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【エッセイ】洗濯機を回すこと、それはポケットの思い出を取り出すこと。

 こんばんは、じゅんちちです。
 現在、強制的に文体を変えるために、慣れていない文体にしています。読みにくいところもあるかもしれませんが、ご容赦ください。

 僕は洗濯機の前に立って、洗濯カゴの中からパーカーを取り出したのだけど、そこは風呂の扉の横のスペースでフローリングの床が冷たく足の指が痛かった。
 その日、僕は久しぶりにお気に入りのパーカーを洗濯しようと思ったのだけれど、それには特に理由があったわけではなくて、単純に最近こいつを洗ってないと思ったからだった。

 洗濯の頻度というのは、けっこう人によって違いが出る部分だと思うから、僕がパーカーを普段は洗っていないということを知って驚いている人も少なからずいると思う。そして、そういう人たちからすれば、パーカーを毎回洗わないということから、そもそもの洗濯頻度が低くて不潔で怠惰な生活を送っているのではないかという僕への誤解が生まれ、僕のことを不潔でだらしなくて風呂や歯磨きすらサボるような臭い敬遠したい種類の人間だと思うかもしれない。悲しいけれど、人が他人を理解するというのは、誤解の総体としてしか捉えることができないのだ。
 でも、安心してほしい。僕は毎日風呂に入るし歯磨きも朝夜2回するし、なんなら毎朝脇にデオドラントスプレーを振りかけている。煙たくてむせるほどに。だから臭いなんてことはきっとないはずで、どうか安心してほしい。いや、それでも、とあなたは言うかもしれない。もしあなたが犬並みの嗅覚を持っていて、生理的に僕が発するフェロモンみたいなものを受け入れられない種類の相性だとしたら、臭いと思うかもしれない。でも、もはやそれは僕の努力でどうすることもできないわけで、気にしても仕方ない事柄になってしまう。悲しいけれど、さよならだ。

 とにかく話を洗濯に戻すと、僕は下着やシャツやタオルは毎日洗う。ただ、パーカーやカーディガンといった上に羽織る種類の服に関しては、たまにしか洗わない。それが僕の洗濯におけるルール、ないしはテーゼだ。

 それで、冒頭の言葉に戻るのだけれど、昨日の夜に着ていたパーカーを脱いだ時に「明日の洗濯にこいつを入れよう」と思い立った。それは、イタリア旅行に行ったヴェネチアかどこかの観光地で買ったお気に入りの緑色のパーカーで胸のところに大きくライオンの顔がプリントされていて、そのライオンは立派な立髪を誇らしそうにすまし顔をしている。なぜイタリアでライオンなのかはよくわからないけど、よく考えれば日本にだってライオンのプリント柄は多いし、西武ライオンズなんて埼玉なのにライオンをマスコットにしてるし、そこにリアリティのある理由はいらないのだ。僕たちの人生についても必要なのは、意味なんて言葉で語ることのできる種類のものではなくて、むしろリアリティという感覚的なものなのかもしれない。

 しばらく洗っていなかった衣服を洗濯するときに気をつけないといけないことがひとつあって、それはポケットの中を確認することだ。細かく散り散りに千切れたティッシュが洋服につくのは避けたい。鼻水つきのティッシュだったかもしれないのだ。服についていい白い物体はペンキと雪だけだ。

 だから僕はパーカーを洗濯機に突っ込む前にポケットの中の物を取り出して、洗面台に並べていった。ポケットの中にはいろいろなものが入っていた。3週間前の深夜に行ったコンビニで2本の缶チューハイとポテトチップスを買ったレシート、2ヶ月前に観た映画の半券、いつかもらったガムの包み紙、誰かのピンキーリング。
 洗面台の歯ブラシ置き、それには青い歯ブラシが一本立っているだけなのだが、その横に並べたポケットの中身を見ると付随した思い出のようなものまで甦ってくる。いつかはセピア色の甘酸っぱい思い出になるのかもしれないが、今はまだ鮮度が高すぎて思い出と呼ぶには辛いところがあった。
 2ヶ月前に一緒に映画を観た彼女はもう僕の横にいない。その後のただれた生活で、さらに僕は大切ななにかを失い続けている。僕はそのポケットから出した品々を足元のゴミ箱にまとめて捨てた。そのゴミ箱は黒いプラスチックでできていて、捨てたピンキーリングが底に当たって乾いた音を立てて、洗面所には虚しさが漂った。

 僕はパーカーを突っ込んでから洗濯機の電源を入れた。空腹の人間みたいな低い唸り声をあげている洗濯機に僕が洗剤と柔軟剤を入れると甘く優しい匂いが鼻に届いた。
 これですべてが洗い流されるわけではない。そんな単純にこの世界はできていないし、僕の心もできていない。記憶は脳みそにこびりついて、いつか色褪せて思い出という名に変わって残り続けるのだ。
 それでも、僕はパーカーを洗濯する。それが生活だからだ。生きるとは、そういうことだ。毎日、洗濯機を回して風呂に入って歯を磨いて眠る。そこには真の絶望もなければ希望もない。あるのはただひとりの男の生だけだ。

 今日も僕は生きている。きれいになった緑色のパーカーを着て、またポケットに新しいコンビニのレシートや映画の半券を入れながら生活を積み重ねていこう。

 それでは、また。
(書くネタが無さすぎて、このエッセイは8割くらいフィクションです)

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