書くことの難しさ

書くことは、書き始めないと始まらない。
まっさらなその紙の上に、文字という正確な縫い目を打つことによってしか、進んでいかないその行為は、久しぶりに入ったプールような感覚だ。
日本人は大抵、幼い頃にプールに通ったり学校で水泳を習う。
しかし、大人になれば、自主的に行こうと思わない限り、泳ぐという行為は日常的には起こり得ない。
久しぶりにプールに行くと、みんな泳いでいる。
明確な意思を持って、レーンをぐんぐん進んでいく。
数年ぶりに来た人は、最初戸惑うだろう。あれ、準備体操するんだっけ。
こんなに水って冷たかったっけ。どうやって泳ぎ始めればいいんだ。
あれ、あれ、、、しかし、身は水の中にあるのだから、意を決して始めるしかないのだ。
そこから数メートルも泳ぎ始めれば、体は思い出すだろう。
何年経っても、息の継ぎ方、水のかき分け方。

文章を書くのも同じことなのかもしれない。
人は皆、幼い頃から読んで、書いてきている。
それを自覚的に行おうと思って、日記やエッセイや論文を書き始めると、
初めはただっぴろい海に一人放流されたように感じる。
しかし、いろんな本を読んで、いろんな文章を読んで、
周りに人がいることに気づくことによって、安心して泳ぎ出すことができるのかもしれない。

何もないように見える文章にも、ルールはある。
論文は、言いたいことに対してルールに則って、それを証明する文章だ。
自由そうに見える物語にも、それなりの構成のルールがある。
世の中の大抵のことにはパターンとルールがあり、大抵のことはそれで
十分なのかもしれない。
今の時代は新しいことを生み出すよりも、応用に応用を効かせて
誤魔化しながら前に進んでいる錯覚をみんな見ていることが多い。
だからとりあえずはルールを知ることで安心感を持つことができる。

そして何よりも今の時代を生きるメリットは、どの時代よりも先人たちに
触れることが可能となっているところだろう。
情報へのアクセスが自由になったが故に経験値を有り得ないくらいの速さで貯めることができるようになり、だからこそ応用の応用がこんなにも氾濫した世の中になった。
海外にいても日本語の本を電子書籍で読めるようになり、
わからない単語はクリックすれば電子辞書と繋がり、
英語だってプロに頼まずとも簡単に翻訳ができるようになった。
ネット黎明期に比べて、情報の質は落ちていると言わざる追えないし整っていないけれどワクワクするようなコンテンツもほぼ
消え去ってしまったことは否めないが、自分が欲しい情報、もしくはそれ以上の広がりをネットでは探せる世の中は便利だ。とてつもなく。

そう、だから、何が言いたいかというと、
文章を書くのはきっと難しいことではなくなっているはずなのに、
それでもやはり1行為として取り上げるとその困難性は簡単には消えるわけでもなく、きっといつの時代も大変だったんだろうな、と自分を慰めながら今頑張って論文の準備をしているというわけである。

以上。

これからはもうちょっとコンスタントに文章を書くように頑張りたいと
思う。ウィーンの生活もまた追って、書き記していきたい。






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