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弱さを認めることと男性性 - 映画『ドライブ・マイ・カー』を見て (河北新報 2021.09.21 座標 掲載テキスト)

福島市の映画館で「ドライブ・マイ・カー」(濱口竜介監督)を見た。新型コロナウイルス禍にあって、この映画館では平日夜の最終回まで上映していた。日中は鑑賞する時間が取れない私にとって、福島県内で夜間に映画が見られることは幸いだ。この映画を見て、いろいろなことを考えた。

物語は、舞台俳優で演出家の家福(西島秀俊)が、愛妻の音(霧島れいか)の急死から2年後、演劇祭を監督するため訪れた広島市で、専属運転手に任命された寡黙なみさき(三浦透子)と出会い、自身の悲しみと向き合う姿を描いている。死の直前、音は家福に何かを打ち明けるそぶりを見せていたが、その秘密は明かされないままとなった。家福は重い過去を抱えるみさきと言葉を交わす中、妻の秘密と向き合い、自らを見つめ直していく。

映画の前半、家福は愛車である真っ赤なサーブ900のハンドルを離そうとしない。音に運転席を譲らざるを得ない場面でも、みさきに車のキーを渡す際にも、自分以外の人間にハンドルを握らせることに複雑な感情がある。映画では、運転の主導権を譲るという行為に対する抵抗感と折り合いをつけながら、家福が座席を助手席や後部座席へと移していく過程を通じ自己像の変化を映し出していく。

家福の姿は現代の男性に課せられた「男性性」と向き合うことの困難さを象徴しているように思えた。それは男性は傷ついてはならないとか、常に女性との関係性の中で常に主体的でなければならないという「強者性」と結びついている。自己の弱さを認め、男性のたくましさや社会的な特権など男性優位主義に自制的に向き合う必要性を感じた。

「どれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくりのぞき込むなんて、それはできない相談です。(中略)本当に他人を見たいと望むなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです」。原作である村上春樹さんの小説から引用された長いせりふが発せられるシーンで、自分自身の弱さを認め、時には主導権を手放し、つらい過去に向き合うことが、家福にとっては逃れられないこととして描かれている。

「ゆとり世代」と呼ばれている私も8月に30歳になり、而立の年を迎えた。若者であるという「弱者性」を代表して問題提起することが多い一方で、働き盛りの30代の男性であるということで無意識に強者の立場を取ってしまうこともある。自分は誰かの抑圧者になりうる。それらのことを、私は注意深く感じ取らなければならないと思っている。

濱口竜介監督は、過去の「東北記録映画三部作」で、被災地で震災を語ることの困難さに焦点を当てた。「被災者」や「男性」「女性」という属性で人間を捉えることが、社会の生きづらさにつながってしまう。自分自身を深くまっすぐ見つめることや、一人の人間として尊重し合う関係性について示唆を与えてくれる濱口監督の作品をこれからも楽しみにしている。(一般社団法人 未来の準備室 青砥和希)


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