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谷山神社と高良山、『武王の門』のこと。

南北朝の時代。後醍醐天皇の第八皇子である懐良親王(かねながしんのう)は、十歳にも満たない頃に、「お前、筑紫(九州)を平定してきなさい」と、無茶ぶりされて征西将軍というものに任ぜられた。

任ぜられたはいいものの、とてもそんな力はないわけで、十数名の優れた配下とともに、今の愛媛県の忽那諸島に滞在し、忽那水軍の忽那義範の助けを得ながら成長していった。

そして、御年12歳の頃、忽那島を出て南をめざし、日向灘を南下して佐多岬をめぐり(ずっと難所です)、鹿児島湾に入って、今の鹿児島市南部の谷山に上陸した。

谷山は吉田拓郎の『夏休み』の、あの町です。

で、そこに谷山五郎隆信という島津氏以前から鹿児島に続く武将(谿山郡司)がいて、その居城である谷山城に懐良親王一行を迎え入れ、とにもかくにもそこに「征西府」というものが置かれることになったわけです。

谷山氏は薩摩半島の中部から南部に定着した、薩摩平氏の流れで、源平の戦いを経て頼朝から地頭(のちに守護)に任ぜられた島津氏と対峙していました。

懐良親王のお供は十数名のままであり、谷山隆信がそれなりの勢力をもっていたとしても、「征西府」と呼ぶにはあまりに弱々しいといわなくてはなりません。

そこから、肥後の菊池武光と出会い、九州各地の武将を糾合して、久留米の高良山を拠点に、北朝方6万、南朝方4万がぶつかる「筑後川の戦い(1359)」まで続くことになります。当時の明国からは「日本国王良懐」と認識されていたという資料もあるようです。

12歳の少年が、十数名の供を連れて九州の南端にたどり着き、そこから足利尊氏率いる北朝方と南北朝時代最大の合戦をして勝利し、九州を平定、明国から国王と呼ばれるまでのストーリーがあったわけです。

それに由来して、昭和3年に建立されたのが谷山神社で、御祭神は懐良親王、摂社の千々輪神社に谷山隆信が祀られています。

というようなことを、私は5歳から谷山で育ち、それなりに参拝もしていたのに(家がすぐそばだったので)、北方謙三の『武王の門』を読むまで知らず、谷山を守る、ローカルな神様なんだろうと思っていました。

神社の建立に私財を投じて尽力したのが、松方正義(第四代内閣総理大臣)で、境内にはその功績を彰する石碑が建っていました。松方の両親は谷山の出身ということ。

直接の子孫である同世代の「松方さん」は、今も大磯に住み、一度、居酒屋で飲んだのですが、とてもやんちゃで頭がよく、楽しい方でした。共通の知り合いを通じて紹介していただいたのですが、またお会いできることを楽しみにしています。

で、その谷山神社に、小雨の中、母と参拝しました。

西郷輝彦と同級生で、一緒に路面電車で通学していたという方に声をかけられ、昔話をしました。この方もできることなら、焼酎でも飲みながら、いつまでも語っていたいような方でした。

………………

谷山で育ち、久留米で仕事をした私にはいろいろなじみのある神様です。久留米は、太宰府と対峙する最前線だったわけです。

磐井の乱もそうですが、筑後は、局地的にいえば筑後川は、歴史的に何かがせめぎ合う境界になっているようです。近くの宮の陣という地名は、親王が陣をおいたことから、大刀洗は、戦の後、菊池武光が川で刀の血を洗ったと伝わります。

筑後川合戦の時、高良山には谷山城がありました。矢傷を負った懐良親王は、この谷山城へ運び込まれ、八女の山中で亡くなったと伝えられています。

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