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ミスター


以前のnoteに何度か母は登場したが、今回は父の話をしようと思う。


保育園、小学校、中学校時代と私の事は知らなくても、私の父の事はほぼみんなが知っていた。

みんなと言うと語弊があるが、私と関わったすべての人はもれなく父との思い出がついてくる。


まず、父の見た目だが、

ほぼ長嶋茂雄だ。

昔から、長嶋茂雄に似ているせいで

「ミスター」や「長さん」と呼ばれる事が

よくあった。

出会った人が吹き出すこともよくあった。

(私が結婚する時、初めてお互いの両親と顔合わせをする事になった時、旦那側の母が何度も私の父を見てツボにはまり、事あるごとにツボにハマっては話が中断した)

そして、父は天然パーマだ。

短め角刈り天然パーマなので、パンチパーマと
間違われる事もあったが、
なんせ顔が長嶋茂雄なので、不思議と悪人顔には
見えない。

前にも書いたが、両親は定食屋を営んでいたので
「マスター」とも呼ばれていた。
「マスター」の「ミスター」。

ちなみに父はジャイアンツファンだった。
なので、毎回似てると言われる度にまんざらでも無さそうだった。

父の影響もあって、私もジャイアンツファンになった。

ファンと言うよりは、父がチャンネル権を
握っているので、父が見ているものを必然的に
子供も見るようになるため、必然的にジャイアンツの選手の顔と名前とポジションくらいはスラスラ言えるぐらいにはなった。

そして私は吉村が好きだった。

父は吉村が「ポチ」と呼ばれている事を教えてくれた。

父はよくいらん情報を伝えてくる。

父に合わせてあげてる事も知らん顔でテレビに
ポチが出てると「ほら!!ポチ出てるぞ!!」と
教えてくれる。


小学校低学年の時に横浜に引っ越し、その時には
もう両親は定食屋では無く、会社の寮に住込みで
管理人と食事を作る仕事をしていたので、朝食がおわり、寮の掃除などが終わると昼間は部屋でゴロゴロしている事もよくあった。

引っ越して来て間もなく、私にも友達が出来て
夏休みには毎日のように友達を家に連れて帰った。

私の家(父が管理人をしている寮)は中学校の目の前だったので、夏休みになると近所の小学生が毎朝ラジオ体操に集まり、その帰りは必ず私の家に遊びに来るというのがルーティーンになっていた。

その寮は、私達家族が過ごせる部屋と、少し離れた所にも空いている部屋があったのでそこを私の部屋として使っていて、子供の遊び場としてはもってこいな所だった。

しかも、お風呂も大浴場で、小学生の私や友達は
夏場には風呂に水をはってもらい、プールとして遊び、泳げなかった友達も泳げる程にまでなった。

お風呂プールが終わると、父が
「お昼食べるか~?」と
大量そうめんを茹でてくれたりしたので
それをかっくらって、庭(寮の庭が芝生で広い!)に使っていない布団のマットレスをいくつかひいてくれて、そこで昼寝をした。

最高だ。

しかもその寮には卓球室まであったし、寮が4階建ての屋上まであり、屋上にはハンモックまでついていたので、夏場は屋上のハンモックに揺られながら夕涼みしたり、寮の中全部を使った鬼ごっこをしたりと、小学生にはもってこい過ぎる場所だったので、夏休みは毎日溜まり場のようになっていた。

父特有の挨拶もある。

私の友達が家に遊びに来た時は必ずその
挨拶をされた。

顎を2回ほどチョンチョンと撫でる挨拶。

父は私と私の友達を子猫を撫でるように
顎を2回チョンチョンとした。

友達は嫌がって手で「やめろー」と
振り払ったりもしていたが、
嫌がられれば嫌がられるほど父は
「なに~!何で嫌がるの~!」
と笑いながらチョンチョンした。

男女問わず、チョンチョンしていた。

小学生の頃は班での活動で集まって話し合ったりする事がよくあり、そんな時には我が家はもってこいだったし、なんならお昼も出てくるので、友達のお母さん方からもありがたがられていたと思う。(実際に聞いたわけじゃないけど、自分が母親という立場になって、夏休みの子供の昼ごはん作りがこんなにも面倒くさい事だとわかったから)

男子達の間にも父は有名になっていた。

よく、私と友達が庭に引いたマットレスで
バク転の練習をしていて(もちろん出来ないけど、父が体を支えてバク転風にしてくれた)それを
同じクラスの男子が石垣をよじ登って柵の隙間から
それを覗いたりしていた。

父はそんな子を見つけると、おいでおいでして、
一緒に遊んだ。

男子も最初は戸惑っていたが、気づくとうちの父から背負投げをされたりしていた。
(父は柔道の有段者だったので、やたらと男子には柔道技をかける)

男子からは何故か「文太」と呼ばれていた。
菅原文太に似ているからだそうだ。

父もまんざらでも無い顔をしていた。

けど、任侠映画はそんなに好きでは無かったらしい。
父は刑事コロンボが一番好きだった。

毎日のように再放送で刑事コロンボを見ていたのを覚えている。


そして、中学生になり、同じような日々が過ぎて、
みんなそれなりに体も大きくなっていたが、
父の挨拶は変わらず、
全員に顎チョンチョンをしていた。

ある日、私が学校から帰ると
庭の方から大きい声が聞こえてきたので
見に行くと、

「おい!ギブギブギブ!!!!」
「許してください!!」
「文太!まじで許して!!」と声が。

中学のヤンキーが庭で父に絞め技をかけられていた。

父はニヤニヤ笑いながら絞め技を緩めて
「じゃまたな〜」と
ヤンキー2人の顎をチョンチョンしていた。

「やめろよまじで!!」
「じゃ、文太またなー」とヤンキー達は父にバイバイして庭の柵を超えて石垣をくだり帰っていった。
どうやら私にようがあるわけではなく、父に遊んでもらっているだけだった。

ヤンキーと言っても、小学校の頃からの幼馴染なので父も顔なじみだが、学校に行かず、庭の石垣をよじ登り、芝刈りをしていた父を目がけてBB弾を撃ってきたので、父がおいでおいでして柔道技をかけていたと言う流れだったらしい。

中2、中3の時はPTA会長までやらされていた。
というのも、ほぼ学校行事は父が参加し、毎日の私の弁当も父が作っていたので、他のお母さん方には暇そうに見えたであろう父をこれは丁度いい!とこぞって父を推薦したのだ。
父も断れない性格なので、まんまと引き受けてしまい、PTA会長にまでなってしまった。

地獄なのは娘の方だ。

運動会やら卒業式、事あるごとにPTA会長が
壇上に上げられ話をする。

その度に男子達に「文太ーー!!」と声援が飛ぶ。

本当にやめてほしい。

私にだって、好きな人ぐらいいる。

好きな人から

「あれ、お前んちのオヤジだろ?」
と言われた。

違うとも言えず、ただその地獄の時間が過ぎるのを
待った。

私の知らないところで私の父が独り歩きしている。

校長先生からも

「お父さんにまた飲みに行こうって言っといて!」

と伝言を頼まれる。

校長と飲み友達になっている...…

他の先生からも声をかけられるのはほぼ父の話題だし、私の中学時代と言えば、「ホットロード」が
全盛期でそんな事に憧れを抱くような年頃。
けど、PTA会長の娘となれば校長やら他の先生の
目もあるからそうそう悪さも出来ない。

中学を卒業してからまた引っ越してしまったので、
その後私の友達と父が会う事もあまりなくなってしまったが、おそらく同窓会をしたら私の話題よりも父の話題になるんでは?と思うほど父の知名度は高い。

noteをやりたかったのも、そんな父の話を
こうやって残しておきたいなぁと思ったのもきっかけの一つだ。

去年の10月、父の誕生日の2日後に
父は他界した。

あんなに毎日のように悪口を言っていた母は
父が病気になってから本当に毎日毎日献身的に介護をしていた。
もっと人に任せればいいのに、と言う私の意見はあまり聞かず、毎日小さい体で父を抱きかかえ、トイレに連れていき、服を着替えさせ、ご飯を食べさせていた。
どう考えてもこんなの一人でやるのは無理なのに。

父の病気がわかったのは、そんな生活が2ヶ月過ぎた頃だった。
どうにもこうにも動かない父。
どうにかして病院に連れて行かないとと、母がタクシーを呼んだが父が起き上がってもくれず、もちろん体の大きな父を一人で担ぐ事も出来ず、その日は病院に行く事を諦めたが、いてもたってもいられず、早朝、私に電話をしてきた。

夜中の電話、早朝の電話もろくな話だった試しがない。 その日ももちろん、母の慌てた声にすぐ状況を理解し、まだ寝ていた旦那も起こしてすぐに車で実家に向かった。

かかりつけ医から紹介された病院につくと、まず内科で見てもらう事に。

待っている間、ロビーで看護師さんに今までの経緯を聞かれる。 
私も初めて聞く話だった。
コロナ禍であまり実家に顔を出せていなかったのもあり、母も私に心配かけまいと父が具合が悪い事を言い出せなかったと言っていた。

母が看護師さんに2ヶ月前からこんな状態が続いてる事を言うと、看護師さんが泣きながら母に
「そっか、頑張ったね」と背中をさすった。
母も私もその言葉に号泣してしまった。

「もっと早くに助けを求めて良かったんだよ」と言われ、人に相談したり、助けを求めたり出来ない母の性格が悔やまれた。

検査の結果、心臓、血圧、その他に異常はなく、脳の検査をする事になった。

認知症だった。

よく耳にする認知症だが、父の場合はアルツハイマーとは違う「レビー小体型認知症」と言うもので、
パーキンソン症のような症状が出るのが特徴らしい。

それを聞いて納得したのが、たしかにここ数年
歩き方が少し違和感があるなぁと思っていた。
足を引きずるような歩き方で、何もない所でつまづくようになっていた。
年寄り特有なのかとそこまで気にしていなかったが、もともと出不精で、母に無理やりスーパーに連れて行かれでもしないと1日中テレビの前で過ごす事もしばしば。

このコロナ禍でますます外に出かけなくなり、私もコロナが落ち着いてから帰ろうと思っていたので、父と話す機会も少なくなり、どんどんその症状が悪化していったのだ。

歩く事も、喋ることもままならなくなり
起き上がるのも頭では起き上がりたいのに体が思うようにならないので、トイレにも間に合わずという日々が続いていた。

ソーシャルワーカーさんとも相談して、家に連れて帰るのは無理と言う判断になった。

その後、病院から介護施設、また病院と転々として
最期は誤嚥性肺炎になりそのまま家に戻る事なく、病院で最期を迎えた。

しかもコロナ禍で面会もほとんど出来ず、
介護施設にいる間にガラス越しに少しの時間だけ面会が出来たので、私の娘達のメッセージ動画を撮ってきたものを父に見せた。 

ほとんど喋れないが、孫の顔を見た父は
こわばった顔が少しほころんで、昔の優しい顔になった。

病院から危篤の連絡が来て、母と一緒に
父の病院へ行きその時は父の近くまで行く事が許されたので、手を握って話しかけた。

父は呼吸器をつけていてもう喋れる状態ではなかったが、私が声をかけるとちゃんと手を握り返して指でスリスリしてきたので、内容は聞き取れているとわかった。

母は泣きながら「まだ早い!!許さないわよ!!」
と怒っていた。
こんな危篤状態の旦那に向かって言うことか?
と正直マジかこいつ?となった。(こうゆうときに冷静な自分何なんw)
とりあえず私は、そんな死ぬ寸前まで怒られている父が不憫だったので、
「この人(母)は大丈夫だよー、私がいるから」と言った。
父はぎゅっと私の手を握って
たぶん、「ありがとう、よろしく」と言っていた。   


父が亡くなり、家族葬も終わり、家に帰って来た時、なんだかグッタリ疲れて私も少し体調が悪く、頭が痛かったので、その日は早めに布団に入った。

リビングで子供と旦那が何やら騒がしくしていたが、疲れきっていたので起きる事無く眠ってしまった。


次の日の朝、いつも通りに起きて、下の娘を起こすと、
「ママ!昨日ママが寝た後に大きい蛾みたいなのがいて、外に出したかったのに全然出なくてパバが新聞紙で追い出そうとしたけど、結局見つらなかったのー💦」と言ってきた。

蛾? 

一瞬、あれ、蝶々じゃない?と思った。

何故なら、父が会いに来たと思ったからだった。


そして、見つから無かったのならまだリビングにいるはずと、リビングの窓の所に目をやると、

やっぱりいた!!!!

大きいオレンジのアゲハ蝶!!!

やっぱりお父さんだった!!!!(おそらく)


私はそのアゲハ蝶に

「お父さん!大丈夫だよ!もう私も元気になったよ。心配で来てくれたんだね!」と言って窓を開けると、オレンジのアゲハ蝶はゆっくりと外に出ていった。


余談ですが、昨日お父さんが次の巨人軍の
監督になる夢を見たw

もちろん、元野球選手でもなんでもなく、ただ顔が長嶋茂雄に似てるおっさんと言うだけで。

新庄(BIGBOSS)監督に対抗して、長嶋茂雄そっくりさんの一般人監督にするなんて、巨人やるぅ〜

その発表記者会見に何故か私も参加。
「お父様が監督に就任されましたが、娘さんから
一言お願いします」と記者の質問に


「人柄だけは誰にも負けません!!」


と力強く言った。