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北条氏康と河越の戦い【歴史奉行通信】第八十三号

こんばんは。伊東潤です。

今夜も、歴史奉行通信 第八十三号をお届けします。


〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓


1. はじめにー歴史に残る奇襲戦
「河越の戦い」

2. 「北条氏康と河越の戦い」ー
河越城の縄張り / 河越合戦に至るまでの経緯

3. 「北条氏康と河越の戦い」ー
河越合戦の実際

4. 「北条氏康と河越の戦い」ー
勝敗の分岐点 / 指揮、統率、団結、規律、士気、情報、兵站

5. おわりに / Q&Aコーナー / 感想のお願い

6. お知らせ奉行通信
新刊情報 / ラジオ出演情報


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1. はじめにー歴史に残る奇襲戦
「河越の戦い」

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まだまだ寒い日が続きますね。
緊急事態宣言もさらに延長されました。
なかなか収束を見せないコロナ禍ですが、引き続き気を引き締めていきましょう。


さて今回は、昨年の12月に発売された『北条五代』特集の第三弾として、
「北条氏康と河越の戦い」をお送りします。歴史ファンは必読ですよ。

この戦いは頼山陽の『日本外史』において、桶狭間・厳島両合戦と並び「日本三大奇襲戦」の一つとされた歴史に残る奇襲戦です。
この三つの奇襲戦に共通しているのは、兵力的に劣勢の方が奇襲を仕掛け、しかも奇襲を成功させ、敵将の首まで獲ったという点です。

本稿は、自衛官向け雑誌の「修親」に連載している合戦シリーズの一つを短縮したものです。
本になるのはまだ先ですが、まずは短縮版でお楽しみ下さい。

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2. 「北条氏康と河越の戦い」ー
河越城の縄張り / 河越合戦に至るまでの経緯

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■河越城の縄張り

河越合戦の焦点となるのが河越城だ。
まずはこの城の概要から見ていこう。

入間川の作り出す氾濫原に南以外の三方を守られている河越城は、
比高十メートルほどの舌状台地上にあり、攻め口は南と南西に限られていた。

この河越の台地に太田道真・道灌父子が城を築いたのは、長禄元年(一四五七)と言われる。
その後、北条氏二代当主の氏綱に奪われる天文六年(一五三七)まで八十年余にわたり、
太田家の主君の相模守護職・扇谷上杉氏の本拠となっていた。

その縄張りは全く伝わっていないが、輪郭式平城だったと言われている。
おそらく水堀と空堀が曲輪の間に入り込んだ複雑な構造だったのだろう。
湿地帯の平城や台地城は意外に抗堪性が高く、籠城戦に適している。
小田原合戦で豊臣方の大軍でも落とせなかった忍城などは、その典型だろう。

■河越合戦に至るまでの経緯

天文十四年(1545)八月、今川義元が北条氏の領有する河東地域(富士川以東の駿河国)への侵攻を図ってきた。
今川氏と同盟している武田晴信も、北方から北条領を牽制する。

この危機に際し、北条氏三代当主の氏康は自ら出馬し、今川方を押し返すつもりでいた。
ところが氏康の許に驚くべき知らせが届く。関東管領の山内上杉憲政と扇谷上杉朝定が河越城を包囲したというのだ。
さらに氏康の妹婿にあたる古河公方・足利晴氏までもが敵方として包囲軍に加わり、その総勢は八万に上るという。

山内上杉憲政は河越城の北西二里半の柏原に着陣し、城から一里半ほど西の上戸に先手を置いた。
一方の扇谷上杉朝定は城の一里ほど南の砂久保に陣を布いていた。
また城の東方一里には公方晴氏が、北方二里には岩付城主・太田全鑑(資顕)の弟の資正がいた。

これだけ広域に展開する包囲陣も珍しいが、河越城は沼沢地に囲まれており、城からの脱出ルートが限られているため、これで十分だった。

河越城には城代の北条綱成、援将の大道寺盛昌、さらに北条幻庵以下三千余の兵が籠っているが、
これだけの兵力差があっては、城を打って出るわけにもいかない。
十月下旬、氏康は義元と和談を始める。
その条件は、河東地域を放棄するという一方的な譲歩だった。
だがこの思い切った譲歩によって、氏康は二方面作戦を回避できた。

義元と和睦を締結した氏康は、十一月初旬に全軍を駿河国から撤退させた。
それでも氏康はすぐに河越に向かわず、情報収集に努めた。
翌天文十五年(1546)三月末頃まで、この膠着状態が続く。

この三カ月余の間、氏康は晴氏に「せめて中立になってくれ」と頼み入ると同時に、
憲政に河越城を明け渡す代わりに城兵の解放を求めている。また岩付城の太田全鑑にも調略を仕掛けていた。

晴氏への呼び掛けは聞き入れてもらえず、城兵の解放は憲政に拒否されたものの、全鑑への調略には成功した。
ここに一筋の光明が見えてきた。

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3. 「北条氏康と河越の戦い」ー
河越合戦の実際

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■河越合戦の実際

天文十五年(1546)四月、満を持して氏康は小田原から河越へと向かった。
江戸城からも兵が出ているのは、江戸から河越への道を遮る形になっていた岩付の太田全鑑への調略が成功したからだろう。

氏康率いる北条氏主力部隊は鎌倉街道上道を通って府中に至った。
しかし、北条方の河越籠城衆は三千にすぎず、これに氏康率いる小田原衆と江戸衆の五千を加えても八千にしかならない。

四月二十日、砂久保の南に着陣した氏康は、公方晴氏に兵を引くよう「詫び言」をやめなかった。
しかし連合軍は「詫び言」に耳を傾けない。
こうした氏康の「詫び言」や開城交渉は敵の油断を誘うためだけではなく、本心からだったのではないか。
少なくとも交渉や調略が行われていることを敵に知らしめ、疑心暗鬼を生じさせようという狙いはあったのかもしれない。

だが氏康は「和戦両様」の構えを解いてはいなかった。
何人もの物見を出して敵の士気や兵糧の枯渇具合を確かめ、決戦の可否を探っていたと思われる。
そして集まってきた情報を吟味した末、氏康は奇襲攻撃を決意する。

以下は軍記物の記載になるが、氏康は夜目にも敵味方が瞬時に識別できるように、
合印として将兵すべてに白い陣羽織を着用させた(和紙でできているものか?)。
また行動を秘匿するため松明や指物の使用を禁じ、敵の首級は取らずに打ち捨てることを命じた。

さらに八千の兵を四つに分割し、突入部隊を三隊だけとし、残り一隊は予備隊として控えさせた。
敵の反撃に備えるというより、最後の決定的場面で使うつもりでいたのだろう。

こうした場合、どこか一点に兵を集中させ、そこを壊滅させる一点集中作戦が有効だ。
不退転の覚悟で出陣してきたわけではない敵は、一つの陣が崩れると瓦解しやすいからだ。

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