103 シーシャ

 新しくなった市立図書館の三階には、こぢんまりした会議室とトイレ、殺風景な市内を見下ろす展望デッキにつながるドアだけがあった。廊下の先を中ヒールの音が響いている。ネズミ色の床に真新しい跡が出来る。まだ何のにおいもしない部屋を鹿野さんはどんどん進んでいった。捻られた回数も少ないだろうドアノブを開けた彼女の背を追って、自身も外へ踏み出した。靴の底が新しい地面に触れる。デッキは妙に甘いにおいがした。
「甘いっすね」
「シーシャだ」
「この辺に店ありましたっけ?」
「いや、あそこ」
 彼女の人差し指が、柵をすり抜けて我々のいる位置から少し下のマンションを指す。そこには深緑色のアウトドアチェアに腰掛けながらシーシャを吸うサングラス姿の女性がいた。女性はベランダから室内に向かって手を振っている様だ。どこの国か分からない言語だが、陽気な音楽も鳴っていた。パーマっぽい茶髪が風で揺れて、ときおり上下に舞っている。煙もこの風に乗ってやってきているらしい。果物と言われたら果物だし、紅茶とも香辛料とも捉えられるような。甘くて、誰しも懐かしいと感じてしまうにおいだった。
「南国って感じっすね」
「あたしは夜市って感じ。でもなんにせよいいね」
 鹿野さんは柵に寄りかかったまま、しばらく目を瞑っていた。真似をして目を瞑ると、甘いにおいと陽気な音楽、時折車の走り抜ける音がした。日の光を見るとくしゃみが出る自分にとっては太陽が主張しすぎないのもありがたい。田舎の平日に心地よい空間を発見してしまった。
「良い感じっすね。ここも候補っすか?」
「まだマシなとこって感じだけどね」
「じゃあ、また来週探しましょう」
 彼女は頷きながら、デッキの柵にスマホを向けた。いつも通りカシャカシャと撮影音が聞こえてくる。本日も死に場所を探しているとは思えない、穏やかな笑みだ。
「平尾は本来あっち側なんだから」
「俺サングラス似合わないっすよ」
 けらけら笑う我々の眼下で女性はシーシャを片付け始めた。音楽が止まる。

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