古代の薩摩940年 #57

第三部 薩摩と邪馬台国の攻防 倭国の現状
西暦100年前後の倭国は小さな村は大きな村に統合され、、あちこちに王と呼ばれる支配者を持つ国がいくつも現れていた。そのなかでも砂鉄から木炭とフィーゴという送風機の発明でタタラ製鉄と呼ばれる製法を完成し、大量に鉄を造ることに成功した「出雲」(島根県)、朝鮮半島の新羅との関係を深め、成長してきた「吉備」(きび)(岡山県)、漢や朝鮮半島との交易で富をたくわえつつある筑紫(福岡県)、そして水稲耕作の技術と軍事力で統一をめざす邪馬台国=大和(奈良県)が四大強国と呼ばれていた。特に第2代綏靖(すいぜい)、第3代安寧(あんねい)、第4代懿徳(いとく)、第5代孝昭(こうしょう)、第6代孝安(こうあん)の各天皇時代約80年は大乱が長引いていた。特に吉備は出雲とは山の反対側に位置したため、鉄の生産にも成功し、水田耕作も順調に伸びて、今や邪馬台国をおびやかす存在になっていた。邪馬台国側も必死で、軍事力で圧倒しようとしたが、吉備は屈服せず、膠着(こうちゃく)状態にあった。薩摩だけは依然として、徐福の遺言を守り、さらに食料保存計画として梅から梅干しをつくったり、魚介類の塩辛作り、米から餅を作り、戦いの時の携帯用食料の研究もすすんでいた。また、霧島と指宿2ヶ所の温泉を利用した保養地、村対抗の水泳大会、舟競走、隣村までの長距離競馬、池田湖一周徒競走など、楽しい企画も実行に移され、一国だけ平和な豊かな国が静かに、人知れず存在していたのである。
(邪馬台国(畿内説)=大和王権で話は進む。)

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