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ディルタイの解釈学的循環からくるフォーカシングの体験過程#194

今日は日本フォーカシング協会の年次大会。フォーカシングで日本を代表する池見陽先生のお話を伺った。

池見先生は、フォーカシングの中では実践者でありながらも、非常に理論的な方でもある。今日興味深かったのは、ジェンドリンの体験過程の由来はどこからくるものなのか?というお話。

ジェンドリンは既に亡くなられたが、池見先生は直接学ばれ、オーストラリアへ赴いたりと、ジェンドリンそのものに息づいているものに触れていかれようとされて、池見先生を通じてだが、少し伺えたのが有り難かった。

体験過程のベースにある解釈学的循環

池見先生も、ジェンドリンのベースになっているものはどこなのか。より深い理解のために模索したよう。

ジェンドリンの文献の中ではあまり書かれてない。

しかし、ジェンドリンのとある文献(1976)の中で、「私にとってラディカルなインパクトがあったのはディルタイ」との記述があったらしい。

そして、体験過程の由来は、ディルタイの解釈学的循環からきているとのこと。

解釈学的循環は、理解や解釈にまつわる循環のことで、これ1つとっても深いものがあるのだが、ディルタイは、

「全体の理解は部分の理解に依存し、部分の理解は全体の理解に依存する」

と述べ、つまり何かを解釈するには、全体の理解と部分の理解は、どちらが先でどちらが後とは言えない、循環的な関係にあると言った。

ジェンドリンの体験過程

全体と部分の間のこの関係(解釈学的循環)を、ジェンドリンは、それをカウンセリング時のクライアントの体験として応用した。

体験→表現→理解

これが循環していくことで、全体を理解していく。

ジェンドリン体験過程

本来、体験というのは、言語や概念ではなく、五感を通じたもので、それを言葉で表現すると、その体験の一部しか表現されない。

その表現に対して、自分で言葉にしてみて、「あ〜そうか、こう思っているのか」と理解が起こる。

だが、一部しか表現されていないために、その言葉にしてみたことをヒントに、再び体験(全体)を感じようする。

そして、また新たな言葉にしていく。

クライアントの例をいうと、

「最近は何か不安なんですよ」

とクライアントは不安を経験していて、不安という表現をしている。

クライアントは不安と表現することで追体験しているが、どうもこれで言い切れていない。不安から何かがこぼれ落ちている感覚をもつ。

そして、
「不安というかちょっとイライラしてるんですよ。」
と、今度はイライラを表現して、理解する。

それでも不安やイライラだけじゃない感じもあって、

「俺疲れてるのかな。」
と言ってみて、疲れていると理解する。

一言しゃべるごとに体験、表現、理解が回って、自分の中で何が起きているのかの全体を理解していく。

人間の奥深さたるは、そりゃわからないもので、感情も、喜怒哀楽のどれかではなく、嬉しさもありながら寂しさも入り混じったりと、いくつもの層のようになっている。

ゆえに、言葉にして、何か言葉にならぬ全体を感じ取って、言葉に出すという部分から全体を正確に掴んでいく。

ジェンドリンは、このクライアント側の中で起きていることを見事に表現されている。

セラピスト側の支援

これを前提におくと、セラピスト側は、クライアントは信じるけど、クライアントの言っていることは信じない。

というのも、クライアントはまだ全体を正確に表現できていない。

ゆえに、そのまま受けとめながらも、「どういうことなんだろうか〜」とクライアントの全体を理解しにいこうとする。

何か一緒に追体験するかのごとく、同じ世界を見に行き、クライアントの言葉を、クライアントの言葉のままに返してあげる。

そうすることで、クライアントは、自分で言って理解するだけでなく、セラピスト側に言ってもらって理解がより進む。

そして、それを繰り返すことで、クライアントも自分を理解し始め、セラピストも徐々にクライアントと同じ世界を感じることができるようになっていけば、

今度はセラピストが、まだクライアントが言葉にできていないことを言葉にしてみて、クライアントの理解を進めてみる。

いわばなんでしょう。前半は半歩後ろを歩きながら、徐々に横に並んで、後半は時折、半歩前に歩いてみるみたいな感じだろうか。


池見先生はロジャーズはセラピスト側の態度など、セラピスト側の理論が多いが、ジェンドリンはクライアント側の理論が多いので、両方セットにすると深く理解ができるとおっしゃっていたが、まさにそのように思う。

少しずつ、今理解していることをつなぎ合わせていきたい。

2021年6月26日の日記より

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