C1グランプリを終えて、私に内在する好奇心と恐怖#239
時刻は23:30。
さて、C1グランプリが随分前のことのように感じるが、私の中で感じたことを忘れぬうちに綴っておきたい。
C1グランプリに対すること
まずは、C1グランプリというものが、どのようなものであっただろうか。
これは総論、各論含めて、あらゆる観点で賛否両論あるだろう。
それは、一人ひとりに、その感情の奥にある、あなたなりに大切にしたい価値観、願いがあるからである。
ゆえに、C1グランプリそのもの自体には、多様な側面があるのである。
たとえば、それは林健太郎さんが冒頭述べたように
・コーチングそのものがもつ性質として、閉じたものという前提を覆し、開かれたものをつくること、社会により浸透していくこと。
・コーチ自身のPRになる場になること
という面もあれば、
私があの時コメントさせていただいたように、
・審査のあまりの難しさに、うまさを競う以上に、コーチングそのものの素晴らしさや
・オリンピックをみるかのごとく、人(クライアント)が懸命に生きる姿の美しさを感じる
といった面もある。
これら以外にも多面的、多層的に様々なことが言えることであろう。
それを踏まえて、各々に、あなたのその感情の奥にある願いに耳をかたむけながら、C1をどう捉え、コーチングにどう向き合うか、自分なりに、人生のタイミングとともに生きていけばいいのだと思う。
コーチングに対する思い
では、私個人にとっては、C1を経験することで、どのような感情や問いと向き合っていたのだろうか。
あの場で私がコメントしたことだが、
私自身も他の方のセッションを見ながら、自分が審査員だったらとみており、これをどのような基準でどう評価すればいいのか、ものすごく難しく感じた。
まず前提として、コーチングはクライアントと2人で作り上げるものゆえに、純粋にコーチのみの働きかけを見ることが非常に難しい。
そして、こういった競技には、順番ごとによって場の空気感というものも流れ、審査はそれにも少なからず影響を受ける。
審査員は、本質的にどこまでいっても自分の主観を取り除くことはできないのだが、なるべく客観的にみて評価せねばならぬ役割がある。
ゆえに、審査員というものはものすごく高度な役割を求められている。
どの方も多様な面があり、素晴らしいというような相対主義的な思想があればなおのこと審査員を苦しめるだろう。
私個人も、自分がコーチだったらこうする、自分が審査員だったらこう評価する、と思うものがある。
だが、それは実に主観を帯びている。
言うまでもないが、私たちは自分の知り得た知識、体得した技法で、この世界を見てしまい、多くのことを省略し、歪曲させて認識してしまっている。
だが、かといって、そういう側面もあるよね、全部正しいよね、という相対主義の思想で終わりたくなく、それを乗り越えたい。
なんとかして、人間のできうる最大限の範囲で、そこに客観性をもたせられないのだろうか。
そんな強い欲求が私にはある。
それに応えるためには一定の心理的な深い洞察と、自己を客体化する力が必要になっており、私は以下の3つの問いに向き合い続ける必要を感じている。
(1)「私が人間という存在をどう捉えているのか」
目の前のクライアントをどう捉えているのか。
自分という人間をどう捉えているのか。など
など
(2)「それに対して自分自身がコーチングというものをどのように捉えているのか」
コーチングやカウンセリングというものがどういうものであるのか。
各手法がどのような思想に基づき、どのような特徴をもっているものか。
今この瞬間においては、どう働きかけるのが良いと思っているのか。
など
(3)「そして、それら捉え方、認識のレンズは、私のどのような志向性や無意識的なバイアスからきているのか」
根底には、自己と他者や世界に対して、どのような認識論的、存在論的に立脚しているのか。
そして私自身は、それを見出すために、統合的な心理療法、統合的なコーチングを何十年かかるのか、探求し続けているわけである。
その思いはより一層強くなった。
好奇心とは別にある、怖さ
とはいうものの、現時点での私は、学びと体験に身を投じながらも、すでに何かしら選り好みをしている。
それはどうも私自身が望んでいることは、統合的な心理療法やコーチングのうちに含まれる、特にトランスパーソナルへの関心、ないしは、実存的な問題への関心が高いのかもしれない。
そう思った際に、ある種の怖さがある。
実存的な問題というものを目の前にした際に、コーチングやカウンセリングというものが、実にちっぽけなものではないか。実に無力ではないか。
これからさらに探求していく中で、それを痛感しそうな気がして怖い。
10年後くらいには、私はもうコーチングやカウンセリングというもの自体からある種の醒めがおき、離れているのかもしれない。
それは今の私が信じているもの、拠り所としているものそのものを喪失することを意味し、生きる意味を根底から喪失させ、私を実存的な危機へといざなうだろう。
そんな怖さがあり、今日の夕方、エールにいる仕事仲間に話をした。
すると、私の中でなんら解決していないものの、寄り添って聴いてくれることで、私の中で少しの安心感が生まれた。
かつて実存的な危機をむかえたとき、友人が精神的な支えになっていたように、どこまでいっても同行二人。
誰かの存在があって、治癒や発達に微力ながらも寄与することは間違いないし、欠かせないものに思う。
こういった根底を覆すような体験を繰り返すことで、人間がもつ意味構築活動そのものの限界を深く理解し、この世というものは、すべてがフィクションでありながらリアリティであるということに体感としてもち、悟りをひらいていくのかもしれない。
そんなことを思う。
2021年8月10日の日記より