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なぜ松屋や日高屋にはクチャラーが多いのか

私はクチャラーが嫌いである。飲食店などで、あの「クチャ、クチャ」という咀嚼音を聞くと、生理的嫌悪感を感じ、一気に食欲が失せ、その場から立ち去りたい衝動に駆られるのである。もちろん、病気などでどうしても咀嚼音を出さざるを得ない人もいることは知っている。だが、これは生理的嫌悪感なのだからどうしようもない。私の理性では変えられないのだ。

そしてそのクチャラーは、松屋や日高屋などの、安いチェーン店で遭遇する確率が高い。もちろん統計をとったわけではないが、読者の皆さんの個人的感覚とも一致するのではなかろうか。「席が近いから咀嚼音が耳に入るだけでは」という声も聞こえてきそうだが、ドトールやルノアールなどの「少しお値段のする」喫茶店でクチャラーに遭遇したことはない。

言っておくが、私は松屋や日高屋が好きである。彼らは「安い・早い・美味い」の三拍子揃った優れた飲食店であり、私は常日頃からお世話になっている。彼らお店側が悪いわけではない。

私が今日書きたいのは、どうして松屋や日高屋のような安いチェーン店では、クチャラーが多いのかについてだ。そして、もっと話を広げて、値段による排除の論理についても考えてみたい。

今日はそんなことについて書いていこうと思う。

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私はクチャラーが嫌いなため、彼らが何か共通点を持っているのではないかと観察してみた。そして、すぐに気づいたことがある。クチャラーの共通点――それはズバリ「さえないオッサン」である。

見た目がパッとしない、服もヨレヨレ、猫背で覇気がない中年男性、そんな「さえないオッサン」の隣に座ると、高確率でクチャラーである。それに気づいた私は、松屋や日高屋に入ると、まず店内を見渡し、「さえないオッサン」を探すようにした。そして、彼らの近くには座らないようにした。そうすると、クチャラーに遭遇する確率がグッと減ったのである。しかし、後から隣に「さえないオッサン」が座ってくると、私のアンテナがピンと反応する。「あ、これは絶対にクチャラーだ!」と。そしてその予言は、だいたい当たってしまうのである。失礼でなければ、「すいません、席を移動したいのですが…」とお店に申し出たいところだ。

ではなぜ「さえないオッサン」がクチャラーであるか、という問題だ。クチャラーにならないためには、子供の頃から「口を閉じて食べるように」と親からの躾が大事である。食事のマナーを教え込むようなきちんとした親元で育った人は、クチャラーにはなりにくい。ではそうでない親、つまり子供に食事のマナーをきちんと教えてやれないような家庭とはどんな家庭かといえば、はっきり言ってしまえば、貧しい家庭である。教養がなく、性格も良くない――これらは給料の低さに直結する。言っておくが「貧しい人=教養がなく、性格も良くない」と短絡的な論理を言いたいのではない。あくまでも、傾向の問題だ。貧しくても、教養があり、性格が良い人もたくさんいる。それはきちんと言っておきたい。しかし傾向として、貧しい人には、教養がなく、性格が良くない人が多い。それは様々な統計から裏付けられている。そんな貧しい親たちは、子供をきちんとしつけられるほどの度量を持っていないケースが多い。食事のマナーはその一例に過ぎない。たしかに食事のマナーは些細なことで、それで優れた人間かは判別できない。しかしやがて子供が成長し、友達や恋人を作る上では重要なファクターである、ということに、彼ら親たちは気づいてないのである。

そしてそうした貧しい家庭の元で育った子供は、やはり十分な教養や性格の良さを持っておらず、給料の安い仕事に就かざるを得ない。「貧困の再生産」である。そうした人たちは、結婚できず、「さえないオッサン」となり、夕食は妻と一緒にお家で、ではなく、松屋や日高屋のような安いチェーン店で済ませるしかなくなる。

つまり、なぜ松屋や日高屋でクチャラーが多いかと言うと、「育ちが悪い」の疑似相関ではないかと邪推したくなるのである。親からきちんと食事のマナーをしつけてもらえなかった故にクチャラーになってしまった。そして給料の良くない仕事に就いていて結婚もできない。そんな「さえないオッサン」が松屋や日高屋のような安いチェーン店に集まり、食事をとらざるを得ない。だから私は、松屋や日高屋に行く度に高確率でクチャラーに遭遇してしまう。そんな邪推をしてしまうのである。

逆に、ドトールやルノアールなどの「少しお値段のする」お店には、「さえないオッサン」が来ない。彼らは給料が低いため、お値段のするお店には集まらない。だから、食事代の高いお店になるほど、クチャラーが減る。

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ここまで書いてみると、ある事が言える。それは、「お客は、お店に高い代金を支払い、その店の食事やサービスだけでなく、客層をも買っている」という事だ。

値段の高いお店は、提供するサービスの質が良いため、そこにコストがかかっている。それが商品の値段に含まれている。これは分かる。しかし同時に、高い値段設定にすることで、マナーのなってない、下手すると他の客の迷惑になるような問題客を、効率よく排除しているのだ。

少なくとも日本のお店では、お客が入ってきたら、それがどんな人であろうと、受け入れなければならない。例えば私が店員で、「さえないオッサン」が客として入ってきた時に、「あ、これはクチャラーに違いない!」と思って入店を拒否したら、それは明らかに差別に当たる。このように、お店側はお客を選ぶことはできない。しかし、「価格設定」によって、それにそぐわない客を暗黙的に排除することは、差別に当たらない。商品の値段を高くしておけば、「これは商品やサービスに高いコストがかかっているため、そのぶん値段が高いんです」という顔をしつつ、実際はマナーのなってない客を「差別だ!」と非難されずに、効率よく排除できるのである。

お客は、それに対してもお金を払っている。つまり、高い代金を支払うことで、「マナーの悪いヤツと同じ屋根の下で過ごすのを避ける権利」をも買っているのである。なぜ金持ちが高給なレストランで食事をするかと言えば、もちろん食事やサービスの質が良いから、という理由が第一だが、第二として、「マナーのないヤツらと同じ時間と空間を共有せずに済む」という理由もあるのだ。

同じことは、飲食店だけでなく、他のことでも言える。

例えば、有名私立と呼ばれる中学校の入学料がなぜ高いかと言えば、高度な教育を受けさせるために優秀な教員を雇っているから、が第一の理由だろうが、その他にも、「入学料を高くしているので、貧しい家庭で育った、躾のなってない、将来的にワルになってあなたのご子息に悪影響を与えかねない潜在的な悪友はあらかじめ排除してあります。お金持ちのご子息のみなさま、どうぞ安心して当校にお入りください」という理由もあるのだ。

西麻布や六本木などの「会員制クラブ」も、高い値段設定にすることで、「安月給しかもらってないレベルの低い奴らとお友達になる必要はありません。ここのお客様はみな高給取りのレベルの高い方々ばかりですから」を売りにしているのだ。そして客は、その客層を得るために高い金を払っている。

私達は、お金で商品やサービスだけを買っているわけではない。客層をも買っているのである。果たしてそれが倫理的に良いことなのかは分からない。しかし、この資本主義の社会においては、「客層を買う」ことは消費者側の自由な権利として、暗黙のうちにまかり通っている。

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繰り返しになるが、私は松屋や日高屋が好きである。しかし、値段が低いため、マナーのなってない客が集まってきて、私の嫌いなクチャラーに遭遇してしまう。もし私がクチャラーの隣に座りたくなければ、やはり資本主義の原則に則って、高い値段を払い、「質の高い」客のいるお店に行くべきなのだろうか。

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