『威風堂々』第一部・第二部完結記念特集」 【歴史奉行通信】第六十九号
こんばんは。伊東潤です。
『歴史奉行通信』
第六十九号をお届けします。
今日は『#威風堂々 幕末佐賀風雲録』の
第一部と第二部終了を記念して、
ロングインタビューを敢行。
大隈重信について語り尽くします。
〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓
1. はじめに
2. 『威風堂々』第一部・第二部完結記念
インタビュー【前編】
3. 『威風堂々』第一部・第二部完結記念
インタビュー【後編】
4. おわりに / Q&Aコーナー / 感想のお願い
5. お知らせ奉行通信
新刊情報 / ブックカバー演出写真大賞 /
その他
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1. はじめに
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いよいよ7月です。
まだまだコロナはくすぶり続けているものの、
町には夏の活気が出てきました。
さて、今回は大隈重信の生涯を描いた
『威風堂々 幕末佐賀風雲録』の
第一部と第二部が完結したことを記念して、ロング・インタビューを掲載したいと思います。
なお本作は、現在も同タイトルで
佐賀新聞に連載中ですが、
12/31までつごう501回での完結を目指しています。
これはcakesでの連載も同じです。
それではインタビューに入っていきます。
聞き手は私が所属しているエージェント、
コルクの武田さんです。
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2. 『威風堂々』第一部・第二部完結記念
インタビュー【前編】
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Q:
『威風堂々 幕末佐賀風雲録』の第一部と第二部の完結おめでとうございます。
伊東:
当初の予定では一年完結で
350話前後ということでしたが、
この5月に佐賀県と佐賀新聞から、
「好評につき、500回までどうか」
というお話をいただき、
「それなら」となった次第です。
本来は第二部終了時点、すなわち
佐賀戦争で完結する予定だったのですが、
いよいよ早稲田大学創設、
そしてそこから少しワープさせ、
大隈の死まで描くことになりました。
Q :
この大作を書こうと思ったきっかけは
何ですか。
伊東:
日本は、世界でも有数の
生産性が低い国だと言われています。
生産性が低い理由は
様々に取り沙汰されていますが、
一概に何が原因とは言い切れません。
ただし生産性の低さが
日本の教育に起因していることは、
論を俟たないと思います。
日本の教育は、令和の今でも
大量生産システムの影響から脱せられず、
横並びを重視し、
個性よりも和を重んじ、
「出る杭は打たれる」ものを
続けています。
つまり日本の教育が
「推進役の育成を怠ってきた」ことに、
今の生産性の低さの原因があるのです。
何事も平等と機会均等を重んじ、
「がむしゃらな推進役」が
頭角を現す余地をなくしてきたのです。
日本人は農耕民族特有の
穏やかな気質からか、
「急進的」という言葉に
拒否反応を示します。
しかし「急進的」な人間が
牽引者とならない限り、
人はいつまでもその場にとどまり続けます。
人とは保守的な生き物だからです。
そんな日本にも、
異常なまでの熱意と生産性で
近代化を推進していった時代がありました。
それが明治初期です。
その時代の代表が大隈重信というわけです。
大隈の生涯を知ることで、
「急進的」という言葉の意味を
肯定的に捉え、
日本の最大の弱点である生産性の低さを
克服していってほしいという願いが、
この作品には込められています。
若い人には
「急進的って悪いことなの」
という疑問を
持っていただきたいのです。
Q :
大隈の誕生から佐賀戦争までを描いてみて、
大隈という人間をどのように捉えましたか。
伊東:
晩年になってからの穏やかな風貌の写真が多く出回っているので、
大隈は寡黙な人格者のように思われがちですが、
若い頃は敵を作ることも
厭わない強引な男でした。
弁舌が立つだけでなく、
頭の回転が速く、企画力はもちろんのこと実行力も伴っていました。
要は仕事ができるんです。
この時代には珍しく、
大隈は目的を達成するための
ロードマップを即座に描き、
それを実行計画に落としていけました。
こうした素養は、
佐賀藩の教育制度の厳しさが
そうさせたのだと思います。
佐賀藩には、
成績の振るわない子弟の
家の家禄を最大半分まで召し上げるという
「文武課業法」という
厳しい定めがありました。
この制度は家老の息子だろうと適用されたので、
少年たちは必死に勉強しました。
ただし大隈は要領もいいので、
コツコツ勉強するわけではなく、
本を買って人に読ませ、
その要約を聞いて自分のものにしていく
というようなことも
平気でやっていました。
根っから要領がいいんです。
また副島種臣や江藤新平には、
頑固一徹で不器用な一面もあるのですが、
大隈は考え方が柔軟で、
相手と妥協を図りながら
自分の思った方向に導こうとします。
それが今でも毀誉褒貶の激しい
人物像に結び付いているのかもしれません。
大隈はその回顧録で調和の大切さを説いており、
薩長出身者たちとの調和によって
近代化を進めていこうとしていたと
分かります。
急進的と調和とは一見矛盾するように思えますが、
それは迅速な目的達成のためには、
調和や妥協も辞さないという
大隈の姿勢を反映しています。
昭和や平成では、
こうした愚直とは正反対な人物像が嫌われていたのですが、
令和の今だからこそ、
受け容れられるのではないでしょうか。
Q :
伊東さんご本人の性格を投影しているのでしょうか。
伊東:
私は大隈ほど頭もよくないし、
要領もよくはありませんが、
似ていることは確かです。
司馬さんが『竜馬がゆく』の坂本龍馬を
「理想の男」として描きましたが、
実は司馬さんご本人が
「こういう男になりたい」という思いを
投影したとも言われています。
私も大隈を「理想の仕事人」
として描きました。
もちろん史実もそうなので、
無理なく描けましたが、
私の思い描くビジネスマンの理想像を
大隈に託しました。
Q :
明治初期における大隈の役割は、
いかなるものだったのでしょうか。
伊東:
明治初期の政府では、
維新三傑(西郷・大久保・木戸)のビジョンを、
佐賀藩出身の実務官僚たちが
実行計画に落としていくという
コンプレメンタリー(補完的)な関係が、
実によく機能しました。
佐賀藩出身者はその教育制度の賜物か、
政策を立案し、
成功までのロードマップを描くのが
実に巧みです。
それゆえ大隈は重宝されていました。
佐賀藩士時代、
大隈は財政の専門家ではなかったのですが、
横須賀造船所の借金返済問題などを機に、
瞬く間に「国家の財政とは何か」を把握し、
維新政府になくてはならない存在と
なっていきます。
多分、彼なら法律でも文教政策でも
工業化でも、うまくやれたと思います。
でも彼が政府財政を専らとし、
つまり大蔵卿となって
辣腕を振るったことで、
明治政府の基盤ができてくるのです。
そうした意味では、天は大隈に
維新三傑以上の重要な役割を
課したのだと分かります。
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3. 『威風堂々』第一部・第二部完結記念
インタビュー【後編】
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Q :
佐賀藩と言えば『葉隠』が有名ですが、大隈も影響されていたのでしょうか。
伊東:
『葉隠』とは、佐賀藩士の山本常朝が江戸時代中期に口述した武士奉公の心構えの書ですが、
主君に対して盲目的な服従を強い、
守旧的な考えを重視していることから、
若い頃の大隈は軽視ないしは
嫌悪していました。
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