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我々が肩代わりしている「おもてなし」料

日本の店員の接客能力は世界一であると謳われている。レストランでもデパートでも、一歩店内に入れば、チップを払わなくてもまるでセレブになったかのように「おもてなし」をされる。訪日した外国人観光客はそれに驚くことが多い。サービスはお金で買うもの、という価値観の外国人からしてみれば、何もしなくても心地よいサービスを提供してくれる日本人店員の精神性は意外に映るようだ。

だが当の日本人は、そんな環境下で育っているため、店員から無条件で「おもてなし」されることを「当たり前」だと思っている。態度の悪い店員がいれば、我々日本人はすぐにムッとする。ムッとしないまでも、どこかしら「あの店は何か問題があるんじゃないか」などと違和感を覚える。

一見すると、日本人の「おもてなし」精神は、礼儀をわきまえる国民性から来ているようにも思える。だが、礼儀をわきまえない日本人だって多数いるのを、我々は肌感覚で感じている。だが、なぜか日本人の店員は非常に丁寧で腰が低く、テキパキとしていて、ホスピタリティが高いように感じられる。

その「おもてなし」は本当に無料なのだろうか? そう考えると、「No」と言わざるを得ない。我々は、その「おもてなし」料を知らず知らずのうちに支払っている。それはチップといった目に見える形をしておらず、もっと間接的なものだ。

今日はそんなことについて書いていこうと思う。

私はアメリカに留学していたことがある。留学初日、現地に到着した私は空港を出てタクシーを広い、ホテルに着いて、何か口にしようと近くのハンバーガーチェーン店に立ち寄った。そこでハンバーガーを注文したのだが、私の発音が悪かったらしく、聞き取れなかった店員はふてぶてしく何かを言った。おそらく、日本語に訳したら「は?」だろう。あれはそういう表情だった。そしてなんとか工夫して伝えて待っていると、数分後に店員がまたふてぶてしい顔で何かを言いながら、ハンバーガーの入った袋を投げてよこした。文字通り、投げてよこした。日本のドラマで男子高校生が友人にジュース缶を投げて渡すかのような、見事なまでのスローイングであった。日本語をつけるとしたら、「ほらよ」だろう。

だが私は特段不快には感じなかった。アメリカがそういう国だということも知っていたし、留学初日でドキドキしなからした最初の買い物だったからというのもあるだろう。だが、その前に私は、注文したものさえ食べられれば店員の態度など気にしないタチの人間なのである。

日本にいるときもそうである。店員の態度が悪くてもさほど気にしない。接客がたどたどしくて、「ああ、慣れてないんだな」と思うことはあるが、店員が笑顔でなくても、無造作でも、気が利かなくても、特に気に障らない。料理さえ食べられればどうでもいい。私はそういう人間である。そのため、日本人の店員の接客が、どうも「過剰接客」に見えて仕方ないのだ。

同じように感じている読者も多いだろう。そこまでスマイルでなくても、深々とお辞儀をされなくても、レジ打ちが遅くても、別に構わない、という人はたくさんいるのではなかろうか。むしろ、そちらのほうがマジョリティな気がする。

だが、世の中には一定数の、接客の質を気にする人が存在するようなのだ。そのような人々は「店員の態度が悪いからもう二度とあの店には行かない」と平気で口にする。また、店員の接客の仕方にイラついて、「何をトロトロしてるんだ!」「店長を呼べ!」などとクレーマーに変貌する人さえいる。私の感覚では、年配者に多い。

もちろん、そうした「気にする人」の存在を、日本企業は知っている。接客の質が悪いせいで客が離れたら売上に影響し、またクレーマーは他の客の迷惑になるためできるだけ「産まない」ようにしている。誰が来ても文句のつけようのない接客をするよう、部下の店員たちを教育しているのである。

だが待てよ? その教育費は誰が払っているのだろうか?

私の友人は、学生時代にレストランのウェイターのアルバイトを始めたとき、バスでどこかの研修施設に連れて行かれて、そこで接客技術を学ぶ講習を受けたようである。しかも一回ではなく数回に渡り。それが終わってからようやくアルバイトを始められたというのである。このように、質の良い接客には費用がかかっている。

その研修費用は、当然、店を運営する会社が出しているはずだ。ではその会社のお金がどこから来ているかといえば、我々の財布からである。我々が商品に対して支払ったお金が、会社を経由し、接客の質の向上に使われているのである。当たり前のことだ。

また、店員として配置したら問題を起こしそうな人物は、面接によってあらかじめ弾いておく必要がある。人材の絞り込みが行われているわけだ。当然、礼儀をわきまえ、要領がよく、好感を持たれる人物は限られてくるので、人件費はその分上がる。その費用も、会社から出ている以上、我々の財布が元となっている。

つまり、店員の心地よい「おもてなし」にかかる費用は、我々が買う商品の値段に間接的に含まれているのである。

逆を言えば、接客の質が悪くても良ければ、商品の値段はもっと下げられるはずなのだ。店員の研修など行う必要もなく、そのへんの礼儀正しくない不器用な人でも雇い入れれば、そのぶん価格を抑えられるのである。

しかし接客の質が悪いことを「気にする人」がいるため、そのようなコストは必要経費としてカウントされてしまっているのだ。だからもし、「気にする人」がいなければ、我々はもっと安い金額でモノを買えるはずなのである。

つまりこういうことだ。接客の質を「気にする人」たちのための費用を、「気にしない人」たちが肩代わりして払っている、という構図が、今の日本なのである。

私のような「気にしない人」が払う代金には、無条件に、「気にする人」たちにかかる費用までインクルードされている。私のように、店員はふてぶてしくよく、ハンバーガーをスローイングされて渡されても構わない客ばかりであったら、世の中のモノの値段はもっと下がるはずなのだ。しかし一定数の「気にする人」たちがいるため、そこにかかる費用をみんなで余計に支払っているのだ。これが「おもてなし」料である。この「おもてなし」料は、チップという目に見える形でなく、商品の値札の数字にこっそりと加算されている料金なのだ。

最近、東京のコンビニでは、店員のほとんどが外国人になった。中国人や韓国人、東南アジア系が多い。日本人のコンビニ店員を見かけたら逆に珍しく思えるほどである。彼らの日本語はたどたどしく、客とのコミュニケーションがうまく取れているようには思えない。日本人の生活習慣も詳しくないらしく、ドリアを買ったときに箸がついてくることがある。コンビニ店員の仕事は、レジ打ちだけでなく、宅配、公共料金の支払い、チケットの購入、切手の貼付けまで多岐にわたる。そんな難しい仕事をこなす外国人店員は本当に尊敬に値すると思う。だが、やはり日本語に難があるため、接客能力はどうしても日本人に劣る。そんな彼らの接客を見てクレームをつける人がいる。相手の日本語能力が高くないことをいい事に、自分勝手なことをまくし立てているオジサンを昨日も見てしまった。

だが、そういったオジサンのクレームを防ぐには、相対的に人件費の高い日本人を雇うか、店員に高度な接客をさせるよう教育させるしかないのだ。そしてその費用は、我々が商品購入という形で間接的に肩代わりしなければならない。

「おもてなし」は決してタダではない。「おもてなし」されないと文句を言う人々が一定数いるため、我々は「おもてなし」料を一律で払わなければならない。ある意味これは、「おもてなし税」なのかもしれない。

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