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25年前の1月17日

1月17日、阪神淡路大震災から25年、もう四半世紀も経ったのか、、ニュース映像とかで改めて当時の状況を観ると言葉が出ない。

そんな25年前の1995年、まだパリで暮らしてた時期で、丁度インテリア関連の展示会視察で母もパリに来ていて、夜中に東京の兄からのFAXで一報を知り、なかなか詳しい情報が入って来なくてやきもきしたのを憶えてる。

まだネットも今みたいに普及して無かったし、ニフティ経由でもなかなか情報が錯綜してたり、東京の友人と繋がっても東京でも朝から情報が混乱してたりで、軽くパニック状態だった。

17日は朝早くから口頭試問の試験の日で、試験会場に行ったらクラスの友人たちにえらく心配と同情されたりもした。ただ、説明するにも情報が足りなくて、こっちが知りたいくらいだよ!と思ったりもしたんだよね。

で、試験の順番が来て試験官3人が待つ部屋へ入ったら、試験の時は普段の気軽さは何処?ってくらい厳しいはずの教師たちが、口頭試問そっちのけで次から次へと見舞いの言葉や勇気付ける言葉を掛けてくれたんだが、なんともフランス人らしさ満開だったw。

「日本はカタストロフな様だが元気を出すんだぞ」
「ハイウェイが崩れて、バスが落ちそうな映像見たぞ。あのバスは運が良い」
「こう言う時はショコラショー飲むと落ち着くぞ」
「絶望的な時もどこかに希望はあるから諦めるな」
「詳しい状況分かったら教えてくれ」
「なんだ両親ともにパリに居るなら安心だな」
「なに、兄妹は日本に!それは心配だな、彼らが無事なことを祈る」
「心配で試験どころでは無いだろうから帰りなさい」

って事で口頭試問は後日やってくれる事になって帰らせてくれたんだけど、だったら小一時間順番待たせて呼ばずに先に帰らせろよ!と激しくツッコミたくなったのは鮮明に憶えてる。

アパートに戻って新聞やニュース、当時のプアなネットニュース、兄からのFAXなどで断片的に情報が入るんだけど、全体像掴むのに数日掛かったのは辛かった。日本への電話は繋がり難かったし、現地のニュースでは被害の派手な映像ばかり繰り返すし、、、。
結局、震災の情報を詳しく知ったのは、東京に戻った母が雑誌や新聞などを送ってくれてからだったし、その雑誌たちはパリに居た日本人の知り合いの間で貴重な情報として重宝されてたなぁ。
スマホでリアルタイムにサクサク情報手に入る今は凄いね、マジで。

震災後の神戸を訪ねたのは、丁度一年後くらいに日本に行く用事があって、そのついでにデザインフォーラムでオフ会やろうって企画して、神戸オフやった時。
南京町で豚饅食べたり、但馬牛食べたり、、って食いしん坊が多い仲間なんだなw
復興しつつある街並みが不自然に綺麗過ぎて、所々にまだ震災の傷跡もあったりして、それが痛々しさを強く感じさせてて、仲間に案内して貰いながら色々と考えさせられた貴重なオフ会だった。
その後は2度くらい行ったきりで、もう随分阪神方面には行って無いんで、また機会があれば南京町に豚饅食べに行きたいなぁ、、。

震災から25年、我が家の防災は?と思いつつほとんど何もせずに25年なんだよねぇ。いかんよな、イカン。
友人である災害レスキューナースの辻直美さんの本「レスキューナースが教えるプチプラ防災」読みながらちゃんと防災やってこ!今年こそは!(^^)

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