試し読み『修羅奔る夜』 第一話


現在徳間書店「読楽」にて連載中!女ねぶた師を描く人間ドラマ『修羅奔る夜』試し読み版です。主人公は東京で派遣社員として働く、工藤紗栄子。何かに熱中し、何かを達成したい。でも毎日は・・。

第一章 ねぶた師の血



 冬の雨が窓を冷たくする。そこに頬を付けていると、その冷気が頭の芯まで冷やしてくれるような気がする。
 オフィス街だからか夜の町は人通りが少ない。時折、通り過ぎる人々も、傘を斜めに差して小走りに駅の方に向かっていく。
 手にしている紙コップの中のコーヒーは、すでに冷たくなっている。それを形ばかりに口に運ぶと、苦みばかりが舌に残った。

 ──家に帰って食事を作り、スマホで動画サイトを少し見てから寝る。そして朝が来て出勤する。


 そんなことを繰り返していくうちに、年だけはどんどん取っていく。食べるために働かなければならないのは分かっているが、それだけの人生では、あまりに味気ない。


 ──だから、ここに来たんじゃない。


 皆はグループに分かれて熱の籠もった議論を続けている。だが紗栄子は、ここに自分の居場所があるとは思えなかった。


「工藤さん、どうしたの」


 突然、声が掛かったので振り向くと、ここに連れてきてくれた島田結衣が立っていた。同じ会社の同僚とはいえ、島田は正社員で紗栄子は派遣社員なので、その間には大きな隔たりがある。だがそれは会社内のことなので、同世代の女性としての隔たりはない。


「ううん、何でもないの。少し頭を冷やしたかっただけ」
「もしかして楽しくないの」
「いいえ、そんなことはないわ」
 紗栄子は、自分でもとびっきりと思える笑みを浮かべた。
「それ本当」
「うん。来てよかったわ。誘ってくれてありがとう」
「それならいいんだけど。こうしたコミュニティは向き不向きがあるでしょ。それで気になって──」
「気にしないで」


 紗栄子は自分のグループに戻ると、皆の話を聞く努力をした。だがそれは、右の耳から左の耳へと抜けていく。
 コミュニティの分科会は「対象となるアーティストをいかにプロデュースしていくか」といった大局的なものから、「イベント企画」といった具体的なものや、「好きな曲は何」といった気楽なものまで多岐に及ぶ。だがそのミュージシャンを知らなかった紗栄子にとって、関心の持てるテーマはない。


 ──やはり駄目だわ。私には向いていない。


 その場は何とか取り繕い、誰にも不快な思いをさせないようにしたが、どうして会費を払ってまで、誰かの仕事を手伝わなければならないのか、紗栄子には理解できなかった。
 今回のテーマは、このコミュニティを主催する会社がプッシュしている若手ミュージシャンを、いかにプロデュースするかというものだが、そうした仕事の経験がない紗栄子には、皆の話に耳を傾けるしかない。
 その時、出入口付近で拍手が聞こえた。どうやらこのコミュニティのキャプテンがやってきたようだ。


「あなたはついているわ。キャプテンが来ることなんてめったにないのよ」
 いつの間にか近くに来ていた島田が、耳元で囁く。
「おっ、やってるな」
 どうやらキャプテンはIT関連の会社を経営していて、その傍ら、このコミュニティを運営しているようだ。
 奇妙な犬の絵が描かれたトレーナーを着たキャプテンは、溶け込むように皆の輪に入っていく。キャプテンは三十半ばという年齢なので、皆も仲間という感覚なのだろう。
 皆がそれぞれの作業の手を休め、椅子を持ってキャプテンの周りに集まる。コミュニティがサロンに変わる瞬間だ。
「皆さん、楽しいですか」というキャプテンの呼び掛けに、皆が「楽しいです」と答える。


 ──すごい同調圧力。


 この雰囲気で「楽しくない」などと答えられる者はいない。
 紗栄子はさほどプライドも高くはないし、消極的な方でもない。だが皆で競うようにいい人ぶるこの雰囲気には、やはり馴染めない。
「クルーの皆さんは会費を払ってここに集まり、自主的に活動をしています。それぞれが居心地のいい居場所を求め、ここに集まってきたはずです。中には、まだ自分の居場所を作れていない方もいらっしゃるのではないかと思いますが、いかがですか」
 キャプテンがクルーたちを見回す。もちろん誰も何とも答えない。このコミュニティでは、主宰者をキャプテン、メンバーをクルーと呼ぶ。
「そうだ。見学者として今日初めて来られた方──」と言いつつ、キャプテンがクルーたちを見回す。
「あっ、そこの方──、紗栄子さんは初めてですね」
 誰もがネームシールを付けているので、名前はすぐに分かる。
「ええ、はい」
 名指しされるとは思ってもみなかったので、紗栄子はどぎまぎした。
「紗栄子さんは居場所が作れましたか」
 ──突然、居場所って言われても。
 だが口は、それとは裏腹なことを言っていた。
「は、はい。作れそうです」
「それはよかった。じゃ、楽しいんですね」
「えっ、はい」
「楽しいは居場所ができる最初の段階です。皆と打ち解けていければ、もっと楽しくなり、気づいた時に居場所ができています」
「居場所って具体的に何ですか」
 つい紗栄子は問うてしまった。
「居心地がよく、安心できる場所のことです」
「それを得られると、どうなるんですか」
 毒を食らわば皿までと思い、紗栄子がさらに突っ込む。皆が不思議そうな顔を見合わせている。これまでキャプテンに、そんなことを聞いた者はいないのだろう。
「分かりました。それを皆で話し合ってみましょうか」
 キャプテンのリードで、クルーたちは配られた付箋に目を落とすと、何かを書き始めた。五分ほどすると、皆書き終わったので、誰かがそれを回収し、ホワイトボードに貼り付けていく。
 それをキャプテンが読み上げていく。


「自分の『好き』を追求する場所」
「安心と自由を両立できる場所」
「生き方の幅を広げてくれる場所」
「自分の能力や創造性を解放する場所」
「幸せになる場所」


 キャプテンが紗栄子の方を見ながら補足する。
「いろんな意見が出ましたね。おそらく一人ひとりが別々の意見を持っているし、一人の中でも複数の意義を見出している人もいるはずです。大半は説明の必要もありませんが、『安心と自由を両立できる場所』については、多少の説明が必要ですね」
 キャプテンによると、人というのは安心と自由を同時に手に入れたがる。だがこの二つは、これまで同時に手に入れることができなかった。すなわち農耕を主体とした社会は村社会と呼ばれる地域コミュニティで、同調圧力が強く自由がない代わりに、圧倒的な安全がもたらす安心があった。
 その一方、高度成長期になって多くの人が都市部に流れ込むことで、村社会は崩壊し、人々は会社という新たなコミュニティを作り出した。村社会に比べたら安全と安心は減ったが、自由度は増した。そのため会社は、年功序列や終身雇用という制度を生み出し、安全と安心を得られるような環境を作っていった。
「ところが実力主義とグローバリズムの進展によって、年功序列や終身雇用といった日本独自の雇用システムは崩壊し、さらに働き方改革によって会社という組織そのものの存在意義が問われているのが昨今なのです。つまりわれわれの自由度は増しても、安全と安心が得られる居場所はなくなりつつあります。それを提供するのがコミュニティです。しかもコミュニティは自由なのです」
 キャプテンは、あたかも時代的要請によってコミュニティが生まれたかのような言い方をした。
 紗栄子にも、コミュニティというものが少し理解できた。もちろんコミュニティを素直に受け容れているクルーたちの顔には笑顔が絶えず、その瞳は輝いている。
 だが何か違和感を覚えるのだ。
 ──これまでの固定観念を捨てなければ。
 何かを否定することはたやすい。人には誇りや固定観念があるからだ。だが否定から入れば、受益者にはなれない。
 ──今まで自分を支えてきたもの、正しいと思ってきたもの、当たり前のこと、そうしたことを入念に洗い出し、捨てるべきは捨てねばならない。だが、それでいいのか。
 その時、キャプテンが笑顔で話し掛けてきた。
「紗栄子さん、どうですか。何となく分かりましたか」
「は、はい」
 紗栄子は戸惑いながらもうなずいた。
「まだ完全には受け容れられていませんよね」
 紗栄子は正直に答えようと思った。
「ええ、その通りです」
「それでいいんです。何もかもすぐに受け容れてしまうなんてできません。人にはそれぞれ守るべきものがあり、誇りもあります。しかし、それが今の時代に通用するものなのか。そこから考え始めねばならないのです」


 その後、キャプテンの話は日本という国のことに移っていった。つまり日本は二十世紀の工業化社会の成功体験を捨てきれないまま、二十一世紀の情報社会に対応していったがために、挽回不能なほどのダメージを受けた。それでもオールドタイプの知識人やジャーナリストたちが、グローバリズムや情報技術の進展を批判し、その否定的意見を、新しい時代に対応しきれていない大衆が受け容れているという現状について、キャプテンは語った。
 キャプテンは言う。
「僕は古いものがすべて悪いとは思わない。日本固有の古い伝統は守っていかねばなりません。しかし新しいトレンドを受け容れることも大切です。それを両立できる人がどんどん生まれてきた時にこそ、日本は新たな旅立ちができるのです」
 万雷の拍手に送られてキャプテンが去っていく。
 時計を見ると、八時半を回っていた。
 司会者役のクルーが「そろそろ終わりです」と告げる。それを合図に皆は、宿題の分担を決めて散会となった。



 コミュニティが終わった後、島田結衣と食事をすることになった。和洋中バラエティに富んだ食事を出す相席居酒屋に入った二人は、カクテルを頼み、食事をしながら話をした。
 相席居酒屋は、女性は食事が無料なのでよく利用する。もちろんいい男が来ることにも多少の期待はあるが、たいていは幻滅するだけなので期待しないようにしている。


「どうだった」
 乾杯をするやいなや、島田が聞いてきた。
「楽しかったよ」
「本当──」
 男に媚びるように、島田が小首をかしげる。
 島田は長身の紗栄子より十センチほど身長が低く、小太りの体形をしており、決して美人とは言えない。だがいつも笑みを浮かべていて愛嬌があるので、男性には人気がある。
「こうした集まりは、とても有意義だと思う」
「じゃ、紗栄子も入ってみる」
 その問いに、紗栄子は沈黙で答えた。
「やっぱり合ってなかったんだ」
「ううん、そんなことない。でも月に五千円払い、月に二度もウイークデーの夜を使い、土日も個人的に会ったりとか、作業したりとか、私にはできないんじゃないかと思って。下手に入って、皆に迷惑をかけるわけにもいかないしね」
「そうね。だから無理には勧めないわ」
 意外にも、島田はコミュニティ活動を強く勧めてこなかった。紗栄子にとって会費の負担が大きいのではないかという忖度が、そこにはあるのだろう。
「結衣はよく続けられるわね」
「私にとって、あそこだけが寄る辺なのよ」
 島田が「寄る辺」などという、あまり使われない言葉を使ったので、紗栄子は興味を持った。
「結衣には実家に家族もいるし、学生時代からの友だちも多いじゃない。寄る辺ってそういうものじゃないの」
「違うわ。家族はもちろん、学生時代の友だちとも、今となっては価値観を共有できない。つまり何かの目標に向かって一緒に歩めないでしょ」
「結衣は何がしたいの」
「自分が何者か知りたいの。自分が知らない能力を引き出したいっていうか、生きているという実感を掴みたいの」


 ──つまり自己実現ね。


 紗栄子にもその気持ちは分かる。何かに熱中し、何かを達成したいのだ。その中から、自分にもできることや、ほんの少しでも人より優れた一面が見えてくるかもしれない。
「その気持ち、何となく分かるかも」
「でしょう。毎日会社に行って押し付けられた仕事をして、黙って聞いているだけの会議で時間を無駄に使う。こんな生活、うんざりだわ」
 ──でも抜けられない。
 それは紗栄子とて、何ら変わらない。
 紗栄子の毎日は、派遣労働者の典型のようなものだった。
 できる限り外食は控え、お米は一度に焚いてサランラップで冷凍し、三日から四日はそれを食べる。残業が多いのでレトルト食品は欠かせない。メルカリで安い化粧品を購入し、服も買わない。どうしてもドレスアップしなければならない時は、一回三千円〜五千円で服や靴をレンタルできるサイトから借りる。高い服や靴は、めったに使わないのでこれで十分だ。だいいちドレスアップしなければならないイベントなど少なく、そうした時にだけ利用しようと大事にしまっておいても、すぐに流行から取り残されてしまうからだ。
 電車ではスマホゲームか無料の漫画サイト、家ではYouTubeを楽しむくらいで、レンタルDVDを借りることさえしなくなった。
 島田が呟く。
「理想の相手と結婚できて家庭に入っても、それで幸せになれるってわけじゃないしね」
 島田は三十四歳の紗栄子よりも、確か二つか三つは若い。
「でも、それは相手次第じゃない」
「それはそうよ。愛する旦那さんとの間に子供ができて幸せな家庭が作れるかもしれないわ。でもね、自分の可能性と引き換えにするほど、それは価値のあるものなのかしら」
「自分の可能性と言っても、何をすれば、それが見えてくるの」
「それを見つけるためにコミュニティに入っているのよ。そこで何かを見つけたり、素敵な出会いがあったりするかもしれないでしょ」
「やっぱり男か」
「まずは男ね」
 二人が笑った時だった。店員が二人の男性を連れてきた。
「ご同席を希望しておりますが、よろしいですか」
 店員の背後には、二人のサラリーマン風の男が笑みを浮かべて立っている。
 ──しょうがない。
 どう見てもさえない二人だが、話が弾まなかったら、後で店員にチェンジをお願いすればよいので、気にすることでもない。
 島田と視線を合わせると、島田がうなずいた。
「もちろんです」
 紗栄子が何か言う前に、島田がにこやかに応じた。
 その後、芸能界や映画の話題で盛り上がりながら、一時間ほど過ごした後、居酒屋を出ることにした。
 二人が名刺を出してきたが、紗栄子は名刺なんて持っていない。
 一方、島田は名刺を持っているが渡さなかった。二人には「連絡するわ」と言って先に店を出た。

 新宿から京王線に乗って最寄り駅に着いた時は、十時半を過ぎていた。高井戸駅からアパートまでは十五分ほど歩かねばならないが、明るい場所を通るので心配は要らない。


 ──自己実現、か。


 三十四歳という結婚や出産をするにはタイムリミットが迫ってきた紗栄子にとって、自己実現など二の次なのかもしれない。だが、たとえ結婚と出産ができても、そのまま旦那と子供の世話に明け暮れ、年を重ねてしまっていいのかとも思う。
 紗栄子の場合、短大卒だからかもしれないが、周りにいた友人と自己実現の話などしたことはなかった。だが四年制大学を出ているからか、島田は普段から友人とそうした話をしているようだ。
 ──私たち派遣労働者とは違う価値観で生きているんだわ。
「意識高い系」という言葉をよく耳にするが、確かにこの世に生を受けたからには、自分の能力や創造性を引き出したい。もちろんそれには生活の安定が必須だが、今の安月給では生活するだけでせいいっぱいだ。それが少し余裕のある島田との違いなのかもしれない。
 ──そもそも、私に何ができるの。
 これまで自己実現など考えてもいなかった紗栄子にとって、のめり込むほどの趣味はないし、何かをやりたいという衝動も意欲もない。
「だからコミュニティでそれを見つけるの」
 島田だったら、そう言うに違いない。
 だけどコミュニティで、その何かが見つかるわけではない。だが多くの人と接する中で、何かを見つけられるかもしれない。
 ──少し考えてみよう。
 それにしても月に五千円余の会費は、あまりに重い。
 いろいろ考えているうちに、マンションに着いていた。
 入口にある郵便受けから郵便の束を取り出す。大半は用のないチラシばかりだが、たまに近くのスーパーのセール情報やピザ屋の割引券が付いているので、チェックは欠かせない。
 それを片手に部屋に入り、椅子に座ると、どっと疲れが出た。初対面の人ばかりで無理に作り笑いを浮かべていたので、精神的に疲れたのだろう。
 リモートで風呂の湯を沸かそうと思ったが、今朝は急いでいたので、バスタブを洗っていないことに気づき、スイッチから手を放した。
 すぐに立ち上がる気も起らず、なんとはなしにチラシ類をめくっていると、手紙が挟まっていた。差出人は母の芳江だった。
 ──あっ、どうしたのかしら。
 いつもなら電話を掛けてくるのだが、あらたまって手紙というのが不可解だ。
 胸騒ぎがして慌てて封を切ると、何枚かの便箋に懐かしい母の字が綴られていた。
 長い前置きの後、電話では話しにくいので手紙にしたとあり、その後に用件が続いていた。それを読んだ時、紗栄子は愕然とした。


 ──兄っちゃが!


 慌てて実家に電話を掛けると、母はすぐに出た。
「ああ、紗栄ちゃん、手紙さ届いたんだか」
「んだ。兄っちゃが病気ってどういうことさ」
「電話だと、どしても話しにぐくて。手紙さした」
 母の声が沈む。母の芳江は六十九歳になったばかりだが、父の幹久を四十代で亡くし、その後は女手一つで二人の子を育ててきた。
「どういうことさ」
「実は、春馬が病院さ行っだらね」
 それでも芳江は話しにくそうにしている。
 兄の春馬は紗栄子の二つ年上なので、三十六歳になる。すでに結婚して子供も一人いる。
「病院さ行って、何て言われだ」
 紗栄子は次の言葉を聞くのが怖かったが、そんなことを言っている場合ではない。
「どうやら頭の中さ影があるらしいのさ」
「影って何」
 その時、背後で何かざわめきが起こると、「私が代わります」という声がした。
「香澄です」
 代わって電話に出たのは、春馬の嫁の香澄だった。
「あっ、香澄さん、いったいどうすた」
「うん、それがさ、どうやら春馬さ脳腫瘍があるらしいの」
「脳腫瘍って──」
 紗栄子が絶句する。
「春頃から頭痛がする言い出して、最初はアスピリンさ飲んでだけど、治まらんので、夏が終わって青森市民病院さ行っだら、腫瘍があるって先生が言うのさ」
「そ、そえで兄っちゃは──」
「今は畳さ編んでるわ」
 春馬は畳職人をしている。
「そっだらごとして大丈夫なの」
「うん。私はやめてけと言ったんだば、本人がきりのいいとこまでやりてえって言うのさ」
 香澄が苦しげな声で言う。
「そえで、脳腫瘍は命さかかわるほどのことなの」
 しばらく沈黙があった後、絞り出すような声が聞こえた。
「お医者さんが言うには、悪性だった場合、手術で腫瘍を取り除いても再発の可能性が高いで、どんき生きられっが分がらんて」
 電話を通して香澄の嗚咽が聞こえる。
「香澄さん、すっかりすて」
 それは自分への言葉でもあった。じんわりと背に汗が浮かんできているのが分かる。動悸も速まってきており、口の中も乾いてきている。
 ──しっかりしなさい。兄っちゃは死なない!
 なぜか子供の頃、雪の中でうさぎを追い回した記憶がよみがえってきた。ただそれだけのことなのだが、初春の陽光を浴びた春馬の顔は輝いていた。
 ──あの兄っちゃが死ぬもんか!
 気づくと涙が溢れていた。
「紗栄子さん、大丈夫」
「うん。そえで手術はいつなの」
「一カ月くらい先になりそう。まずは組織を取って悪性か良性か判断し、二回目の手術ですべて取り除ぐらすいの。でもね──」
「何か問題でもあるんだか」
「春馬は手術の日を先さ延ばすだいと言うの」
「どっだごとなの」
 紗栄子が愕然とした。


 ──まさか、ねぶた祭に出るつもりでは。


 それに気づくと同時に、香澄の声がした。
「春馬は、ねぶた祭が終わっでからにすてほすいと言うの」
「兄っちゃは今年のねぶたさ出るつもりなの」
「んだ、本人は出ると言っでる。そえで──」
 香澄が言いにくそうに言う。
「私の言葉は聞く耳持たなんのよ。そえで義母さんと相談し、紗栄子さんから直接自重するように言ってもらうがなど思って」
「もぢろん、それは構わんさ。半年も手術を先に延ばしだら、手遅れさなっですまうわ」
「んだ。市民病院の先生が、すぐにやった方がよいで言っどるし、すぐにやらねと──」
 香澄の嗚咽が聞こえる。
「香澄さん、すっかりすて」
「んだ。そえで──、いづ来てもらえるがな」
「すぐにでも帰るわ」
「仕事、大丈夫なんだか」
「それどころじゃねえべさ」
「んだね。来でくれれば心強いけど。そろそろ、ねぶたの支度さ入ると言うし」
「なすて、こんな時に」
「本人には、本人の思いがあるらすいのよ」
「んだ。すべては帰ってから聞く」
 それで通話を切ったが、すぐに不安になり、再びスマホを手にした。だが電話を掛けたところで、もう新しい情報はないだろう。
 紗栄子は不安を押し殺してスマホを置いた。
 ──私がしっかりしなければ。
 そうは思うものの、不安ばかりが込み上げてくる。
 ──兄っちゃ、死なないで。
 まんじりともしない夜が明け、勤務先に行って事情を話し、派遣会社に連絡を取った。身内の急病ということなので、勤務先も派遣会社も理解を示してくれた。逆にそれは、代わりはいくらでもいるということの証明でもあった。
 三日後、紗栄子は青森空港行きの飛行機に乗っていた。



 青森空港は雪に覆われていた。そんな当たり前のことさえ思い描いていなかった自分が可笑しい。


 ──これまで冬場に帰省することが少なかったからだ。


 青森は北国なので冬は雪に閉ざされる。そのためわざわざ寒いところに戻るのが嫌で、正月に帰省することもなかった。若い頃は、ねぶた祭に合わせて帰っていたが、ここ数年はそれさえもしなくなっていた。思えば三年半ぶりの帰郷になる。
 空港を出て市内行きのバス乗り場に向かっていると、ねぶたのポスターが目に入った。
「青い森の夏燃ゆる」というコピーと共に、深紅と橙色に染められた二つの厳めしい顔がぶつかり合っている。昨年の「ねぶた大賞」受賞作の一部をモチーフにしたものだ。二つの顔の下には「青森ねぶた祭」と書かれた金箔の題字が躍り、青森港の夜景写真が下方に配されている。
 ──帰ってきたのね。
 ほかの地方空港と大差ない青森空港の中で、そのポスターだけが存在感を主張していた。
 ──青森はねぶたの町。
 ねぶた祭という祝祭があるからこそ、青森は自らの立ち位置を確かめられるのだ。
 ──もしも、ねぶた祭がなかったら、この町はどうなっていたの。
 どこの地方都市も過疎化が進み、ひどくさびれている。青森とて、それは例外ではない。だが、ねぶた祭の時だけ、各地に散った同郷人が戻り、青森はかつての活気を取り戻す。
 ──たった一週間の熱狂、か。
 それが一週間という短いものだからこそ、人々は燃え尽きるまで踊り狂うのだ。
 耳奥からねぶた祭特有の掛け声が聞こえてくる。
 ──ラッセラー、ラッセラー!
 それは笛や太鼓の囃子に乗せられ、人々を狂乱の坩堝へと誘い込む。
 ──この町には、それしかないのだ。
 われに返った紗栄子は、バス停に向かった。
 市内行きのバスに乗ると、しばらくの間、白一色の田園風景が続く。それが次第に終わり、市内に入ると、車窓から見える風景は、逆に寂しいものへと変わっていった。商店街はどこもシャッターを下ろし、歩いている人はほとんどいない。店の前の歩道は雪かきがされておらず、どこも積もるに任せている。
 ──まるで生きている人がいないよう。
 かつては積雪の多い冬でも、商店街の人々は力を合わせて雪をかき、お客さんが歩きやすいようにしていた。だが郊外型量販店の進出により、商店街から客足は遠のき、それに追い打ちをかけるように、商店街全体に高齢化の波が押し寄せたことで、大半の店が閉店を余儀なくされた。
 ──このまま行けば、ねぶたの時だけ人が集まる町になってしまう。
 真夏の一週間だけ、廃墟と化した青森市街に人が集まってくるというのも、シュールな感じがして悪くない。
 本町一丁目のバス停を下りて、しばらく歩くと実家が見えてきた。この辺りは青森市で最も賑やかな地域であり、この季節を除けば、飲食店が遅くまで営業している。だが今は、雪に埋没するかのように、どの店も沈黙に支配されている。
「工藤畳店」という看板の上にも雪が積もり、字がほとんど見えない。だが今となっては、看板を見て畳屋だと認識し、畳を注文してくる客などいないので、どうでもいいのだろう。
 父の代から、「工藤畳店」は既存の地域人脈だけで商売している上、年々、畳の需要は減ってきており、一人で十分に注文をこなせた。
「ただいま」
 入口を開けると、春馬が仕事をしていた。畳の心地よい匂いが鼻腔に広がる。懐かしい実家の匂いだ。
「兄っちゃ」
 言葉が続かない。
 眼鏡を外した春馬が、目をしばたたかせながら焦点を合わせている。
「紗栄子、か」
「どすたの。まさが見えんの」
 挨拶もせずに紗栄子が問う。
「見えにぐいだげだ。腫瘍が視神経を圧迫しておるんだと。腫瘍ば取り除けば、まだ見えるようになる」
 これまで目がいいのが自慢で、誰よりも遠くまで見通せることを自慢にしていた春馬が、まさか眼鏡を掛けるとは思わなかった。
「体の方は大丈夫なんだが」
 春馬の近くまで行くと、青畳の匂いと懐かしい兄の体臭が漂ってきた。
「ああ、頭以外は心配要らん」
「でも、なすて仕事なんでする」
「仕掛がりのものだけだ。まだ手え付げとらん注文の大半は隣町の畳屋さ回した」
 その時、廊下を走る音がすると、框に小さな姿が見えた。
「おばちゃん!」
「あっ、杏ちゃん」
 裸足のまま土間に下りた杏が、飛び上がるようにして紗栄子に抱き着く。
「帰ってきたの」
「そんだよ。おばちゃん、杏ちゃんに会いだかったよ」
「杏もだよ」
 紗栄子が杏を強く抱き締める。
 杏は春馬と香澄の一粒種で四歳になる。
 奥から香澄と芳江もやってきた。
「ただいま!」
 紗栄子が元気よく言うと、二人が満面に笑みを浮かべ、「お帰んなさい」と言ってくれた。

 にぎやかな夕飯が終わると、気まずい沈黙が訪れた。だが避けて通るわけにはいかない。
 ちょうど杏を寝かしつけた香澄も戻ってきた。それと入れ替わるように、芳江が「洗い物をしてくるわ」と言って席を立った。自分がいない方がよいと思ったのだろう。
「兄っちゃ、順を追って説明すてけろ」
「何だ、聞いでねのが」と応じつつ、春馬がポケットを探る。
「煙草はもうやめたんでねえの」
 香澄の声に、春馬が無言でうなずく。
「去年の春頃から頭痛さひどくなっでね。歩行時にめまいもするし、物がダブっで見えるごともある。手足さ痺れも出てきた。したばって去年のねぶた祭は乗りぎったが、その後に堪えぎれねほどになって病院さ行っただ」
 昨年のねぶた祭で、春馬のねぶたは市長賞を取った。市長賞は「ねぶた大賞」「知事賞」に次ぐ三位で、選考の対象となる大型ねぶた二十二台の中で三位という成績は、たいへんな栄誉だ。
 その知らせを芳江からの電話で聞いた紗栄子は、飛び上がらんばかりに喜んだ。だが電話を代わった春馬は、「選考方法がおかしい」と文句をつけ、「翌年は大賞を取る」と宣言していた。ところが紗栄子には言わないだけで、その間も、病魔は進んでいたのだ。
 香澄が話を引き取る。
「市民病院でMRI検査すて、脳腫瘍と分かっだのさ。もう頭が真っ白になっぢまって──」
 香澄が口に手を当てる。
「まだ死ぬと決まっだわげでね」
 春馬が平然と言う。
「まずは良性か悪性か、検査のために組織を取るんだべ」
「んだ、そう聞いどるけど、開頭手術になるでたいへんはたいへんだ」
「なすて。そんだ大げさなごとばするんだ」
「生検術といって腫瘍の組織を取るんだが、場所が深いんで、開頭した方がやりやすいど言われた」
 それが市民病院の判断なのかもしれないが、香澄は内視鏡手術の進んでいる東京の大学病院に、春馬を連れていきたかった。
「兄っちゃ、せっかくの機会だで東京の病院さ行っでみねえが。今はセカンド・オピニオンの時代さ言うだろ。市民病院の先生が気ば悪ぐすることもねよ」
 春馬が首を左右に振る。
「いんや、手術はこごで受げる」
「ちっと待っで。東京には脳腫瘍の手術が得意な病院もあるだべ」
 紗栄子は、そこまで調べてこなかったことを悔いた。
 香澄がおずおずと言う。
「ねえ、あなた、紗栄子さんの言うごとにも耳ば傾げて」
「いんだ。わいはこごさ離れねえ」
「まさか兄っちゃは、今年のねぶたさ出るづもりか」
 春馬が弄んでいた茶碗を強く置くと言った。
「そんだ。出る」
 即座に香澄が言う。
「それは無理だべ」
「おめは黙ってろ」
 気分を害したのか、「義母さんば手伝っでくる」と言うと、香澄が席を立った。
 これで居間には、紗栄子と春馬だけになった。
「兄っちゃのねぶたへの思いは知ってら。すたばって今年は休むべよ」
「いんや、休むづもりはねえ」
「この時期なら、運行団体さんも了解すてぐれるさ」
 春馬は、「青森県ねぶた振興会」という地元企業団体のねぶたを請け負っていた。人気のあるねぶた師は、多い者で三台のねぶたを請け負うが、春馬は実績に乏しいことから、まだ一台しか担当できなかった。
「いや、もう断る時期は過ぎだ。期待もさいでら」
「そっだごとねえ。やりたい人はたくさんおるし」
 ねぶた師は食べていくのがたいへんな職業だが、意外にも、ねぶた師になりたい若者は山ほどいる。彼らは「台持ち」のねぶた師に付いて修業を積み、そのうち実績を買われて運行団体から声が掛かったり、師匠から台を譲られたりする。少し前までは「食べていけない」ことから、ねぶた師になりたい若者など少なく、ねぶた制作の将来さえ危ぶまれていた。だが今は、「やりたいことをやる」ために、若者たちが集まってきていた。彼らは親の脛をかじっているのか、稼ぐことに興味がないのか、賃金などにこだわらず、ねぶた作りに精を出している。それを知る運行団体は年々、制作費を削りつつある。
 ちなみにねぶたを作るには、スポンサーにあたる運行団体が必須となる。運行団体は単一の企業か企業グループが中心だが、公的機関や特定の集団が団体となるケースもある。
 運行団体からねぶた師がもらう請負額は四百万円から五百万円台で、ここから材料代、電気関係費用、人件費を払うと、一台当たり百五十万円前後の利益しか残らない。ねぶた師の調査やデッサン(下絵)に要した時間は入れていないので、実質的にはとんとん、想定外のことが起こると、ねぶた師の持ち出しになる。それでも、やりたい者は後を絶たないのだ。
「今の段階で降りたら、振興会さんに迷惑掛がる」
「そんなことねえ。まだ時間あるべ」
 ちなみに四月八日に、ねぶた制作者(ねぶた師)および出品題が決定するので、まだ二カ月半近い猶予がある。遅くともその一カ月ほど前までに、誰か別のねぶた師に仕事を譲れば、春馬は治療に専念できる。
「兄っちゃ、元気になってからけっぱるべ」
「そったらわげにはいがね。いったん誰かさ台渡すたら、もう戻っでごね」
 見習いの多くは虎視眈々と一本立ちを狙っている。いったん誰かに台を譲ってしまえば、戻ってくる可能性は低い。
「そっだごとね。お父ちゃんの時代から、うちと付き合いのある団体さんは多いべ。きっと戻ってぎてぐれる」
 項星というねぶた師号を持つ父の幹久は、三年連続で「ねぶた大賞」を受賞し、名人位をもらうほどの指折りのねぶた師だった。最盛期で三台ものねぶたを受け持っていた幹久だったが、急死すると、春馬にはどの団体からも声は掛からなかった。父の下で修業を積んできていたものの、十代だったので当たり前だった。
 そのため春馬は中学を卒業し、十年の間、畳職人として仕事に専念し、二十五歳の時、成田鯨舟という父の弟子だったねぶた師の下で七年も働いた。そして三年前、ようやく鯨舟から譲られる形で、青森ねぶた振興会の台を請け負うことができた。
「他人さ台渡してだまるが!」
 春馬が強い口調で言う。
 ──確かに、いったん渡してしまえば、もう台は戻ってこないかもしれない。
 春馬が快復し、復帰しようとしても依頼してくる運行団体がなければ、ねぶたを作るわけにはいかない。再び誰かの下に付くことはできるかもしれないが、その時のモチベーションの低下はいかんともし難いだろう。
 しかも参加団体の数も最盛期の二十五団体から二十二団体にまで減ってしまい、過当競争は激しくなってきている。
 そうした中、「渡したくない」という春馬の気持ちも、よく分かる。
「兄っちゃ、振興会さんは、そっだら冷だぐね」
「してもさ、万が一代理の者が作ったねぶたが入賞すだら、運行団体だって、そいつを切れねぐなる」
 入賞は五位までで、一位がねぶた大賞(平成六年まで田村麿賞)、二位が知事賞、三位が市長賞、四位が商工会議所会頭賞、五位が観光コンベンション協会会長賞となる。これらはねぶたそのものの配点が六割で、残るは囃子や運行などで決まる。そのため、ねぶただけを評価する最優秀制作者賞が設けられていた。
「兄っちゃなら、一年ぐらい休んでも大丈夫だ。振興会さんがだめでも、きっとどこがが依頼すてくる」
「そったらごとはあてんならね。小笠原さんのことは知ってらはずだ」
「そっだごとば聞いだが──」
 小笠原巌流というねぶた師は、大賞を取ったことはないものの、知事賞と市長賞を二回ずつ取ったことのある名人級のねぶた師だった。ところが病気で一年間休んだことで、二つ持っていた運行団体を失った。小笠原はねぶた師として円熟の境地に達していたので、ねぶた師仲間は惜しんだが、台を譲る者はいなかった。
「ああはなりだくね」
 失意の小笠原は、酒を飲んではねぶた制作中の現場に足を踏み入れ、何度もトラブルを起こしていた。一度でも大賞を取っていれば、名人位をもらえずとも、それなりの扱いを受けていたと思うと、かすかな差によって失われたものの大きさに愕然とする。
 結局、小笠原はアル中同然の状態になり、引退を余儀なくされた。風の噂では、「一度でいはんで大賞ば取りだがった」と言っては酒を飲んでいるという。
「ばって小笠原さんは六十過ぎだべ。兄っちゃはまだ三十代。こいから、なんぼでもチャンスはある」
「そっだらごたねえ。去年三位に入り、今年が勝負の年さ」
 ねぶた師とは不思議なもので、上昇気流に乗った時に一気に大賞を取らないと、次第に下降線をたどり、五位内にも入れなくなる。これは、ねぶた師の問題というより、選考基準があいまいで点数の付け方も個々の選考委員に任されているため、多分に前年の成績や雰囲気で選ぶ傾向が強いからだ。
「そんだとしても、兄っちゃは病気だ。今年ばあぎらめて、すぐに手術を受げるべきさ。もぢろん市民病院でいはんで」
「いや、秋まで手術は受げね」
「待ってけ。脳腫瘍は癌だ。癌は転移さするもんだ」
「そっだらごたねえ。おめは脳腫瘍について知らんから、そう言えるさ」
 春馬が説明する。
「わいの場合、原発性脳腫瘍といって、ほがから転移してきた転移性脳腫瘍と違って、ほがの部位に転移するごとはあまりね。しかも半数が良性だから、良性の診断が下れば、脳にある腫瘍ば取り去るごとで快癒する」
「ちと待ってけ。もすも悪性だったらどうするのさ。家族のごとも考え、すぐにでも手術すねばいがん」
 春馬が苦しげな顔をする。確かに家族のことを考えれば、手術を先延ばしする危険は冒したくないに決まっている。
「わいは勝負すたいんだ」
「なすて、そごまで頑固になる」
「親父の言葉ば覚えどるか」
「どの言葉よ」
「ねぶたの輝ぎは一瞬どいう言葉だ」
 ねぶた祭が終わると、ほんの一部のねぶたを除き、大賞を取ったものでも破棄される。かつて幹久は、自らが大賞を取ったねぶたを壊すところに、小学生の春馬と紗栄子を連れていった。
 その時、「壊さねで」と泣く二人に、幹久は言った。
「ねぶたの輝ぎは一瞬だ。そいだから価値がある。ねぶたを壊すた時、ねぶたさ人々の記憶さ刻み込まれ、ずっと忘れらんなぐなる」
 むろん一介の畳職人の幹久が、こんなうまい言い方をしたわけではない。だが朴訥な口調で話した内容は、こんなことだったと記憶している。
「わいの輝ぎは今だ。なすてか『今年を逃すな』と、父っちゃが言っでる気がすだ」
「それは兄っちゃの思い込みだ。父っちゃも、ぎっと『養生すでからにすろ』と言っでるはずさ」
 春馬が首を左右に振る。
「いや、そんなごと言わん。男の気持ちは、おめには分がらん」
「ばって、ねぶたを完成させるまでのねぶた師の負担は、並大抵でね。そこまで体力や気力が持づんだが」
「引き受げだからは、やるすかね」
「分がだ」
 紗栄子は妥協案を提示した。
「生検術だけはすぐさ受けでな。そいだば、ねぶた祭が終わると同時さ、切除手術に入るべ」
「駄目だ」
「なすて」
「生検術は開頭手術だべ。先生によると、二週間ぐらい安静にすておらねばいげね」
「でも意識さあるはず」
「んだ、手術直後でも話ばでぎると」
「そすたら、誰かが手足となって動げばいいだね」
 春馬が首を左右に振る。
「そんな気の利いた奴ばおらんし、昼夜を分がたぬ作業さなる。ここさ寝泊まりすてもらわねばなんね。だいいち、わいの指示を正しく形にでぎる仲間や弟子はおらね」


「おるよ」


「どこに」


「ここに」


 春馬が大きなため息をついた。



 紗栄子は派遣社員なので、休みを取るも取らないもない。新しい仕事を望まない限り、仕事に就くこともない。一月下旬、東京に戻った紗栄子は、長期にわたって帰省することを念頭に、荷物をまとめ始めた。アパートを解約しようかどうか迷ったが、荷物を実家に送るのも迷惑なので、そのままにしておいた。
 これまで派遣されていた会社に挨拶に行こうと思ったが、登録している派遣会社から「その必要はなし」と言われたので、やめにした。お世話になった方々にはメールでお詫びした。
 しかし個人的に仲よくしている島田にだけは連絡し、会社が終わってからカフェで会うことにした。
 待ち合わせ場所のカフェに先に入っていると、雨が降ってきた。


 ──東京はいつも雨。


 東京に雨が降る時は、おそらく北関東以北は雪になっている。青森にも深々と雪が積もっているに違いない。


 ──兄っちゃ、どうして脳腫瘍なんかになったの。


 紗栄子にとって、兄はいつも輝かしい存在だった。小さい頃から運動神経が抜群で、運動会のかけっこは常に一番。逆上がりも小学校に入る前からできた。中学校では野球部に入り、青森県のベスト8まで進んだ。そのため野球の強い高校に特待生待遇で入ることが決まっていた。だがその矢先、父が五十歳を直前にして病に倒れ、帰らぬ人となった。そのため兄は家計を助けるべく、中学を出るや畳職人になった。父親の築いてきた顧客が流れてしまうのを防ぐために致し方ない選択だった。紗栄子が短大に入れたのも、春馬が高校をあきらめて働き出したお陰だった。
 それから春馬は懸命に十年近く働き、ようやく少し余裕のできた二十五歳の頃、ねぶた作りを手伝い始めた。遅いスタートだったが、春馬はめきめきと腕を上げ、三十六歳の今、トップクラスのねぶた師となっていた。
 ──だからこそ、兄っちゃは今がんばりたいんだわ。
 その気持ちは痛いほど分かる。紗栄子も春馬と共にねぶた師の家で育ったのだから当たり前だ。
 でもその反面、手遅れになるのではないかという心配はある。
 かつて大スターだった松田優作は、ハリウッド進出第一作の『ブラックレイン』撮影中に膀胱癌が見つかった。しかしチャンスを逃したくないがために、手術を撮影後に先延ばしにし、手遅れになったという。
 また小林麻央は長男の出産後、ようやく仕事に復帰し、これからという時、乳癌の兆候があった。だが多忙にかまけて医師の注意に従わなかったことで、癌の進行を早めたと言われている。
 それを思うと、焦りばかりが先に立つ。
 約束の時間から二十分ほど遅れて、島田がやってきた。
「遅れてごめんね」
「ううん、大丈夫。それよりも忙しそうね」
「ええ、私の年齢だと、もうプロジェクトの一つや二つを任されるでしょ。それがたいへんなのよ」
 島田が「やれやれ」といった調子で言う。
「それも期待されているからよ」
「そうね。もう女の子じゃないからね。それなりに責任があり、実績が挙げられなければ、それなりのポジションしか与えられない。コミュニティどころじゃないかもね」
 それでも島田の顔は、心地よい疲労感に満たされていた。
 正社員として責任ある仕事を任せられている島田は、紗栄子にとって眩しい存在だった。
 ──私は、いつまでもコピー取り。
 島田とは対照的に、自分はいつまでも何の変化もない仕事を続けなければならない。短大入学当初は知らなかったが、短大卒はコネでもない限り、正社員になることは難しい。紗栄子も入社試験で何社か落ちた末、致し方なく派遣会社に登録し、とりあえず派遣社員として働き始めたという経緯がある。
 ──だけど、その「とりあえず」を続けていると、正社員になった人とは、とんでもない差をつけられる。
 正社員の島田と派遣社員の紗栄子の間には、隔絶した大きな谷が横たわっていた。紗栄子の場合、今の職場にずっと居られても、責任ある仕事に就くことは生涯ないのだ。自分が四十を過ぎてコピーを取っている姿を想像すると、絶望的な気分になる。
「もう会社に来ないんだってね。突然のことでびっくりしたわ。せっかく仲よくなったのに、みんな残念がっていたわ」
 紗栄子は島田のいる会社に、かれこれ二年半ほど派遣されていたので、島田以外にも親しくなった人はいる。
「ありがとう。でも仕方がないことなのよ。私も寂しいけれど、LINEでつながっているから、いつでも会えるわよ」
 しかしそれが空疎な言葉なのは、互いに知っている。学校時代の友人でもない限り、仕事で知り合った一時的な関係は、次第に軌道から遠ざかっていく彗星のように、交わることは再びない。たとえ飲み会に一、二度誘われたところで、共通の話題も減っていき、そのうち遠い関係になっていくのだ。
 紗栄子がやめる事情を簡単に話す。
「そういうことだったんだ。わたしたちは一身上の都合としか聞かされていなかったんで、何か気を悪くすることでもあったんじゃないかと心配してたのよ」
「ごめんね。全くそういうことじゃないのよ」
「それはよかったけど、お兄さんたいへんね」
「そうなのよ。まだ子供も小さいし──」
「でも、それも運命よ」


 ──運命か。


 島田があまりに安易に運命という言葉を使ったので、紗栄子は内心鼻白んだ。
 ──島田にとっては他人事でしかないのだ。
 だが運命という言葉には、一縷の希望がある気もする。
 ──何事も運命として、受け容れねばならないのかもしれない。
 兄の春馬は、自分の悲運を嘆きはしなかった。少なくとも紗栄子には、運命として受け容れているように思えた。だがそれは運命として受容したというより、「何があっても、男はじたばたするな」と、父から叩き込まれているからに違いない。
「運命なんて言葉を軽々しく使ってごめんね」
 紗栄子が沈黙していたからか、島田が謝ってきた。
「ううん、いいの。今ちょっと運命という言葉の意味を考えていたから」
「生きている限り、運命と考えなければ前に進めないこともあるわ」
 その言葉は、何か経験に裏打ちされているような気がした。
「何かあったの」
「実は、私も中学生の時、小学生の弟を亡くしているの」
「えっ」
 紗栄子は愕然とした。
「弟は生まれた時から心臓が悪かったんで、両親は覚悟していたようだけど、私はどうしてもあきらめきれず泣いたわ。『私が代わりに死にたい』とまで言ったわ。弟は泣きじゃくる私の頭を撫でてくれたわ。そしていよいよ最期が近づいた時──」
 島田が涙を堪えながら続ける。
「薄れていく意識の下で、『お姉ちゃんじゃなくてよかった』と言ったのよ。私はわんわん泣いたわ。でもその時、私は運命を受け容れねばならないと思ったの」
「運命を受け容れる──」
 気づくと紗栄子ももらい泣きをしていた。
「そうよ。病魔は私じゃなくて弟に巣くった。それは運命だったの。ようやく五年経ち、十年経ち、その運命を受け容れられるようになったわ。そしたら弟の分まで懸命に生きねばならないと思ったの。だから仕事に全力投球したし、それでもあきたらなくて、コミュニティにも入ったわ」
 ──そうか。結衣は心の空白を埋めるために、何事にも懸命に取り組んでいたんだ。
 それでも島田の心の空白は埋まらないのだろう。
「そんな生き方をしている結衣に、きっと天国の弟さんも喜んでいるわ」
「いいえ、まだまだよ。きっと弟は、『お姉ちゃんは、もっとがんばれる』って言っているわ」
 ちらりと外の風景が目に入った。ちょうど交差点の前だったので、多くのビジネスマンやOLが傘を差して歩いていた。それぞれ何の感情もないように見えるが、心の奥底に、島田のような悲しみを抱えて生きているのかもしれない。
「最後に結衣と話ができてよかった」
 ハンカチで涙を拭いていた島田が顔を上げる。
「私もよ。お兄さんが快癒することを祈っているわ」
「ありがとう。まだ良性か悪性か分からないけど、どちらに転んでも運命として受け容れ、最善を尽くすつもりよ」
「それがいいわ。人には、それしかできないんだから」
 島田がぼんやりと窓の外を見た。その泣きはらした瞳は、元気だった頃の弟の面影を追っているに違いない。



 いよいよ生検術を来週に控えた日、それまで誰にも見せていなかったデッサン画を、春馬が見せてくれた。
 そこには三面の顔を持つ悪鬼と若々しい美男子が描かれていた。しかも二人は髪を振り乱して戦っている。
「この二人の神は誰だ」
「阿修羅と帝釈天だ」
「阿修羅ってあの阿修羅んごどか」
 阿修羅と言えば、興福寺にある端整な佇まいの少年の姿しか思い浮かばないが、春馬の阿修羅は鬼としか思えない凄まじい形相で、帝釈天と戦っている。それは興福寺のものとは似ても似つかない阿修羅だった。
「おめは興福寺の阿修羅のことをイメージすてたんだべ」
「ほがにあんのか」
「実際は、ごっちの方がスタンダードだ」と言いつつ、春馬がファイルの中からいくつかの写真を見せてくれた。
「こいが三十三間堂の阿修羅。こぢらは無量寿寺のもんだ」
「へえー、こいも阿修羅か」
 これほど恐ろしげな形相の阿修羅像があることを、紗栄子は全く知らなかった。
「この無量寿寺の阿修羅さモチーフにする」
「それがいい。迫力もあるし。ばって、この構図は正面切って戦っていねな」
「そんだ。激戦の果て、阿修羅が劣勢になっだ一瞬を捉えだ」
 確かに阿修羅は、やや半身となって帝釈天から逃れようとしている。
「タイトルは何する」
「『修羅降臨』じゃどうだ」
 阿修羅と修羅は同義になる。
「善と悪の戦いだべ。なすて帝釈天でなぐ、修羅がタイトルなのさ」
「それは、こっだこどだ」
 春馬によると、天界では阿修羅が正義を、帝釈天が力を司っていた。二人は仲がよかったが、帝釈天が阿修羅の娘の舎脂を拉致して凌辱したことで、阿修羅の怒りは爆発する。それを知った帝釈天は、舎脂を正式な妻として迎えると言って許しを請うが、阿修羅は許さず、二人は味方を募って激突する。結局、劣勢となった阿修羅は天界を追われ、人間界と餓鬼界の間に修羅界を作り、そこで争いに明け暮れる日々を送ることになる。
「つまり正義は阿修羅の側さある。ばって阿修羅は相手を許す心を失ったさ。そいだから天部(仏教の神々)は阿修羅を天界から追放した。つまり赦心や慈悲の大切さを説いた挿話さ」
「ばって悪いのは帝釈天なのに。なすて天部たちは阿修羅を追放すた」
「分がらん。だどん、そっだら話になっとら」
 春馬が少し笑う。
「ばって、なすて今の時代に──」
 春馬の声に熱が籠もる。
「現代がネットば中心にすた社会だはんでさ。例えばネット大衆は、目立ちすぎた者や何かに失敗した者、つまり攻撃対象を見つけると、皆で情け容赦なく攻撃すべ。集団で石を投げつけで、自分たちは正義の側にいると確かめ、安心すとる。つまりネット社会は複雑性を嫌い、善悪の二元すかねえ。だはんで、もっと相手を許す心を持たねばならねえと主張すだいんだ」
 春馬の言うことは、紗栄子にもよく分かる。
 ねぶたにはテーマ性も重要だ。それは現代社会の映し鏡であらねばならず、ねぶた師たちは多くの神話、古典、伝説などから、現代社会への警句となり得る話を探してくる。
 ──だけど、このテーマを具現化するのは容易ではない。
 三面六臂(三つの顔に六つの腕)という複雑な体をした阿修羅は身をよじり、大きくデフォルメされた足と拳を突き出し、帝釈天の攻撃を防ぎつつ退却しようとしている。
 一方の帝釈天は、敗勢に陥った阿修羅を捕らえようと、左手を伸ばし、右手で金剛杵を振りかざしている。双方の髪の毛と着物の裾は激しく乱れ、燃え盛る炎が二人を覆っている。
「こいば作るのは無理だ」
 紗栄子が断じる。
 ねぶたの大きさには、幅九メートル、奥行き七メートル、高さ三・一〜三・三メートル(台車含めて五メートル)という基準がある。その中で、これだけのものを造形していくのは無理に思える。
「なすてできね」
「詰め込みすぎとる。こいだば圧迫感強すぎる」
 十年ほど前のねぶたの評価基準は、題材・構図・骨組み・書割(墨書き)・彩色といった技術面が重視され、技術力を駆使して考え難いような形を作り上げたねぶた師が上位の賞を独占していた。しかしここ最近は、技術力より迫力(パワーやエネルギー)・ドラマ性・オリジナリティ・精神性という創造力が決め手となりつつあった。
 また全体をバランスよく調和させるアレンジメント力も問われる。つまりダイナミズムと繊細さを、うまく同居させている作品が評価されるようになった。
「こいだば、空間がねど言いでえのが」
「んだ。空間を作らず、ごちゃごちゃ詰め込んでらはんで奥行ぎが出でいね。父っちゃも、『なんもねどごがあるはんで、あるどごろが生ぎでくる』とか、『いがに作るがでなぐて、いがに作ねがだ』と言っでだ」
「それは分がってら。そえでも空間を感ずさせる演出はでぎる」
 春馬が断言する。
「そいだば、見返りはどうすべ」
 見返りとは、ねぶたの裏面のことだ。
「それはこいだ」
 春馬がファイルから別の絵を取り出した。赤を基調とした表とは対照的に、そこには青い空と白い雲だけの天界が描かれていた。その中央には、何かを心配するように胸の前で手を組む天女の姿がある。
「こいは何さ」
「二人の戦いば心配そうに見ちゅ舎脂の図だ。この時点じゃ、舎脂も戦いの結果ば知ね」
 春馬が、さも愛おしそうに二つの絵を見比べている。
 ──いくつかの難点をクリアすれば、これは傑作になる。
 本能に近い何かが、紗栄子にそれを教える。
「分がだ。こいで行ぐべ」
 紗栄子が思い切るように言うと、春馬が「してやったり」という顔で言った。
「さすが、わいの妹だ」
 だが紗栄子には、別の心配があった。
「こいば作るに、振興会はなんぼ出すの」
 春馬が言いにくそうに言う。
「三百五十万だ」
「えっ、それだば、去年より五十万も少ねえんでねえが」
「そんだ。わいも『何とか昨年並みにしてけれ』と言っだんだが、振興会の理事は『もし無理なんだば、ほか当だります』だと」
「何でごどだ。このねぶた作るには、少なく見積もっても五百五十万、いんや六百万はがかる。兄っちゃの利益なんて出んよ。そえでもいいんだが」
 春馬が唇を噛む。
「仕方ねえさ」
「まさか、予算超えだら持ち出すにすんつもりが」
「それも考えでら」
「いい加減にすてよ。ただでさえ畳の注文減ってらのよ。やりぐりばすてら香澄さんの立場になって考えで。杏ちゃんだって成長すれば、今より銭子がかがる」
「そっだらことは分がっでら!」
 胡坐座りしたまま、春馬が横を向いた。
「いっだいどうするんさ」
「そえでも勝負すたいんだ」
 春馬が肺腑を抉るような声を絞り出す。
「兄っちゃ」
「ねぶた大賞ば取るごどは、わいの夢だ」
 そこまで言われては、返す言葉はない。
 鉛のような沈黙が、狭い居間に漂う。
「分がだ。私にできるごどはする。でも生検術ば受げでから、二週間は絶対安静にするど約束でぎっか」
「んだ、約束すっど」
 春馬が言い切った。


 ──戦いが始まるのね。


 これまで父の下で幾度となくねぶた作りを見てきた紗栄子である。開催当日が近づくにつれて、次第に高まる熱気の中に自分も身を置くことになると思うと、胸底から何かがわき上がってくる。
 ──これが、ねぶた師の血なの。
 それは紗栄子にも分からない。だが「この絵を具現化したい」という衝動が、突き上げるように襲ってくる。
「兄っちゃ、やろう」
「紗栄子、おめ──」
「何が何でも大賞を取ってけるべ」
 春馬が息をのむ。
「おめ、覚悟ば決めだんか」
「んだ。もう阿修羅と一緒に走り抜げるすかね」
「よし、そえでこそわいの妹だ!」
「仏壇に行ごう」
 二人が並んで仏壇に手を合わせる。


 ──父っちゃ、結果はどうなるか分からない。でも兄っちゃに勝負をさせてあげて。
 写真の父は、生前と変わらぬ不愛想な顔で二人を見下ろしていた。



試し読み『修羅奔る夜』 第二話はこちらから



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?