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人間の「意識」や「自己」なるものの発達段階が存在するのか?測定すべきなのか?#330

どの理論を学んでも、共通してもつ問いがある。

それは、「この理論の固有の魅力は何で、逆に盲点や限界は何か。」

発達理論やインテグラル理論のようなメタ理論と呼ばれる非常に抽象度の高い、哲学的な理論では、なおのこと学べば学ぶほど、この問いが難しくなるし、重要になる。

これに応えるかたちで、とある問いから、このあたりの理解を深めたい。

問い

その問いは、

メタファーとして使われる人間の「器」や「OS」という「意識」や「自己」なるものの発達段階が存在しうるのだろうか?それは測定すべきものなのか?

ということである。

問題意識

この問いが生まれた背景は、私自体が発達理論やインテグラル理論の理解が浅いがために陥ってしまっていた大いなる過ちからくる。

それは、自分が発達しようしようと思い、低位の段階をないがしろにしたり、他者を発達段階というレンズで見てしまうことで、人の限定的に見てしまっていたこと

過去形で書いたが、これは一部を自覚できただけで、おそらく現在進行形で起きてしまっている。

それゆえに、研究者たちは「the higher the better」という「高ければよい」という発想が危ないことセットで語り、倫理的な問いかけをくれる。

それ自体は、私もわかっているし、気をつけているのだが、結局は理論への深い理解がないために、過ちを犯し続けてしまっている。

その過ちに、待ったをかけるために、

別の切り口の問いかけとして、今回の問い

「メタファーとして使われる人間の「器」や「OS」という「意識」や「自己」なるものの発達段階が存在しうるのだろうか?それは測定すべきものなのか?」

をもっている。

発達理論で押さえておきたい重要な点

この問いを理解するにあたっては、重要な点が2つある。

いずれもカートフィッシャーのダイナミックスキル理論やレクティカの測定内容を学び理解が深まっていった。

1つは、発達領域(ライン)という概念。

発達段階を語るにあたっては、領域(ライン)はセットであるべきなのだ。

実際、生身の人間には、凸凹した部分があるため、領域という概念はしっくりくる。

もう1つ重要な点は、領域というのは、単純に区切れるものではないということだ。

1つの領域にしても、そこには様々な要素が相互作用しあって、1つの領域として成り立っている。

ゆえに、とある1つの発達理論に対して、その領域はどのような要素をもって定義しているのか?本当にそれだけなのか?と問う必要がある。

たとえば、信仰の発達理論「Stages of Faith(未邦訳)」1つとっても、信仰は7つのサブスキルから成り立っているとしている。

認知機能(ピアジェ)、視点取得(ロバート・セルマン)、道徳(コールバーグ)、社会的意義の境界(自己の存在をどのように意味づけるか)、権威の所在の意味づけ(権威をどのように意味づけるか)、世界認識(世界をどのように認識しているか)の7つの要素(サブスキル)から信仰(スキル)という領域を定義している。

(詳細は以下の記事より)

カートフィッシャーのダイナミックスキル理論とマイケルコモンズの階層複雑性モデルを応用したレクティカの発達測定のすごいところの1つは、とある領域に対して、かなり緻密にその領域を支える要素(サブスキル)を特定していることである。


話を戻すと、改めて重要な点は、以下の2つ。

(1)発達には領域がある。

ゆえに発達段階を語るにあたっては、領域(ライン)とセットであるべき。

(2)1つの領域は明確に区切れるものではなく、複数の要素からなりたってできている。

ゆえに、その理論の領域は、どういった要素からなりたっているのか?本当にそれでその領域を語れるのか?という問いをもつことが重要。

入門者が陥りがちな誤解

この2点を押さえると、「自己」や「意識」と言われるような領域にまつわる発達理論、キーガン、レビンジャー、スザンヌの理論やスパイラルダイナミクスのような理論は、具体的にどういった領域で、その要素にはどのようなものがあると定義しているのか?

実は、邦訳されているような本では書かれていない。

(というより、専門的すぎて、入門者向けにはそこまで伝えるにはあまりに情報量が多く混乱してしまうため、あえて省略されている。本はあくまで商業向け、一般向け。)

ゆえに、日本で広く知られるようなロバート・キーガンの理論などが、まるっと「自己」の発達領域として理解されるに留まってしまっている。

そのため、この理論がまるで自己の発達理論であると勘違いしてしまっている。

問いの答え

というのも、改めて、本当に人間の「意識」や「自己」なるものの発達段階が存在しうるのだろうか?そして、それは測定すべきものなのか?という問いにもどると、

キーガンの理論も、スザンヌの理論も、スパイラルダイナミクスにしても、どれも書かれていることは納得感があるのもの、それが「意識」や「自己」の全体を語っているかというと、そうではないと私は思っている。

人間の深遠さを考えれば、そんな簡単に、語れるものではない。

というより、そもそも言語をもってさえも語れるものではないようにさえ思う。

ゆえに、自己自体を測定すべきかという問いにも、私は踏みいれてはいけないと思っている。

その行為があるために、なにか非常に人間の深遠さや魅力を曇らせることになっているのではないかと思う。

キーガンやスザンヌなどの自己にまつわる発達理論の価値

では、それを踏まえた上で、キーガンやスザンヌなどの自己にまつわる発達理論は無駄なのか、虚構なのか?というと全くもってそうではない。

「色即是空空即是色」という言葉があるように、これら理論というのは、フィクションであるとともにリアルでもある。

それはたしかに人間の全体を語れていないという点でフィクションと表現することもできるのだが、そこには一定のファクトもあり、定義する範囲においてリアルでもある。

キーガンやスザンヌの発達測定も、その定義の範囲におけるスナップショットとしてリアルといえる。

具体的に、キーガンなどの理論の価値は何であるのか?

1つは、ざっくりとでも自己という点で発達段階を理解することができるという点。

もともと自己というものを語ることは難しいにも関わらず、キーガンはいくつかの発達ラインを総称して、自己という領域を構成概念として捉え定義した。

これ自体がものすごいことであるし、それゆえに、まずは発達段階という概念でもって、ざっくりとでも自己を理解することができる。

そして、もう1つは、キーガンの理論が哲学的であるように、複数のラインをつなぎ合わせて自己とみるからこそ見える深い洞察があること。

あまりに深い洞察ゆえに、見逃すことは決してできない。

このような点において、自己という領域を捉えることの価値を感じている。

ゆえに、キーガンやスザンヌの理論をまったくもってないがしろにしてはいないし、むしろ発達理論の中で最重要な理論だと思っている。

ただ、それらはあくまで複数のラインを総称して定義したものに過ぎないために、実務として活用する際は、レクティカのように個別具体に細分化されたサブスキルまで特定して実践すべきであると考えている。

2021年11月9日の日記より

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