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試し読み『修羅奔る夜』 第二話

現在徳間書店「読楽」にて連載中、女ねぶた師を描く人間ドラマ『修羅奔る夜』試し読み版です。東京で派遣社員として働く工藤紗栄子は、ねぶた師の兄の病気を知って青森へと帰省するーー。


第一章 ねぶた師の血

 

 青森県は本州の北端に位置し、北は津軽海峡、東は太平洋、西は日本海に面しているため、古来、海を渡ってくる文物が多く、一般に想像されている以上に開けた地域だった。
 青森県の沿岸には黒潮や親潮が流れているため、海の幸には事欠かない。だが雪に閉ざされる期間が長く、凶作にも見舞われやすい土地柄のため、お世辞にも住みやすい土地とは言えない。それでも縄文時代から人は住み、農業や交易によって厳しい自然環境を乗り切ってきた。
 津軽平野が控える弘前とは異なり、青森は江戸時代末になって開港した新しい町だ。当初は蝦夷地から送られてくる鰊、昆布、材木などの中継基地として繁栄し、次第に各地から人が集まり、独特の文化を形成していった。
「ねぶた祭」は七夕祭りの「ねむた流し」として、江戸中期に弘前城下で最初の記録が見られる。その後、どのような経緯からか青森にも伝播し、大きな祭りになっていった。
 いつしか青森では七夕祭りという性格は薄くなり、観光資源の一つとして青森市の経済を支える大きな柱となっていった。


 ──それゆえ、ねぶた祭は厳粛な気持ちになることなく、狂ったように舞い踊れる。


 祭りとは「生命の根源的な流露の場」だという。神を迎え、神を芸能で饗応し、神を送るというのが祭りの基本儀礼だが、ねぶた祭の場合、どこかの神社に何かを奉納するといった目的があるわけではなく、ただ笛や太鼓による熱狂のみがある。


 ──だからこそ、人は神を畏れることなく踊り狂えるのだ。


 紗栄子は、ねぶたの造形の最も根元にある「人を熱狂させるねぶた」とは何かを考えていかねばならないと思った。


「何ばすとる」
「えっ」
 居間でぼうっとしていると、突然春馬に声を掛けられた。
「な、に、を、すていますたか。お嬢様」
 春馬がふざけて標準語を使おうとしたが、やはり発音は津軽弁になってしまう。
「スケジュールば引いであっだよ」
「そでね。ぼうっとすていたべ」
「ああ、ねぶたんごど考えでいだ」
「ねぶたん何をさ」
 紗栄子が真顔で言う。
「勝つためのねぶたさ」
「よし」と言って対面に春馬が座る。
「へば、どする」
「作戦ば、いがに立てるがだ」
「作戦だど」
「うん。ねぶた師はねぶた作りにばかり力ば入れる。ばって、そのほがんごどが人任せになる」
「ああ、ねぶた師は、ねぶたんごどだけ考えだがるからな」


 ねぶたの配点には、運行、囃子、跳人といったねぶたの山車に付随するものも含まれる。
 運行とは指揮者の指示に従い、山車を左右前後に動かすことで、呼吸を合わせて自在に動かすことは、相当稽古を積んでいないと難しい。
 囃子とは、笛、太鼓、手振り鉦を使って山車の運行を盛り上げるもので、跳人とは、花笠、たすき、おこし(裾よけ)、足袋といった装束をまとい、独特の掛け声と踊り方で練り歩く者たちのことだ。
 実は、ねぶたそのものの配点は六十パーセントで、運行、囃子、跳人に四十パーセントもの配点がある。そのため、ねぶたそのものは一位でも、総合点で二位以下に甘んじることもしばしばある。
「まだ、そっだ基準なのか」
「うん。制作賞、囃子賞、運行・跳人賞どいった部門賞ばあるで、皆でねぶたの配点を八割ぐらいにしてけろと本部さ申し入れでいるんだが、『ずっどそうすてぎだんで』の一点張りで聞かんのさ」
「兄っちゃんのねぶたば、去年は本体だけなら二位だったべ」
「うん。囃子と跳人の点が少し悪がったかんな」
 設立間もない団体は、どうしても運行、囃子、跳人に手練れがそろわないので、不利は否めない。
「へば、皆を狂わせれば勝でる」
「狂わせるっで、囃子方や跳人をか」
「うん。指導者次第さ」
 その一言に、春馬が考え込む。
「そんだめには、けっぱれる囃子方や跳人がたくさん要る」
「それは次の問題さ。まずは指導者を探さんと。去年はどしたのさ」
 元々春馬は職人なので、何かを作ることには精魂を傾けられる。だが囃子や跳人については、人任せにしがちだ。
「すべて団体に投げどっだ」
 団体とは「青森県ねぶた振興会」のことだ。
「振興会さんは、まだ五年もやっどらんでしょ」
「ああ、四年てどごだな」
「そいじゃ、うまくできんよ」
「でも、仕方なかったのさ」
 紗栄子にいい考えが浮かんだ。
「じゃ、理事さんに会ってくる」
「会ってどうする」
「発注費の増額を頼んでみる」
「ああ、そうすてくれ」
 お金の話も、春馬の得意としないところだ。
 その場から去ろうとする春馬の背に向かって、紗栄子が問う。
「へば、スケジュール管理、資材の手配、資金繰りといっだ制作以外のごどは、誰がやっでくれた」
「みんな理事さんに任すた。だはんで、わしは知らん」
 紗栄子がため息交じりに言う。
「そいじゃ、うまくいぐわげねえ」
「へば、お前がやれっが」
「やるすかないべ」
「すまんな」
 それだけ言って立ち去ろうとした春馬が振り返った。
「そだ、紗栄子、幸三郎も出んの知っどるが」
「うん、去年出だのは知っとるけど、今年も出るんだね」


 ──坂本幸三郎、か。


 紗栄子の脳裏に、楽しかった日々や辛かった日々が克明によみがえる。
「知っどんならいい。奴も大賞狙っどる」
「確か去年は──」
「七位だっだな」
 七位は入賞とはならず、しかも海上運行の栄誉に与れるのは六位までなので、最終日に海上で勇姿を飾ることなく、ねぶたが破壊されるのを待つだけとなる。
 海上運行とは審査結果が出た後の最終日の夜、七夕流しの伝統を受け継ぎ、山車を艀の上に載せて湾内を回らせることで、その美しさは、ねぶた祭のクライマックスを飾るにふさわしいものだ。
「幸三郎さんのねぶたは、出来がいいの」
「わしがとやかく言うことではない」
「ここだけの話じゃっで、兄っちゃんはどう思う」
「分がらん」
 引き戸に手を掛けたまま、春馬が考え込む。
「兄っちゃんでも苦戦するが」
「うん。多分な。みんなの期待も高いさ」
「分がった。性根据えで掛からんとね」
「ああ」
 幾分か小さくなった気がする背を丸めて、春馬が居間を後にした。
 紗栄子は書きかけのスケジュール表に目を落としたが、内容は頭に入ってこない。


 ──幸三郎さんと勝負すっどが。


 紗栄子の心に小さな波紋が起こった。




「青森県ねぶた振興会」の会長を務めるのは、三上板金工業の社長の三上猛だ。
 工場に隣接する事務所に通された紗栄子が、薄くて熱いお茶を喫しながら三上を待っていると、六十歳前後の小柄な男が入ってきた。


「いやー、遅れで申す訳ね」
 明らかに入れ歯と分かる白い歯をせり出した三上は、薄い髪にべったりとポマードが塗られ、その匂いをぷんぷんと漂わせていた。
「とんでもね。こちらこそお時間ば取っていただき、感謝すどります」
「仕事さ息子ば任せてるんでね。心配は要らんのばって、いろいろ付ぎ合いが多くでね。昨晩も遅がったんさ」
 三上が盃を挙げるジェスチャーをした。それがいかにも板に付いているので、相当の酒好きだと分かる。
「それは失礼すますた。手短に済まぜまずから」
「いんや、こぢらがらも話があるんで、ちょうどよがっただ」
「えっ、何のお話だが」
「いえ、そぢらがらどうぞ」
 三上が作り笑いを浮かべて両手を前に差し出す。その仕草がいたく癇に障る。
「分がりますた。兄んごどですが、もう病気んごどばご存じですね」
「ああ、聞いでら。あまりよぐねそうで。どっだら病状なんで」
 三上が気の毒そうな顔をする。病気となると、中高年の関心は異様に高まる。本来なら興味津々といった体の相手に兄の病状を語りたくはないが、三上は出資者の代表なので仕方がない。
「──どいうごどなんです」
「ははあ、そうだっだんだが。今年は魁星先生も難すいな」
「いえ、あの──」
「お気になさらんで、ゆっぐり養生すて下せ。まだ一月末だで、時間ば十分にある。へば、誰にやらすがな──」
 三上が顎に手を当てて考える。
「いえ、そうでねえんです。兄っちゃは今年もやらすでいただきたいと言っでます」
「えっ、ばって動げねえだべ」
 参加することに意義があるという一部の運行団体を除き、一般の運行団体は出台することが目的ではない。やはり出すからには入賞したいと思っている。入賞すれば注目度が高まるので、企業の宣伝にもなるからだ。
「兄っちゃは動げねがもすれねが、指揮ば執れます」
「へば、誰が主体どなっで作業するんだば」
「私です」
 三上が息をのむ。その顔には、ありありと「女にできるのか」と書かれていた。
「そうだが。となるど──、たいへんだね」
「なすてですか」
 つい反抗心が頭をもたげてくる。
「いや、その、おなごがリーダーさ立づどなるど、従わね人も出でぐるんでねがど思いますてね」
「私はあぐまで現場の作業リーダーだで、総指揮者ば兄っちゃのままです」
「でもお兄さんは、指揮執れなぐなる可能性もあるんだべ」
「はい」
「そうだよね。そうなるど台ば出せなぐなるかもすれんね」
「なすてですが。そん時は兄っちゃの意ば汲んで、私が最後まで仕上げます」
 ちょうど運ばれてきた薄くて熱い茶を、三上が音を立ててすする。背筋に虫唾が走ったが、紗栄子は堪えた。
「お嬢さん、ねぶたというのは、そった生易すいもんじゃね」
「分がってます。ばって、やらすでもらいたいんです」
「わんども、魁星さん(春馬)に依頼したがらには全うすてほしい。ばって──」
 三上は笑みを浮かべているが、その瞳は「察してくれ」と訴えていた。
「私が女だからですか」
「いや、そっだわけじゃねえ。でもね、これはおいの一存で決められることでねえんで、次の理事会で皆の意見ば聞いでみます」
 理事会を開いたところで、三上が先頭を切って「断ろう」と言い出すのは目に見えている。
「分がりました。それで最初さ話があるど仰せでしたが──」
「ああ、そうそう。忘れるどごだった」
 そう言いながら、三上は手帳を出してページをめくり始めた。その時にいちいち指先をなめるので、紗栄子は視線を外した。
 三上は、あるページをにらみながら渋い顔をする。
「実は、言いにくいんばって、今年やっでもらうどすたら──」
 それが注文金額についてだと、すぐに察しはついた。
「三百万すか出せなぐなっただよ」
「えっ、そっだごと言われても──」
 紗栄子が息をのむ。
「わんども苦しいんだ。昨年がら景気悪化すてらね。そいで振興会さ加盟すていた企業三社も減り、十四社になっでまっだ」
「待って下さい。私が今日ここさ来たのは、注文金額を四百万円に増額すてほすいというお願いなんです」
「えっ」
 今度は三上が絶句する。
 ──三百万では話にならない。
 紗栄子は頭痛がしてきた。
 三上は再び音を立てて茶をすすると言った。
「こったごどは言いだぐねんだげどね。三百万でも受けでぐれるねぶた師は大勢いるんだよ」
 三上が手札を切ってきた。むろんそれに対する反論は用意できている。
「仰せの通り、若手なら大勢いますね。でも経費さ切り詰めた上、名もない若手じゃ上位に進出するごどもままならないのでは」
「ははあ、お嬢さんもよくご存ずだね」
 ねぶたの審査にはネームバリューが大きく左右される。名人や前年の上位者には、どうしても配点が甘くなり、無名の若手には厳しくなる。それを打破するには、何年かかけて、じわじわと順位を上げていくしかない。春馬の場合も、それで底辺から這い上がってきたのだ。
「さすがに項星の娘ですから、この世界のごどは、よく存ず上げてます」
「ははは、そうですた。だけど項星さんも魁星さんも、金についての駆け引きばすませんでした」
 三上の目の奥が光る。
「私は東京で揉まれてきますたから」
 三上が口辺に冷笑を浮かべる。
「なるほどね」
「春馬、いや魁星なら今年は大賞ば取れるがもすれね。でも三百万で引ぎ受げる若手の場合、また振り出すに戻るごどになります。そえで五年かげで入賞すればよいものの、伸び代がながっだ時は、その五年が無駄になります」
 三上は明らかに不快な顔をしている。だがここで遠慮すれば、三百万で押し切られてしまう。
「ばって、四百万は出せねよ。こっちも制作さ掛がる以外の経費は馬鹿になんねえ。囃子や跳人はボランティアどはいえ、飲み食いはさせねばならねし、衣装代や道具代も掛がる。それらば足すと七百がら八百万になる。わんど中小企業出せる額ではね」
 三上が餌に食いついてきた。紗栄子が待っていた瞬間が訪れたのだ。
「それは分がってます。では、そぢらも任せでいただげますか」
「そぢらもって、どった意味だが」
「つまり、すべて請け負わせていただぎたいんです」
「そったごど言ったって、おめ──」
 ここは押しの一手だと、紗栄子の直感が教える。
「すべて任せでいただぐというごどで、七百五十万ではいかがですか」
 三上があからさまに嫌な顔をする。
「金だげ出せってわげだが」
「そうです。もちろん加盟企業さんから、囃子方や跳人ば出すていただぐごどは大歓迎です」
「ばってな、そっだごど言ったって、酒や飯ば十分さ出さねがなんねえ、皆は不平不満ば言って、来年がらは参加したがらねよ」
「そこは任せで下さい。文句ば出ないようにすます」
 紗栄子が三上に視線を据える。
「仕方ね。分がった。理事会さ諮っでみる」
「ありがとうございます」
 紗栄子は深く頭を下げると、薄くて熱い茶を飲み干し、そそくさと三上板金を後にした。



 

三上板金の帰途、青森観光物産館「アスパム」にある叔母さんの店に顔を出した。帰ってきたことを知らせるためだ。
 紗栄子が夏までいることを告げると、周りにいた人たちを巻き込んで大騒ぎとなった。昔から些細なことを大きくするのが得意な叔母である。電話にすればよかったと悔やんだが、その時は遅かった。持ち切れないぐらいのお土産をもらい、様々な話をされて、ようやく夕方に解放された。
 誰もが最初は「東京はどう」なんて尋ねてくるので、真面目に答えるのだが、聞いてはいないことにすぐに気づく。誰もが他人の話を聞きたいのではなく、子やら孫やら自分の話をしたいのだ。すぐに語り手は相手になり、紗栄子は相槌を打ちつつ、お世辞の一つも言うだけになる。


 ──これが故郷なのだ。


 確かに東京にも嫌なところはある。嫌なことだらけだと思う。でも東京は、あれだけ人がいても孤立している感覚が強い。しかし故郷は、よく言えば持ちつ持たれつ、悪く言えば接近しすぎた人間関係がある。
 アスパムを出た紗栄子は、ぶらりと海沿いまで行ってみた。この日、雪は降っていなかったが、さすがに青森の冬なので、風は冷たい。


 ──ああ、帰ってきたんだ。


 決して東京では味わえない身を切るような寒さに、紗栄子は帰郷の実感がわいてきた。
 しかしあれだけ懐かしかった故郷が、随分と遠くに離れてしまった気もする。同時にあれだけ嫌だった東京が、今では懐かしく思い出される。
 一人佇んでいると、アスパムの方から近づいてくる人影が見えた。
 ──誰だろう。
 一瞬、アスパムの中から差す光が照らしたので、立派な体格の男性だと分かった。
 胸騒ぎがする。
 もちろんそれが誰かは、すぐに分かった。
「よおっ」
 幸三郎がかつてのように陽気に声を掛けてきた。
「帰ってきていると聞いたんで、家に行ったら、アスパムに行っていると言われたんだ」
 いろいろあったので、紗栄子は幸三郎に携帯番号を教えていない。
「そうなんだ」
 それ以外、答えようがない。
「紗栄子と会うのは、何年ぶりだろう」
「三年半ぶりかな」
 幸三郎は小学生の頃、北海道から越してきたので、きれいな標準語を使う。最近の三十代は、互いに青森県出身者でも、あえて標準語で話すことが多くなった。
「もっとじゃない」
「そうかもしれない」
 それで会話は途絶えた。冷たい風がコートの襟を立たせる。
「ねぶたをまだ作っているそうね」
「ああ、やっている。でもプロでは食べていけない」
「そういえば昨年、お父さんがお亡くなりになったと聞いたわ」
「そうなんだ。それで床屋を継ぐことになった」
 幸三郎は高校卒業後、美容師の専門学校に通い、卒業後は父親の理髪店を手伝っていた。
「それはたいへんね。でも仕事と夢を両立できていいじゃない」
「そうだな。ねぶた師としても、昨年、初めて独り立ちできた」
 幸三郎が少し胸を張る。
「それで七位だってね。凄いね」
「いや、まだまだだ」
 幸三郎が照れ笑いを浮かべる。
「今年も出るのね」
「ああ、出るよ。聞いた話だが、紗栄子は兄さんを手伝うんだって」
「ええ、そのつもりよ」
「じゃ、ライバルだな」
 幸三郎が冗談めかして言う。アスパムから漏れる光が、幸三郎の半顔を照らす。
 ──相変わらずのあばた面ね。
 かつては平気で言えた言葉が、今は言えない。それだけ二人の間には、距離ができてしまったのだ。
「覚えているかい」
「何を──」
「夏に二人で八甲田に行っただろう」
 紗栄子の脳裏に、一斉に花が開いたように夏の八甲田の光景が広がる。
「あの時のことは忘れられない」
「私も」
 誰もいない田代平湿原の奥で二人は結ばれた。
「でも、紗栄子は去っていった」
「そうするしかなかったのよ」
「どうしてだ」
「もう、やめて」
 紗栄子が背を向ける。湾内には、煌々と灯りを点けた浚渫船らしき船影が浮かび、ディーゼルを回すような音が波音に交じって小さく聞こえている。
「すまなかった」
「ううん、いいの」
 紗栄子が振り向くと、目の前に幸三郎の広い胸があった。
「もう一度──」
「やめて。何も言わないで」
 その広い胸に顔を埋めると、懐かしい匂いに包まれて、紗栄子の脳裏に過去がよみがえる。
「時間が必要だね」
「ううん。時間をかけても無駄なことよ」
「どうしてだい」
 その問いには答えず、紗栄子は胸から顔を離した。
「まずは、ねぶた祭でしょ」
「えっ、どういうことだい」
「ねぶた祭まで、われわれはライバルでいましょう」
 幸三郎が息をのむような顔をする。
「いいだろう。じゃ、聞くが──」
 その後に続く言葉を、紗栄子は予感した。


「俺が勝ったら嫁に来てくれるか」


 紗栄子に言葉はない。
「俺もねぶたに命を懸けている。だから答えてくれ」
 ──負けたら髪結いの女房か。
 もしも幸三郎のねぶたより、春馬のねぶたが評価されなかったら、紗栄子は生涯、床屋のおかみさんとして、この地にとどまることになる。
 ──私の夢はどうする。
 紗栄子が東京に出た理由は、アニメーターになるという夢があったからだ。幸三郎のプロポーズを受け容れれば、その夢を捨てることになる。
 ──だが、運を天に任せるしかない。
 東京がまた一歩、遠くなった気がする。
「いいわ」
「本当かい」
「ええ、私も覚悟を決めて取り組むつもりよ」
「つまり俺と結婚しないために頑張るというのかい」
 幸三郎が元の陽気な顔に戻った。
「そうよ。私も人生を懸けているわ」
「よし、そうこなくっちゃな!」
 幸三郎が手を打たんばかりに喜ぶ。
「じゃ、送っていくよ」
「私も車だからいいわ」
 紗栄子は兄の車を借りてきていた。
「分かった。夏が終わるまで会わないようにしよう」
「いいわ。それがねぶた師の矜持ね」
「そうだ」
 それだけ言うと、幸三郎は厳しい顔で戻っていった。


 ──あなたもねぶた師なら、私にもねぶた師の熱い血が流れているわ。絶対に負けない。


 振り向くと、青森湾から吹き付ける風が強くなっていた。
 それに抗うように、紗栄子は海際に立ち続けていた。





 二月初旬、「青森県ねぶた振興会」の三上会長から電話があり、「七百万ですべて請け負ってもらえないか」という相談があった。発注金額は希望額より五十万円も減額されたが、それは紗栄子も承知の上だ。金額の母数が大きくなれば、それだけ裁量を利かせる余地ができるからだ。
 いったん電話を切った後、春馬に確認して「任せる」と言われた紗栄子は、折り返し電話をかけて「了承」の旨を伝えた。


 いよいよ春馬が開頭手術を受ける日が近づいてきた。春馬は段取りを紗栄子に任せていたので、とくに何も言わなかったが、早く制作現場に入りたい気持ちは、ひしひしと伝わってきた。
 春馬のことは香澄に任せ、紗栄子は春馬の師匠にあたる成田鯨舟の許を訪れた。

 鯨舟の本業は材木屋なので、家の横には材木置場がある。しかし昔来た時のように材木が林立している風はなく、残っている材木も新木のみずみずしさは失せており、その香りも漂ってこない。おそらく開店休業状態なのだろう。
 鯨舟の家には呼び鈴も何もないので、「すみません」と言って玄関の引き戸を少し開けて声を掛けると、中からおかみさんが出てきた。
「あら、紗栄子ちゃんかい」
 おかみさんは「大ぎぐなったねえ」などと言いながら、鯨舟のいる居間へと案内してくれた。
 鯨舟は、牛乳瓶の底のような眼鏡をずらして紗栄子を迎えてくれた。
「よくぎだ。よくぎだ」
 すでに七十六歳の鯨舟は数年前にねぶた師を引退し、今では弟子たちの小屋に行き、アドバイスすることで、ねぶたとかかわっている。
 通り一遍の挨拶を終え、共通の知人の消息を聞いた後、紗栄子は本題に入った。
「鯨舟先生はねぶた本体だげでなぐ、運行、囃子、跳人の点数も高がったど聞ぎますが、どのようにすていたんですが」
「ああ、そのごどが」
 鯨舟が煙草を出して「いいかい」と問うたので、「構いません」と答えた。
「あの頃は、わすにも友人が多ぐいだんで、皆ば扇動するのに長げだ奴さ頼んだのさ」
「その方は──」
「もう、とっくにあの世へ行っだ」
「そうだったんですね」
 紗栄子は落胆を隠しきれなかった。
「まあ、生ぎでいでも跳人ばやるような若え連中ばまとめ上げるのは難しい。若えもんは若えもんでなければ付いでごねんでな」
「そうがもすれねすね」
 まとめ役は同世代か少し上でないと務まらないのは、紗栄子にも分かる。
「おめや兄っちゃの友達で、皆ば一づの目標さ向がわせるのがうめ人はいねのがね」
「えっ──」
 紗栄子が記憶をまさぐる。


 ──そういえば、東君とか。


 東昇太は高校の同級生で、文化祭や体育祭では常にリーダーシップを発揮していた。
「どうだい」と言いつつ、鯨舟がさもうまそうに煙草を吸う。
「心当だりがねごどもねです」
「そうが。それはよがった。で、わすも暇なんだが──」
「えっ、では、制作面で手助げいただげるんですか」
 鯨舟が笑みを浮かべてため息をつく。
「今日は、その依頼だど思っでだんだが──」
「申す訳ありません。もう引退なさっだんで、ご迷惑になるがど思い──」
「ねぶた師ってのはな、二月頃がら血さ騒いでくる。それば抑えるには、小屋さ通うすかねえ。でもな──」
 鯨舟が遠慮がちに問う。
「お邪魔でねがな」
「とんでもね。とても助がります」
「そいづはよがった」
 鯨舟には鯨舟なりの遠慮があり、自分からは「手伝いたい」とは言えなかったのだ。
「こうすてすっぱり引退して、世捨で人のようになって分がったんだが──」
 鯨舟がしみじみと続ける。
「年寄ってのは嫌なもんだ。いつしか邪魔者扱いされだような感じになる」
「それは気のせいです」
 行き過ぎた忖度は、互いに擦れ違いを生んでしまう。
「つい去年も、わすが譲った台ば引ぎ継いだ弟子んどご顔ば出して、いろいろアドバイスばしたんだが、嫌な顔ばされだ」
「それは本当ですが」
「ああ、その場は『はい、はい』ど言いながらも、『余計なごど言うな』って顔さ書いであった。そいでアドバイスは何も反映されねがった。それから、そいづんとごには行っでね」
「うぢは大歓迎です」
「それは春馬もかい」
 紗栄子が申し訳なさそうに言う。
「分がらねす。でも兄っちゃは、きっと助がると思います」
「だどいいけどな。まあ、行ってみで、少す様子ば見で、居心地悪がっだら手え引ぐどするさ」
「申す訳ね」
 今の紗栄子には、そう答えるしかなかった。

 東昇太の自宅に電話をかけてみたが、とっくに家を出て自立しているという。母親から携帯電話の番号を聞いたが、すでにつながらなくなっていた。
 あきらめかけた時、昇太に妹がいることを思い出した。その同学年の友人が近所にいたので、その友人を通して妹に居場所を聞いてもらった。しかし昇太は基礎工事の型枠職人になり、現場を転々としていて連絡が取れないという。
 それでも今は青森競輪場の補強工事に行っていると聞いたので、翌日、紗栄子はノーアポで行ってみることにした。
 三内丸山遺跡の近くにある青森競輪場は、四月から十月末までしかレースが興行されないので閑散としていた。
 昼になるのを見計らい、何かの施設を造っている現場に行くと、昇太が若者たちに指示を飛ばしていた。
「東君」と声を掛けると、昇太が唖然とした顔で振り向く。
 周りの冷やかしに照れながら、昇太が近づいてきた。
「こったどごろにどうすたんだ」
「話があってぎだの」
「話──」
「とにかぐあっちに行ぐべ」
 周囲の目が気になるので、昇太を促し、競輪場内の食堂のようなところに入った。
 そこで「今日は私のおごりよ」と言うと、ようやく昇太の顔に笑みが広がり、「ごち」と言って舌を出した。
「そえで話って何だい。仲人だったらほがば当だれよ。わいは独身だからな」
「そんな話でねよ」
「どうやら真面目な話らすいな」
 ちょうど食事が運ばれてきたので、昇太はラーメンとチャーハン、紗栄子は鯖煮定食を食べながら話をした。
「実はね──」
 春馬のことを話すと、昇太の顔がみるみる青ざめていった。
「それは本当か。春馬さんには、わいも随分と世話になった」
「喧嘩の助っ人で」
「まあ、そったどごだ。厳密には仲裁さ立ってもらったこどが二度あったな」
 紗栄子がため息をつく。中学までの春馬は暴れ者で、喧嘩も強かった。だが高校に入るとおとなしくなり、よく喧嘩の仲裁をしていた。
「実は春馬が、今年のねぶだ祭さ台ば出すというのよ」
 食べ終わって一服したところで、紗栄子が切り出した。
「大丈夫なのがい」
「ええ、制作は春馬の指示さ従って私がやる。ばって、運行、囃子方、跳人のまとめ役がいなぐで困っでる」
「去年と同ずように、振興会に人ば出すてもらえばいいべさ」
「それがね、去年は業務命令でいやいや出だ人もいだらすくて、散々な出来だったの。そえで随分損すたわ」
「そうだな。ねぶたの採点は本体だげでねえからな」
 そのあたりのことは、昇太もよく知っている。
「そうなのよ。そえで東君に皆をまどめでほすいのよ」
「えっ、わいがリーダーばやれっていうのが」
「うん。土日だげでいっから。お願い」
 紗栄子が手を合わせる。
「ばって、わいは跳人ばやったことはあっけど、リーダーばやったごどはねえ」
「分がっているわ。ばって、あんたならでぎるど思って」
「昔のごどば覚えでいたんだな」
「そうよ。体育祭の応援団長ばやって盛り上げだべな。文化祭ではリングば作ってプロレスの実況中継ばやったわ」
「そうだったな。わんどの組が優勝すたんだったな」
「そうよ。あんたなら皆ば巻ぎ込んで一づにでぎる」
「でもな、あれがら何年も経ってる。今のわいは、ずがねえ労働者さ」
「何を言ってるの。立派さ働いでるじゃない」
 昇太が自嘲的な笑みを浮かべる。
「あの頃は夢も希望もあったさ。わーも未知の未来さ胸ば膨らませでいた。だけど何をしたいというものもながったんで、食っていぐだめに、この道さ足ば踏み入れだ。だが、そえで終わりだ。おいの人生は、せいぜい土建屋の親方だ」
「何ば言っちゅうの。それだって立派なごどよ」
「自分の夢ば追い掛げで、一人で東京さ出でいったおめとは違う。わいにはそった度胸はながった。こごで慣れ親しんだ仲間と一緒に過ごすたがったんだ。でもな──」
 昇太が過去を懐かしむような顔をする。
「高校ば出だでの頃はよがった。皆で金土日と会って仕事の憂さば晴らせださ。でも一人抜げ二人抜げ、さすがのわいも、皆ばまどめで遊び歩くのもつまらねぐなり、そえで終わりさ」
 地方都市でよくあることだが、高校の延長上の人間関係をしばらくは続けられても、数年経つと、それぞれの事情で距離ができてくる。おそらく「このままじゃいけない」と思う者から順に、高校時代の人間関係を脱していくのだろう。そして最後は一人もいなくなる。いかにリーダーシップのある昇太でも、それを防ぐことはできなかったのだ。
「こったごどなら、何も考えずに東京さ出ぢまえばよがった」
「ううん、同ずごどよ。私を見で」
「何ば言っちゅんだ。おめは東京で独り立ぢしたでねが」
「それは違うわ。私は夢だったアニメ関係の仕事さ就げず、仕方なぐフリーランスで働ぎ、無駄さ時間ば過ごすただげよ」
「そうだったのが」
 昇太が考え込む。
「私たちは燃え殻がもすれね。ばって、もう一度、火ば点げでみね」
「火ば点げるだと」
「そうよ。まだ燃えがすが残っでるがもすれんよ」
「なるほどな。燃えがすはよがったな」
 昇太が自嘲的な笑みを浮かべる。
「負げ犬どうしで、まだ燃えられるがどうが試すてみよう」
「そうだな」
 かつてのように昇太の瞳が輝く。


「やってみるが」


「やるべ」


 二人は立ち上がると、どちらともなく手を差し出した。
「よす、やるなら本気だぞ」
「分がってるわ。皆ば狂わせて」
「ああ、存分さ狂わせてやるさ!」
 二人は固い握手を交わした。





 病院に駆けつけると、集中治療室の前で香澄が待っていた。
「終わっだの」
「うん。さっき終わっで、こごさ運び込まれでぎだわ。でも今は面会謝絶なの」
 香澄がハンケチで口元を押さえる。
「今回は生検術だから命さ別状はね。だから心配すないで」
 それでも香澄は息を荒げている。


 ──過呼吸になりかねない。


「香澄さん、大きく息吸って、そいで吐くのよ」
 香澄もそれに気づいたのか、言った通りにしている。
 そこに看護師さんがやってきて、担当の先生からお話があると伝えてきた。
 二人が担当医の部屋に入ると、壁に掛けられたイルミネーターにレントゲン写真がはめられていた。それだけで胸の動悸が速まる。
 胸に神崎と書かれたネームプレートを付けた四十前後の医師は、「どうぞ」と言って二人を椅子に座らせた。
「先生、どうなんですが」という香澄の問いを無視して、神崎が語り始めた。


「通常は病理検査と摘出を同時に行うのですが、工藤春馬さんの場合、腫瘍が深い位置にあるので、病理検査をしてから摘出することにしました。ですので来週の摘出手術までは絶対安静です」
 震える香澄に代わって紗栄子が問う。
「ということは、自宅療養はできないということですね」
「はい。入院していただきます」
 どうやら春馬が聞いてきた話とは違うようだ。
 神崎が続ける。
「こちらが先週撮影したMRIですが、この時点でも、悪性の可能性は高いと申し上げましたが──」
「そ、そんな」
「聞いていなかったのですか」
 紗栄子がうなずいたが、春馬と一緒に話を聞いていたはずの香澄は俯いたまま何も言わない。
「この左のレントゲン写真は別の方のもので、髄膜腫と呼ばれる良性のものです。右側のものが春馬さんの脳の写真になりますが──」
 左右の写真は、素人が見ても明らかに違う。
「こちらは神経膠腫と呼ばれるものです」
「ということは──」
「残念ながら、転移の可能性がある悪性のものです」
 なかば覚悟はしていたが、どん底に落とされたような絶望が広がる。
「今回は組織の一部を採取して簡単な検査を行いました。もちろん精査をしてからでないと結論は出せませんが、今のところは──」
 神崎の顔が緊張する。


「やはり春馬さんの腫瘍は神経膠腫でした」
「ああ」
 いつの間にか紗栄子と手を握り合っていた香澄が泣き崩れる。
 ──しっかりしなきゃ。
 自分だけでも冷静さを失うわけにはいかない。


 ──兄っちゃがいなくなる。


 背後から喪失の恐怖がのしかかってくる。
 突然、紗栄子の脳裏に、初めて作った子供ねぶたをリヤカーに載せて、町内を練り歩いた時の兄の得意げな笑顔が浮かんだ。
 春馬はリヤカーを引き、紗栄子はそれを押した。春馬は「わしのねぶただ!」と喚きながら歩いたので、町内中の人々が家から出てきて口々に褒め上げた。
 額から汗を滴らせた春馬は、得意げに「わしが作った。紗栄子も手伝った」と言っては白い歯を見せた。紗栄子の名も出してくれたことが、その時は喩えようもなくうれしかった。
「工藤さん」
「は、はい」
「よろしいですか」
「えっ」
「今回は、覚醒下手術という言語機能や手足の運動機能に害が残らないように手術します。つまり全身麻酔をかけません。よろしいですね」
「もちろんです」
 手足に麻痺が残ったり、言葉がしゃべれなくなったりするのだけは避けたい。だがそれ以上に、命の危険があるのかを知りたい。
「命に別状はありませんか」
「それは分かりません。脳というのは複雑なもので何とも言えないのです」
「分かりました。では手術がうまくいったら、とりあえず腫瘍は取り除げるのですね」
「いや、脳の健全な部位を傷つけたくないので、取り残しが出てきます」
「きれいには取れないのですか」
「開けてみないと分かりません。しかし取り残しといってもわずかなので、それは術後に放射線や抗癌剤で対処できると思います」
「術後には、命に別状はないのですか」
「リスクはゼロではありません。後遺症についても保証の限りではありません」
 医者としては、そう答えるしかないのだろう。
「転移することはあるんですか」
「それも分かりませんが、今は見えている腫瘍を取り除くことだけを考えるべきです」
「分かりました」
「それで告知ですが、いかがいたしますか」
「えっ」
 紗栄子は、そのことを全く考えていなかった。
「香澄さん、どうする」
 香澄は泣きながら必死に首を振る。
「先生は、どちらの方がよいとお考えですか」
「もちろん告知した方が、病状をご本人に伝えながら術後の治療にもあたれるので、いいと思います」
 紗栄子は迷ったが、医者がそう言うなら、よりよい方を選ぶべきだと思った。
「香澄さん、兄っちゃに伝えよう」
 香澄が顔をくしゃくしゃにしながら、ようやく口を開いた。


「あの人は紗栄子さんが思ってるほど強ぐね。伝えないで」


「うんにゃ、兄っちゃは強い。それは、誰よりも私が知っでる」


 春馬は初めて作ったねぶたが誇らしく、家の前に飾っていた。しかし祭りが近づいたある朝、起きてみると残骸と化していた。春馬に嫉妬した上級生の誰かが壊したに違いない。
 普通なら怒り狂って犯人を捜そうとするところを、春馬は黙って残骸をかき集めた。それを見た紗栄子も泣きながらそれに倣った。
 その後、春馬は大人ねぶたの制作現場に行き、余った材料をもらうなどして、もう一度、自分のねぶたを作り上げた。祭り当日、春馬の子供ねぶたは、誇らしげに青森の町を走り回った。
「兄っちゃは大丈夫。私さ任せて」
「うん、分がった」
 ようやく香澄も了解してくれた。
 神崎医師がうなずく。
「では、告知はお任せします」
 紗栄子が強くうなずいた。

 春馬は、包帯で頭をぐるぐる巻きにして病室に横たわっていた。
「誰だ」
「私よ」
 寝ているかもしれないので、声を掛けずに病室に入ったところ、その気配を感じた春馬から声を掛けてきた。
「香澄はどうしてる」
「待合室にいるわ。少す休んでもらわなくちゃ」
「ねぶたはどうすた」
「今はそのごどば忘れで」
 ようやく春馬も、紗栄子が一人で来た理由を察したようだ。
「先生さ何と言うどっだ」
 その問いには答えず、紗栄子が「水を飲む」と尋ねたが、春馬は首を左右に振った。
「本当のごどば教えでぐれ」
「分がったわ」
 紗栄子が大きく息を吸うと言った。


「悪性だったわ」
 春馬が小さなため息をついた。
「そうだど思った。良性だったら、先生もすぐにそれば告げでぐれる」
「そうね。でも悪性でも切除すれば、命の危険はね」
「転移しなければだろ」
 その通りなので、紗栄子に言葉はない。
「今年さ最後のねぶたになるがもすれんな」
「何ば言うの。病魔なんか、ねぶたが追い払ってくれるわ」
 春馬の顔に笑みが広がる。
「そうだどいんだげどな。で、どうだった」
 紗栄子は振興会の件、鯨舟の件、昇太の件などを手短に話した。
「そうが。着々ど進んでらな」
「うん。心配すでね」
「やはり幸三郎は出るのが」
「出るってさ」
「そうが」
 ねぶたウォッチャーの間でも、幸三郎の評価はうなぎのぼりだった。そうした噂は審査員の耳にも入っているはずで、よほど下手なものを作らない限り、上位進出は間違いない。
「兄っちゃ、大賞ば狙うとすたら手堅い出来ではだめだ」
「そったごどは分がってら。伝統はただ伝えていげばよいわげでね。伝統ば踏まえつつ、いがに新すさば出していくかが鍵だ」
「それが分がってるのに、構図は今のままでいいの」
「ああ、構図の変更さ考えてる」
「ばって、そろそろ構図ば固めねど、何も進められね」
「もう少す待ってくれ」
 そう言われてしまうと、紗栄子に返す言葉はない。
「おめは、すべでをぎりぎりまで進めでおいでぐれ」
「分がったわ」
 紗栄子が病室を出ていこうとすると、その背に声が掛かった。
「紗栄子、父っちゃの言葉ば覚えでるか」
「どの言葉よ」
「『ねぶたは形ば作るんでね。心ば作るんだ』という言葉さ」
「ああ、覚えでら」
 父の幹久は言葉少ない男だった。だがその口から言葉が発せられた時、そのすべてが輝いていた。
「こうすて病室で動げねぐなったごどで、あの言葉の意味がようやぐ分がった。すぐに制作さ入ろうとすっから魂が入らねんだ。心ば落ぢ着げで精神ば統一する。そうすれば自分のねぶたが見えてぐる」
「兄っちゃ──」
 人として、ねぶた師として、春馬は力強く前進していた。
「こうなってすまっだがらごそ、魂の籠もったねぶたば作れる気がすんだ」
「そうだよ、兄っちゃの魂籠もったねぶたなら、皆は夜通す舞い踊る」
「ああ。おいの心ば皆さ見せでやる」
「うん」
 蒲団の上に出された春馬の手が紗栄子の手を探す。それに気づいた紗栄子は、春馬の手を強く握った。
「兄っちゃ、あの子供ねぶたば作った時のように、まだ二人でやるべよ」
「うん、やるべ」
 病室の窓から見える外はすでに漆黒の闇に包まれ、冷たい雪が降り始めていた。だが紗栄子の耳の奥からは、笛や太鼓の音と共に「ラッセラー、ラッセラー」という若者たちの掛け声が響いていた。
(試し読みここまで)

*続きは「読楽」(徳間書店)にてお楽しみください。

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