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へらへら笑ってろ(双極性障害の私)。<4>努力は嫌い、と言うことにした。

大学時代に、とてもお世話になったご夫婦がいます。
証券会社勤務の奥様とインダストリアルデザイナーのご主人(いま、書きながら思いましたが、奥様とご主人という言い方以外に、いい表現方法はないでしょうかね)。当時、アパートの近くにあった、アメリカ人やオーストラリア人の宣教師たちが営む英会話学校と英会話カフェの常連さんでした。同じレッスンをご主人と取っていたことがきっかけで仲良くなり、レッスンやカフェで22時頃まで英語でお喋りしたあと、まだ話したりなくて、そのご夫婦のお宅に、たくさんの人がお邪魔していました。

ご主人の正さんは、いつも「努力なんて大嫌い」とおっしゃっていました。好きだからやる、でいいんだ、努力なんて楽しくない、と。

当時の私は、「そうはいっても、努力せざるを得ないことはたくさんあるはず」と内心思っていました。正さんのことは、「名は体を表す」といつも思っていて、彼のおっしゃることは大抵正しいので、「でも正さんがおっしゃるんだから、そういうものなのかな」とも思っていました。当時、正さんは40代。20歳年上の、人生の大先輩でしたし。

その後、やっぱり努力しなきゃ、といろいろがんばってみたり、努力ができなくなったり、努力ができない自分を責めたりというのを30年繰り返してきまいた。そして、51歳のいまの私は、「もう努力はしない」と決めています。

双極性障害をもつ人間のバイブル!と思っている『躁鬱大学 気分の波で悩んでいるのは、あなただけではありません』(坂口恭平 新潮社)を読んでいると、爆笑しながら納得してしまうことばかりなのですが、この本にも、努力なんていう発想は双極性障害の患者には大敵だということが書かれています(坂口恭平さんが、双極性障害をもつ人のことを「躁鬱人」と呼んでいるのもいいですね。「障害」とか「患者」という言葉を使わないだけで、清々しい気持ちになれます)。

そう、だから、もう大敵である行為はしない。目指さないことにしたのです。もっとのびのびと生きたい。

勤勉で努力家の多い日本人の社会にあっては、努力はしない、なんていうと、社会人として欠陥がある人だと思われるかもしれません。でも、いいんです。私は堂々と「努力は嫌い、だからしない」と言うことにしました。

同時に「でも、好きなことなら、いつでもどこでもいつまでもやります」とも言おうと思っています。実際、私はそういう人間だからです。

この原稿の草稿は、ある朝、出社前の支度をする直前に書きました。本当は、あと15分早く身支度を始めるつもりでした。でも、書こう!と思い立ったのを我慢していたら、私には窮屈なんです。それは我慢なんです。努力だけでなく、我慢も苦手です。
だから、素早く頭のなかで計画を立てて、「15分ここで原稿を書いても、遅刻しないし、業務に支障はない」と判断して、書き始めました。結果、とてもいい気分になれました。

私は、努力して文章を書いているわけではありません。好きだから書いているだけです。いまのところは。
というのは、私は文筆業を目指しているので、プロになるためには、そしてプロになったら、努力が必要かもしれないからです。それは、いまの私にはよくわかりません。
できることなら努力はしたくないので、いまの「書くのが好き」という気持ちを大切に、しばらくやってみようと思います。もしかして、やっぱり努力しないといけない、と気づくときがあったら。そのときはそのときで、私のような努力嫌いの人間にも、できる方法を考えてみるつもりです。

【今日の1枚】
かぎ針編みが好きです。編み物の素晴らしいところは、失敗したらほどいて編みなおせること。するするするすると糸をほどくの、なかなか気分がいいです。駄目なときは、さくっとリセット。生きることも、こんな感じでやっていけたらいいなあ。

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