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地域社会の「寛容さ」とは何か/卒業論文:『地方に若者の「居場所」をつくる〜茨城県結城市を例に〜』から考えたこと

卒論をご恵投いただいた(Happy)

去年ヒアリングに来てくださった白鴎大学(栃木県)の学生さんから、卒業論文をご恵投いただきました。

過去5年くらい、毎年1人以上は学生さんのヒアリングやアンケートの調査に協力しています。がしかし、ちゃんと論文を送ってくださるのは稀です!まじで!

そんな状況なので、完成させてくれたのがとても嬉しいし、私の言葉を引用してくださったのも嬉しい。こういうことがあると、また次の卒論生のみなさんにも協力してあげたいな!という気分になります。

だから今日は、卒論を通じて問題提起してくれた卒論生に、逆にお礼のレポートとして、卒論を読んで思ったことを書いてみようと思います。

論文のテーマは『地方に若者の「居場所」をつくる』とのこと。福島県出身の学生さんが、地方における若者の人口現象に課題意識を持って書かれた卒業論文。茨城県の結城市を舞台にした調査です。

そんな茨城県結城市の人口推計はこちら(REASASより)。うん、なかなかにシビアに見えます。生産年齢人口と年少人口の構成比率は下がり続ける予測です。

人口増減 - グラフ

卒業論文は、総務省・結城市の発表している人口推計、ベストセラーになった落合雅司『未来の年表』井上正良ら『人口減少時代の論点90』を引きながら、まずは問題提起を投げかけます。


「私は、地方に若者が生活したい・生活しやすい環境が整っていないという問題意識を持った。そのためには地域内に若者の「居場所」が必要だと考え、「居場所」とはどういうものなのか、なぜ必要なのかについて明らかにしていく。」

と、筆者の問題提起。(頼もしい...)

そして長く文章を割いて引用をしていたのは、木下斉の以下の記事。

木下は記事中で

「そもそもイノベーションとは、従来のサービスや構造が、新しいものに置き換わることを意味します。自分たちに理解できない若者文化などを攻撃し、排除してしまっては、イノベーションもへったくれもありません。」
「自分が理解できないことを否定しないことが、地方でイノベーションを起こす第一歩なのです。」

と断じています。この東洋経済の記事を受けて卒論生は

地方の未来のためにも、人手不足を補うためにも、今後地方には、若者をただの労働力とみなさず、 若者の価値も受け入れられ、様々な価値を理解する寛容性と多様性が必要であり、それができるかが地方の課題である。

と続けて問題提起します。

地方の「居場所」の役割とマズローの欲求段階

卒論生が題材にした地方の課題は、「寛容性」と「多様性」でした。それらを解決するために、「居場所」が必要だと言います。

どうして、居場所なのでしょうか。

地域における「子ども・若者のための居場所」を考えるために、有名なマズローの欲求段階説で例えてみます。

欲求

有名すぎるこの図ですが、「居場所」は、果たしてどのような子ども・若者の欲求を満たしているのでしょうか。

欲求と居場所

私のおおまかな理解はこう。ちなみに、施設名称や定義は設置者次第ですから、あくまで私の主観的な図です。コミュニティカフェを名乗っていても福祉を意図しているところもあれば、こども食堂でも自己実現ができるように備えている場所はあると思います。

もっとも下位の生理的欲求が欠落するようなとき、それは福祉施設や児童相談所の出番です。社会的な最後のセーフティネットを起動させなければいけないときです。あんまり最後のセーフティネットは起動しないほうが望ましいのですが、日本の場合起動しまくっています

もう少し上位の、安全欲求や社会的欲求が不足するときは、特に地域の出番かもしれません。家庭や学校に馴染めない、居心地が悪いとき、第三の依存・所属する場所があれば、家族や友人とのコミュニケーションも、どうにかうまくいくときがあります。このとき、居場所を運営する職員に求められるのは、傾聴の姿勢であり、カウンセラー的役割です。

さらに上位の承認欲求・自己実現欲求になると、居場所に求められるのはメンター・コーチのような役割になってきます。自分の持っている能力を発揮して、誰かの役に立ちたいと潜在的に若者が思うとき、その意識を言語化して、行動に移せるように支援する。地域社会の課題や、新しいチャレンジをしている大学生・社会人とマッチングをする。モチベーターとも、コーディネーターとも言える役割です。

居場所の魅力と運営の難しさは、どれか特定の欲求に対して、特定の役割を果たせばそれで良いのではなく欲求の段階間を揺れ動く多様な利用者に対して、どれだけ期待と希望に応えられるのか常に思考と工夫が求められる点です。

欲求の移行

”高校生”は、それぞれ全く異なる欲求を持っています。「学校以外の友達が欲しい」かもしれませんし、「親と喧嘩している」かもしれません。「学校の勉強が物足りない」かもしれないし、「地元の地域をなんとかしないと」かもしれないし「アートとデザインに触れてみたい」かもしれません。

そんな多様な高校生は、さらに揺れ動きます。上の図は、横を時間軸に見立てた図です。ABCの顔文字は、欲求を下げる時もあれば、上げるときもあります。横ばいのときもあります。その時々に合わせて、場所に求められる役割は異なるのです。

場所として高校生に耳を傾ける以上、来てくれる高校生の味方でいたい。「居場所」は、特定の目的意識を持った高校生だけではなく、広く開かれているからこそ、多様な役割が求められています。

地方でこそ、ひとつの「居場所」に多様な役割を求められる理由。それは卒論生も引用している、国土のグランドデザイン2050が示すサービス施設の立地と都市圏人口の相関関係にあると私は考えています。

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「大学」や「美術館」や「百貨店」そしてそれの利用者たちが作るコミュニティが、若者の承認欲求や自己実現欲求と密接に関わっています。しかし地方にはそれがない、あるいは維持できない。ともすれば(地方都市によっては)せっかく小規模都市でも立地している「図書館」や「高等学校」が、安心や所属の欲求すら満たしてくれないこともある。卒論生も、結城市の図書館が高校生にとって居場所としては機能していないことを示唆しています。

中・大規模の都市であれば、若者の欲求を満たす場所を分散できるのに対して、地方小都市では、特定の「居場所」が、多様な役割を担う必要があるのではないか。それが、卒論生のいうところの、地方の「寛容性」と「多様性」を解決するために「居場所」が必要、という主張と通ずると考えています。

「若者をただの労働力とみなさず」

マズローの欲求段階説から翻って、卒論生の主張に戻ってみます。

地方の未来のためにも、人手不足を補うためにも、今後地方には、若者をただの労働力とみなさず、 若者の価値も受け入れられ、様々な価値を理解する寛容性と多様性が必要であり、それができるかが地方の課題である。

「若者をただの労働力とみなさず」とは、どういう意味でしょうか。

欲求と居場所

地方における居場所の機能としての「承認欲求」や「自己実現欲求」への対応。この上位の欲求を実現しようとすると、得てして、地域社会に対して(多くはポジティブな形で)若者が働きかけることになります。その結果、地域にとって新しい製品が生まれたり(高校生と地元企業のコラボ商品!とか)、地域にとって課題解決になるようなプロジェクトが継続したり(高校生が考えた、地域の魅力に触れる旅行商品!とか)します。

そんな”結果”には、ストーリー性もあり、ローカルなマスメディアに明るいニュースをもたらしてくれることもしばしばです。メディアを通じて、地域の市民からポジティブなリアクションをうけとって、高校生ももっと活動的になったり、さらに大きな目標を掲げたりします。モチベーションの循環がまわっていく、理想的な関係です。

さて、では地方在住の高校生に、地域課題の解決のための協働を要求することが、卒論生のいう"地方に若者が生活したい・生活しやすい環境が整っていない"状況を一挙に解決するのでしょうか。

私は違うと思います。イノベーティブではない、また地域の歴史や文化とは関係がない、一見大人から見れば不合理・自己中心的な高校生の主張でも、所属する家庭・学校を能動的に選択することが難しい地方在住の高校生にとっては、切実な「安全欲求」「社会的欲求」かもしれない。その欲求が満たされてはじめて、自分と異なる世代や考え方をもった地域の大人とコミュニケーションを取りながら、地域での活躍を志向する段階に進むことができます。進むこともできますし、その欲求段階に進まなくても、劣っているとか、未熟であるということは意味しません。地域にとってイノベーティブかどうか、地域課題解決に直結するかどうかは、当事者の高校生にとって必ずしも重要であるとは限らないからです。

例えその本人は、安全や社会的欲求が満たされていて、地域課題解決に向き合うことができる高校生でも。その友人やクラスメイトが悩みや不安を抱えているとき、それに耳を傾けてくれる大人や制度や施設が地域にあるかどうか。彼ら・彼女らは地域社会のことをつぶさにみています。

結果だけ、つまり地域経済を下支えする「労働力」や地域経済を一挙に救う「イノベーション」など、大人にとって都合の良いものだけを期待しているという空気感を、若者は敏感に感じ取ることができます。

だからわたしは、「若者をただの労働力とみなさず」という卒論生の表現に、一地方在住の若者として伝えたいメッセージが込められているように思います。

ゆえに、わたしの結論も卒論生と一緒です。地方には"若者の価値も受け入れられ、様々な価値を理解する寛容性と多様性が必要"。これをわたしなりに言い換えると、多様な高校生と、その高校生の揺れ動く多様な欲求に、柔軟に対応できる「居場所」が、寛容性と多様性を地方で実現する一つの手段である。

「安全欲求」も「社会的欲求」も「承認欲求」も「自己実現欲求」も。大都市であれば商業機能がそれを充足するような機能でも、地方にいかに若者に愛着を持ってもらい、関わってもらうかという議論の中では、きちんと向きあわねばならないということを意味しています。それを、特定ひとつの施設だけで実現するのは難しいのですが、きちんと多様な欲求に耳を傾けて、必要であれば他の施設やサービスを仲介できるような準備を、「居場所」運営者はしておかなければならない。

若者が自分の欲求を言葉にできなくても、大人が望む結果にはならなくても、地域社会の一員として存在を受け入れ、耳を傾け、時には困難な事業に一緒に取り組む。それは地域の居場所としての「寛容さ」と形容できるのではないでしょうか。

卒論生に幸あれ!

さて、卒論生の他人のふんどしで相撲をとる状態という、お前は若者の味方をしたいのか利用したいだけなのか!という矢が飛んできそうなnoteを書いてしまいました。でも卒論ってそれだけ人の心や考えを動かす力を持っているんだよ!だから卒論書き上げた全国すべての大学4年生のみなさんめっちゃ偉い!すべての卒論生のこれからの人生に幸あれ!卒業おめでとう!ってことが今日言いたいことです。ここまで雑文を読んでいただき、ありがとうございました。

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