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自律型人材であることを求められる。でも、、、

先日、「自律した人材」についてシステム思考のツールを使って対話をした。きっかけは、「もう何年も自律した人材、自律した人材って言い続けてるけど、変わった感じがしないのはなぜだろう?」という企業勤めの人からの問いかけだ。すると教師の人が興味深い発言をした。「勤めている学校では自律した人材に向けた取組みをするんだけど、必ず親からの反対にあう」という。何が起こっているのか?私たちは教師、企業人、受験を控えた親という立場をとって語り合った。

自律型人材①

学校では自律した人材を育てるために、学生が自ら選択する機会を提供しているという。自分で何をするか?いつするのか?を決める。すると結果に対して責任感や効力感が芽生え、それが自律への一歩になる。

自律型人材②

自律への一歩を踏み出した人材は、自ら積極的に選択する機会を活用する。これがぐるぐると好循環になると学生は自律した人材へと育っていく。


しかし、現実にはこの好循環はそんなに都合よくグルグルとは回らない。


なぜか?

自律型人材③

自律した人材として、自分が大事だと思う方向に伸びていくことは、必ずしも他者から評価される基準に合致するわけではない。学校で言うと自律した人材に育つことと受験に成功することはイコールではない。受験を控えた親の立場からすると、親としては子どもに好きな事をして欲しいし、自分が大事だと思う事に取り組んで欲しいと心から思っている。でも、それは受験が終わってからにして欲しいというのが本音だという。子を想う親としてそう考えるは当然だろう。なぜなら、現実は学歴が重要だということを親は体験しているから。社会的に評価される基準から乖離していくことに親が不安を覚えるのは、子を想うからこそだろう。


私自身二児の父なので、子どもには自由に育って欲しいと心から思っているけど、自分の行動を振り返ってみると様々な制限もかけている。子どもは、「危ない、汚い、うるさい」遊びを通じて、自らを発達させていく。でも、親の立場になると周りの目が気になって危ない、汚い、うるさい遊びに制限をかけたりもする。いつもここにジレンマを抱えている。


自律型人材④

自分がやりたい事、大事だと思う方向に伸びて行こうとしても、他者から評価される基準に向けて、矯正される力がかかる。それが赤のサイクルだ。


この赤のサイクルは、家庭や学校だけの話だけではない。企業でも自律した人材であることは確かに求められているし、それが明示的な目標にもなっている。しかし、現実には自律した人材の解釈は様々で、自律した人材が組織にとって都合の良い人材であるとは限らない。システム思考家のデイヴィッド・ピーター・ストロー氏は、「システムは、目的を達成するために完璧にデザインされている」と語る。自律型人材が長年語られ続けている一方で、その組織が本当には何を達成しようとし、どんな人材を求めているのか?現実によく機能しているシステムを観察するとそれは見えてくる。


ところで、この評価される基準って誰がつくっているのか?


近年、受験にも様々な制度が取り入れられていて、子どもが自律して主体的に学んできたことが受験に成功する道筋も用意されている。企業でも副業はじめ自律した人材であることを許容する仕組みは充実し始めている。それでもなお赤のサイクルが強い力を持っているのはなぜだろう?目に見える基準としては、自律型人材が良しとされる。しかし、目には見えないけど行動に影響を与える基準は必ずしもそうであるとは限らない。


ある人が「親も体験していないからわからないよね」と言った。その一言で、私は他者から評価される行動でうまいことやってきた体験を持つ私たち一人一人がこの基準をつくっていると感じた。


前半の対話では、家庭、教育、ビジネスに共通の構造がある事が見えてきた。でも、対話を進める中でさらに見えたのは、それらが互いに相互作用しているとても大きなシステムの姿だった。正直なところ教育の課題というのは、向こう側の問題のように考えていたところが自分にはある。でも、現場の先生が苦労しているその一端に確かに自分の姿を見た瞬間だった。


最後に、赤のサイクルは悪いものではないという事を付け加えておきたい。これだけよく機能しているのだから、その恩恵が必ずあるものだろう。私たちが社会生活を営む上で必要不可欠なサイクルかもしれない。組織に秩序をもたらすために必要なのかもしれない。そうであれば、どう両立していくのか?改めて自律型人材とは何を指しているのか?さらに議論を深めていきたい。

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