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降り止まぬ雨音を聴く

ソウルはまだ雨が続いている。今年の梅雨はついに観測史上初めて50日を超え、過去最長記録を塗り替えてしまった。降り止まない雨といえば、ずっと耳から離れない歌がある。

彼女が世に出たのはまだ十代半ばの少女時代。「な、なかいめのべ、るでじゅわきをとったきみ(中略)く、ちびるからし、ぜんとこぼれおちるメロディー」という、彼女の世界観から生み出された斬新な音節を持つその歌は、日本中が歓喜をもって受け入れた。ただ、史上空前の大ヒットは副作用も生む。そこまで売れてしまうと、どこへ行っても誰に会っても特別扱いになってしまう。その環境を良しとしなかった彼女は、いったん音楽活動を休止し、彼女自身が言う「人間活動」に専念した。

復帰後のアルバムに収録されたその歌には、人間活動の間に起こった耐えがたいつらさや悲しみ、世代を超えた彼女の想い、それ以外のうっかりするとこぼれ落ちてしまいそうなせつない感情が詰まっている。それらを全て言語化し、それをさらにメロディーに乗せて一曲の歌に昇華させてしまう力が彼女にはある。この曲を聞くたび、表現することは救われることでもあると改めて実感する。

空白期間で研ぎ澄まされたのは表現力だけではない。復帰後のアルバムの曲からはそれまでの英語の歌詞が消え、徹頭徹尾、日本語を貫いている。その言葉選びの卓越さ、その一言一言はまるで絹糸のように繊細で美しい。五十がらみの男の気持ちまで揺り動かしてしまうほどに。「琴線に触れる」という言葉は、こういう時に使うのだろう。

だが、「通り雨」と言っているのに止まないのはなぜか。思いを馳せる人がもういないからか。それとも、雨自体が亡き人なのか。この歌が耳から離れなくなったのは、聴きながらこう思ったからだ。

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ああ、彼女もあの夢を見たんだな、と。

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私の両親は、私がまだ小学校の低学年の頃に離婚した。甘えたい盛りにこの世で最も大切な存在を失った。その悲しみは耐えがたく、底がなかった。

母がいなくなってから、よく同じ夢を見た。夢の中では母がそばにいる。楽しそうに話している。ああ、よかった。母が家を出て行くなんていうことがあるはずないではないか。よかった、本当によかったと安心したところで、いつも目が覚める。そして現実に引き戻される。母はどこにもいないという現実を思い知らされる。

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夢の途中で目を覚まし
瞼閉じても戻れない
さっきまで鮮明だった世界 もう幻

その絶望感。地獄の季節。そんな朝は、現実に耐えられずにまた目を瞑る。ずっと眠っていたいと思う。眠れば、また会えるのではないかと。でもそう強く望めば望むほど、続きは見られない。ただただ、惰眠を貪るばかり。

我が家は寿司屋を営んでいた。父型の祖父母、両親と弟の6人家族。ただ後から知ったことだが、祖父も父も経営には暗く、家計は厳しかったようだ。夜は宴会祖父が初代で、父が二代目。そのままいけば、私が三代目。だが、そうはならなかった。

祖父が他界して、次に両親が離婚し、母は家を出た。弟はしばらく母とともに暮らしたが、しばらくして帰ってきた。その時の喜びは今でも覚えている。が、しばらくして父も家を離れ、戻ってくるまで祖母と私と弟との慎ましやかな三人暮らしが何年も続いた。

なぜ自分はこんな不幸なのかといつも思っていた。たまに会う親戚からよく言われた「親に捨てられてかわいそうに……」という言葉は慰めにも何もならない。だからいまだに「かわいそう」という言葉を使うのをためらう。

子どもの頃は泣いた記憶がない。悲しいこともあったはずだ。嬉しいこともあった。でも「泣く」という行為にはつながらない。世の中にいくらつらいことがあっても、悲しいことがあっても、母と会えないつらさに比べれば何てことはない。嬉しいこともしかり。誰よりも母に見ていてほしかった。

だから渇いていた。少し成長すると、周りからは「しっかりしている」と言われることもあったが、それはいびつな成長だった。心の中にはぽっかり穴が空き、ずっと雨が降っていた。いつ止むともしれない長い雨の時代を過ごした。子どもは親に甘えなければならないと思う。愛情を受けることで、今度は誰かにも受けた愛情を注げるようになる。

ずっと止まない止まない雨に 
ずっと癒えない癒えない渇き

私にとって母は、憎んでも憎みきれないろくでなし。

「断腸の思い」という言葉がある。中国の晋の武将・桓温が蜀の国へ行くため船で川を渡っている際、家来が一匹の小猿を捕まえて船に乗せた。悲しんだ母猿はずっと船を追いかけ、やっとの事で飛び乗ることができたのだが、船の上で息絶えてしまった。その腹を割いてみると、腸がずたずたに断ち切られていたという逸話が語源だ。母と子とはそういうものではないか――。

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まだ娘が小さかった頃。妻が海外出張で数日間家を留守にすることがあった。昼はパパでもいいのだが、夜になると母がいない寂しさに耐えられなくなる。「ママいつ帰ってくる? ママがいい。ママがいいの」と私の膝の上で号泣する。泣き止むまで、娘を抱きしめてやる。ふと、小さい頃の自分も一緒に抱きしめているような錯覚を覚えた。

子どもを見ていると、こんな相反する感情も湧いてきた。自分もこうやって育てられたのだな、と。

揺れる若葉に手を伸ばし 
あなたに思い馳せる時 
いつになったら悲しくなくなる 
教えてほしい

自分を捨てた親を憎いと思わないはずはない。だが、心の底から憎みたいのに、憎みきれないのだ。私にとって母とはそういう存在だった。いないからこそ、絶えずその存在を想ってしまう。恋しくて、恋しくて。会いたくて、会いたくて。

娘が泣き疲れてすやすやと眠る姿を見ていると、この一粒種をずっと守らなくてはなならないという強い気持ちと同時に、抑えきれない自分の母への想いが溢れて止まらなくなった。もう雨が上がってもいいのではないか。

さっきまであなたがいた未来 
たずねて 明日へ

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小さい頃テレビでよく観たアニメの世界名作劇場で、最も印象深かったのは「母を訪ねて三千里」。主人公の少年マルコの母アンナは、夫が経営する診療所の借金を返すため、イタリアのジェノバからアルゼンチンのブエノス・アイレスに出稼ぎに行く。だが、「病気になった」という連絡を最後に音信不通となってしまう。マルコは母を捜す決心をし、家族の大反対など意に介さず、相棒である子猿のアメディオとともにアルゼンチンへ向かう――。

ずっと母に会いたい気持ちこそあれ、マルコになる勇気はなかった。やっとその勇気が出た時には、もう40歳になっていた。母と別れてから、実に三十年以上の月日が流れていた。


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