を書いたのは一年前だという。それが知りたい)と、総理は、率直に自分の疑問を投げかけた。
「以前ある政治家が、ベーシックインカムに言及して国民一人当たり月額7万円を支給すると言ったことがきっかけです。私なりに調べて考え、この試案に纏めました。その政治家は、以降言及していないようです。
 あなたには分からないでしょうが、私のように底辺で生きる人間には分かるのです。時給900円がどういうものか。最低賃金より高い金額ですが、それでも残業がなければ就業時間が少なければ、生活保護以下の収入に甘んじるしかないのです。そんな理不尽なことがあっていいでしょうか? 私よりもっと不遇な人が、日本に存在することも事実です。ちゃんとまともに働いても、生活保護以下の収入しかない人が存在するのです。まず先に、弱者を救済するのが政治家の基本姿勢だと考えています。そのような底辺の人には、ベーシックインカムが必要になってきます」
 野村は、自分の境遇を嘆いているのではなく、現実を知ってもらいたいという想いからの発言であった。
(そうだね。理不尽だね)
 総理は、同意した。不思議と、生活保護を受けろとは言わなかった。
「能力がない。と、思われますか? 能力があっても仕事がなければ、低賃金の仕事に甘んじるしかないのも事実です。
 会社の責任とも言い切れません。なぜなら、儲けの少ない会社でも、仕事をしなければ潰れてしまいます。賃金を上げても同じです。そうなると少ない人員で会社を運営しようとするでしょう。それも不可能です。結果立場の弱い人間に、負担がかかるからです。
 その会社は、社会にとって必要ないかと言えばそうとも言い切れない。つまり、構造的に低賃金で非正規雇用者を雇用しなければ、成り立たない会社も存在するのです。何チャラミクスと言っても、賃金を上げることもできない会社もあるのが現実です。政府が賃金を上げてくれと会社に頼っているようでは、収入格差が今以上に開くことになります」
 野村は、そこで言葉を切った。
(だから、ベーシックインカムかね)
「はい。本来なら低賃金で低時間労働者は、生活保護を受けるべきなのでしょうが、生活保護を受けてしまえば働けば働くほど支給額が減ります。
 生活保護の支給額が上限になるからです。それだけではありません。制約があります。資産がないこと、毎月の収入を申告すること。新しい就職先が決まれば、生活保護費が再計算され返還を求められることもあります。なら、生活保護を受けるより、多少収入が少なくても自由に生活する方を取るでしょう。
 政府の人たちは、それを受けて生活保護の方が恵まれているから生活保護支給額を減額すると言います。現に、多少減額されています。おかしくないですか? 生活保護のレベルが高いのではなく、生活保護以下の収入しか得ていない人の方がおかしいのです。
 私は、そんな政府の政治家や高級官僚にそこまで言うなら生活保護の金額だけで一年間でも生活しろ! と言いたいぐらいです」
(面白い提案だね。面白いことになるだろう)
 総理は、言ってから少し間を置いて、(もし、政治家や高級官僚が生活保護費だけで生活できなければ、生活保護自体が意味のないものになる)と言って、笑った。
 野村は、総理の言葉に驚いた。が、なぜそんなことに気がつかないのだろうか? と、不思議に思った。
「あまり意味はありませんが…」
(何故かね?)
「一年経てば、元に戻るのですから。一年ぐらい我慢できるでしょう。それに、どこかでこっそりと補填することでしょう。そうなれば、意味がなくなるのです。それより、生活保護受給者が生活できているか、生活実態を調査して生活保護費用が妥当かどうか見極める方が現実的ではないでしょうか」
(君は、そんなに政治家や官僚を信用していないのかね)
「はい」
 野村は、即答した。
(そうだね。君たちからみればそう見えるだろうし、現実に世間を知らない政治家や官僚がいることも認める。私がここから解放されたら、早速調査するように指示しよう)
 総理は、言った。が、どこまで本気なのかは定かではない。
「ベーシックインカムは、生活保護とは違って資産の制約もなく国民と日本に合法的に滞在する外国人が対象になります」
(税金は高くなるが、家族構成によって負担が返って少なくなると隊長も言っていたがその通りかも知れない)
 総理は、そこで少し沈黙した。野村は、総理の予測できない言葉に戸惑って何も言えなかった。(で、ベーシックインカムを導入したとしよう。日本はどうなると考えているのかね?)と、野村は総理の容赦ない質問を浴びせかけられた。
 野村は、どう答えていいものか一瞬ためらった。が、ここで総理の問いに答えられなければ、今までの苦労は水泡に帰してしまう。「国民所得が250兆円と考えました。インターネットの受け売りですが、ほぼ間違いはないと思います」
(そうだね)
 総理は、同意した。
「そのうちの125兆円が、ベーシックインカムに充てられます」
 野村は、自分の目の前に総理がいるつもりで話すことにした。「簡単に言えば、125兆円は消費されるということです」
(君は、何が言いたいのかね?)
「百兆円分の消費は、食費や生活に必要なものに使われます」
(そうなるね。毎月ベーシックインカムは、支給されるわけだから)
「今、月2~3万円で生活している人も、最低10万円は使えることになるのです。今まで我慢していた服や、ぼろぼろになった下着も買うことができます。結論を言いますと、景気の底上げができると思っております。黙っていても、125兆円の需要が保障されているのですから。当然、余裕のある家庭はその他の消費をすることが可能となります。
 政府が保証してくれるとなると、今まで躊躇していたほしいものを買うようになります。最低の生活は保障されているのですから。そうなれば、景気は自ずと上向きになることでしょう。ベーシックインカムに、消費税分を加味するということがミソです。消費税分を加味すれば、軽減税率もいらなくなります」
 野村は、難しい言葉を避けなるべく平易な言葉を使うよう心掛けた。というより、自分がインターネットや本で得た知識が身についているかどうか心細かったからだ。生兵法は怪我の元である。「私は、大学を出たわけではありませんし難しい言葉を知ってはいますが、詳しく尋ねられると返って返答ができません。それは認めます。それに稚拙な内容があることも認めます。それでも、考え方は間違っていないと自負しております」と、付け加えて自分はこの期に及んで何を言っているのかと少し後悔した。が、難しい経済用語で尋ねられても答える術を持ち合わせていないことも現実だ。この先、何を質問されるか分からない。そうなれば、自分の限界を先に示しておいた方がいいかもしれないと思い直した。

 山口は、思いもかけない展開に驚いていた。試案を一通り読んではいたが、書いた本人と総理の議論を聞くことになるとは思いもよらなかった。総理は、犯人に感化されたのかベーシックインカムに前向きな様に見えた。スイスで、ベーシックインカム導入の国民投票が取り沙汰されているという事実も総理に影響を与えているのだろう。が、この事件が落着した後に、総理はどう対応するのか? 見ものである。いや、総理の対応如何によっては、日本の未来が左右されるかも知れない。
 対策本部にいる他の人間も、思いがけない展開に驚いていた。
 野村と交渉班室に入ってきた課長も、一国の総理が無名の一市民と対話していることに驚いていた。いや、議論と言っていい。犯人を欺くために? そうではないだろう。事件を解決するためには、何も口を挟まないのが得策だと感じていた。が、何か普通の事件とは違う展開と、人質となっているはずの総理の生き生きとした話し方に違和感を覚えていた。
(正直でよろしい。私も、経済には疎い方だ。だが、君の話は一理あると思う。毎年125兆円の消費は、保証されたも同然だ。なにせ、収入を全部使っても、次の月には最低のお金は入ってくるのだからね。国民の財布のひもは、今よりゆるむだろう)
「ありがとうございます。それだけではなく、国民が冒険できるとは思いませんか?」
(冒険? どういう意味だね?)
「社会に出てから、今の会社に不満で新しい仕事を探そうにも時間がない。私事で恐縮ですが、転職を考えております」
(ほう。で、どうなのかね?)
 総理は、興味を持ったようだ。
「仕事をしながらの転職は、厳しいと言わざるを得ません。今より条件のいい仕事はあるにしても、派遣だったりすぐ転職できなければ採用されない場合があります。社会通念では、最低でも二週間前に辞表を提出しなければいけませんが、募集しているところは明日にでも人材がほしい。そうなると、今職に就いていない方が有利となります。
 私のように四十を過ぎた人間に、会社を辞めてから新しい職を見つけることは困難だと考えます。ベーシックインカムがあれば、会社を辞めても新しい会社が見つかるまで最低の生活はできるはずです。
 それだけではありません。芸術家や技術者・研究者などは、食べることを考えれば冒険することを躊躇することでしょう。ベーシックインカムがあれば、冒険ができると思いませんか?
 日本だけではなく世界に通用する人材を輩出できると考えます。再度教育を受けなおす機会も、できるでしょう。ベーシックインカムなら、それが可能です。
 私の考えるベーシックインカムは、家族が単位です。単身者より家族を持っている方が有利になることも事実です。今までのように独身貴族ではなく、独身地獄になります。そうなると結婚した方が暮らしが楽になるし、子供ができればもっと楽になる。少子高齢化に、少しでも歯止めがかけられる可能性が高くなります」
 野村は、そこまで言い切って言いすぎたことに気が付いた。「言い過ぎたことは謝ります。今まで述べたことは、総理にとっては机上の空論と受け取られたかもしれませんね」と、弱気になった。総理と議論するため、ここに来たのではない。千歳一隅でもう二度とこんな機会が訪れるとことはないだろうが、今の野村にとっては山下の体が気になった。俺は、今まで総理と何を話していたんだろう。
(今までの威勢は、どうした? 机上の空論でも構わん。最後まで言ってくれないか? もっと荒唐無稽な机上の空論を、毎日聞かされている身には君の机上の空論はかえって新鮮に感じる。自分のことを言っているようにも聞こえるが、違うだろう? 君は、もっと底辺の人のことを考えて言っているのだろう)
「恐れ入ります。ベーシックインカムが導入されれば、餓死者やホームレスなどほとんどなくなると考えます」
(ほとんどとは? どういう意味だね。無条件に全国民が対象なのだろう。それに、外国人も対象とする。これは、スイスでも考えられていないことだ。なのに、なぜ全員ではないんだ?)
「ホームレスの一部は、自由気ままな暮らし向きを続けたいと思っているかも知れません。未だにお上に施されるのが嫌だという人もいます。私は、その人たちのことを言っているのです。
 いくら制度を整備しても、絶対ということはあり得ません。対象者全員が、ベーシックインカムを受け入れるとは限らないと思っているからです。それに、ベーシックインカムを導入した後に、思いもよらない矛盾が出てくる可能性もあります」
(君は、そこまで考えていたのかね?)
「はい」
 野村は、答えてから、「申し訳ありませんが、そろそろ隊長に代わってもらえませんでしょうか?」
 総理は、一瞬呆気にとられた。野村が唐突に言った言葉が理解できなかった。時間はある。せっかく話が核心に迫ったところなのに…。これ以上話すと、ボロが出ると思ったのだろうか? 総理はそこまで考えて、違うことに気がついた。(そうだったね。君は、私と話すために来たのではなかった。悪かった。今隊長に代わる。今度時間を作ってくれないか? 直接会って、じっくりと話がしたくなった)と、野村の想いを知った総理は言った。
「はい。いつでも時間を空けます」
 野村は、快諾したもののその時が訪れるとは考えなかった。二人の会話は、対策本部だけにしか知られていない。総理の一時の考えは、総理が本気であっても周りが許さないであろう。
 自分が犯罪者ではないとしても、犯罪の被害に遭って異常な状況下での一時的な感情は日本の未来に悪い影響を与える。と、他の政治家は翻意を促すだろう。
 総理が約束したと言っても、対策本部の人間たちに箝口令を敷けば国民に知られることはない。と、説得されるのが落ちだろう。
 しかし、野村に後悔はなかった。それより山下を、こんなことで失うことが辛かったのだ。少しでも長生きしてほしかった。 

 総理から電話の受話器を受け取った山下は、「私のために、総理との貴重な時間を中断させてすまないね」と、野村に詫びた。山下の部下たちは、昔のように腕を後ろに組み足を少し広げて立っていた。自動小銃を持っている二人は、小銃を構えてはいなかったがすぐに構えられるように隙がない体制を整えていた。その姿は、年齢を感じさせないほどだ。古賀は、腕組みをしたまま目を瞑っていた。が、時折いびきが聞こえた。先ほどから静かだと思ったのは、彼が寝ていたからだ。
(いえ。あなたの命と、ベーシックインカムを秤にかけることはできません)
「私は、君の言うほど立派な人間ではない。私の命を掛けての、最後のご奉公だ。いや、日本の未来のためになると考えたからこんな無謀なことを考えた。私のことはもういい。君には、いや、君たち我々の次の世代の人間には、本当に日本の未来を考えてもらいたい。と、思っただけだ。
 この下で立てこもりを始めた人たちも、様々な事情があるだろうがそれだけで立てこもりを始めたわけではないだろう。自分の境遇を通して、日本の未来を憂いているのだよ。
 自分たちの行動が、日本を左右するかもしれないと肌で感じたのだろう。せっかくのチャンスだったんだ。こんな老いぼれの体を気遣いせず、最後まで議論を戦わせるべきだった」
 山下は、先ほど総理が言った、『今度時間を作ってくれないか? 直接会って、じっくりと話がしたくなった』という言葉を、野村と同じように額面通りには受け取っていなかった。
 山下は、野村の危惧したように少し無理をしたかなと後悔し始めた。自分はただ車椅子に座っているだけで、何もしていなかったはずなのに何故か疲労を感じた。もう少し、体力があったはずではなかったのか? 今が自分だけではなく、日本という国に大事な時だというのに…。と思った途端に胸が苦しくなり、自分の意思とは関係なく車椅子に前のめりに倒れた。電話の受話器はゆっくりと山下の手から離れ、床の絨毯に落ちた。
(隊長? 山下さん、どうしました?)
 野村の問いかけに山下は、答えることができなかった。
「隊長!」
 中村は、咄嗟に山下の傍らに駆け寄った。
 総理は、思わず立ち上がり「救急車だ!」と、叫んだ。が、自分のおかれている立場を思い出したように席に力なく座った。
 中村は、総理を振り返り異様な顔で総理を睨みつけた。おまえは、自分の立場を考えろとでも言いたげな顔だったが山下が倒れたことで困惑している。いや、助けてくれと懇願しているようにも受け取られる顔になった。
 他の部下たちは、うろたえながら山下の周りに来ると、「隊長」と、声を掛けた。
「私は、…大丈夫だ」
 山下は、苦しそうな声で答えた。が、気を失ったのかそれっきり動かなくなった。
 中村は、山下の首に手を置きながら、「まだ息はある」と他の部下たちに言った。安堵の溜息が全員の口からもれた。
 総理は、思い切って床に落ちていた受話器意を拾って、「隊長が倒れた! 救急車を頼む!」と、叫んだ。

  対策本部は、騒然とした。本来なら救急車に紛れて、特殊部隊隊員を突入させるいい口実になるはずだった。が、先ほどから事件の推移を見守っていた対策本部は、新たな展開に行動がついていけなかった。 

「隊長…」
 中村の声がして、自分がいつの間にか眠っていたことに気がついた山下は、眼を開けて声がした方を見た。
「大変です」
 中村は、複雑な顔で山下を見て、「市ヶ谷が動きました」と報告した。
「どういうことだ?」
「現在、国会議事堂に戦車が数両向かっております」
 中村は、テレビ画面に山下の車椅子を向けた。
 画面には、国会議事堂の前に二両の戦車が停まって国会議事堂に向けて砲塔を回転させているところが映し出されていた。
 山下は、テレビ画面が明るくなっていることで初めて夜が明けたことを知った。時計を見ると、9時を過ぎていた。
 山下は、画面に食い入るように見入ると、「何をするつもりだ?」と、困惑した顔を中村に向けた。その時、ドンと戦車が発砲した。
「空砲のようです」
「クーデターになってしまった」
 山下は、肩を落とした。
「隊長…」
 中村たちは、山下を気遣うように声を掛けた。それから、あっという間だった。国会議事堂や霞が関、日本銀行それに放送局や新聞社は自衛隊に占拠された。総理官邸にも、完全武装の自衛隊員たちがやってきた。山下たちは丁重に扱われ、事件以来思わぬ形で官邸を出る形になった。
 官邸を出ると、多くの群衆が詰め掛けていた。特に老人の姿が目立つように感じられた。群衆は、山下が現れると歓声を上げた。
 これが日本の姿か…。山下は、自分がした事が真に国民のためになった事に喜びを感じた。が、クーデターにまで発展したことが堪らなかった。政府や官僚が酷いといっても、クーデターが許される訳はない。
「お言葉を、どうぞ」
 自衛隊の一等陸佐が、山下の口元にマイクを差し出した。山下は、現実を受け入れるしかなくなった。
「私が、主犯の山下です」
 山下が一言言うと、静まりだした群衆がまた歓声を上げた。
「私は、クーデターを画策した訳でもなく自分が首相になろうとした訳でもありません」
 山下は、そう言うと一佐に嫌味な顔を向けた。
 一佐は、悪びれもせず、「自分は、正しいことをしたまでの事です」と、山下を正視したまま答えた。
「私は、犯行声明の通り試案と官僚の作成した対案を民意に問います。そこで、新たに、総選挙を行ないます。それまでは、暫定政権として…」

 その時山下は、どこからともなく中村が自分を呼ぶ声を聞いた。


10.9月22日00:20
11.9月21日00:25

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