刑法②故意〜わざと、って何?〜

続いて今回は、刑法の中で自分が最初に面白さを感じた問題について紹介したいと思います。

それは「故意」すなわち「わざと」ってなんだ?という問いです。日本の刑法は、原則として故意犯を処罰の対象としています。つまり、過失犯の処罰はあくまで例外的なのです。これは、刑罰という重大な人権侵害を伴うものをもってまでして懲らしめなきゃいけないほど悪い行為とはなんなのか、ということに基づいています。そこには、過失については刑事ではなく民事で損害賠償をさせればいい、という考えがあるわけです(刑事・民事の話はまた)。

ただご承知の通り「業務上過失致死罪」など例外的に過失犯の規定が存在するのですが、これは要するに「いやお前がうっかりするなよ」と、危険な行為(車の運転など)に関わる場合には刑事罰も辞さないほどの高度の注意義務が課せられているというわけです。

さて本題に戻り、「わざと」について考えてみましょう。これは法律のことを一旦おいて考えても面白いと思います。

あえてやった、ねらってやった、そんなイメージがあるでしょうか。じゃあそれって、どういうこと?というと、より簡潔には、

「結果を認識しつつ、認容した」

ということに至ります。認識とは五官で「感じる」ということであり、認容とはそれを「受け容れる」ということで、それもしゃあないか、という感じの「姿勢」です。例えば、こいつをぶん殴ってやろう、というのは、拳をふって怪我をさせるという結果を辞さない、ということです。ここでいう、「認容」がポイントで、この勢いで走ったらぶつかるかもしれないけど、まぁいいや、といったいわゆる「未必(みひつ)の故意」についても、要するにわざとやる場合と変わらんぐらいあかんがなということになるのです。

じゃあね、「いや、殺すつもりはなかったんです」という言い訳についてはどう考えるべきか。認容してないから…故意はない?とも思えますが、そもそもこんな言い訳が通用するなら、みんなそういう供述をしますよね。それは明らかに結論の妥当性を欠き、到底許せません。ピストルを心臓に突きつけて引き金を引いたのに、「いやそんなつもりは…」っておい!っつう。

ここで、やや前後矛盾のように聞こえるかもしれませんが、厳密には「認容する」という心理作業はマストではないのです。すなわち、行為に及んだことをもって結果を「認容している」と評価できるわけで、①弾丸の入ったピストルを握っている、②それを人間の胸に突きつけている、③その上で引き金を引いた、のであれば、④かなりの確率でその相手は死亡するに至るのですが、①〜③まで認識していたのであれば、④までは不要、というわけです。そんなことをしても人は死なないだろうと思ったなんて、そりゃあそいつの「評価」がおかしいだけで、「普通に考えたら」死ぬよねっていう。

ちなみに余談ですが、故意と関連して、「確信犯」という言葉がありますが、これは社会的にかなり誤用されています。確信的に殺意などの故意をもっている場合をさすのではなく(それはただの故意犯)、「正しい行いである」との確信をもって犯行に及ぶということであり、宗教的な信念がある場合や昨今では相模原の障害者殺傷事件の犯人などがこれに当たると思います。

はてさて、これら故意についての考え方は社会一般においても案外有用だなと感じています。うっわ、むかつく!と思った時に、そのレベルを整理できるからです。あんにゃろうに故意があるのか、過失(注意義務違反)にとどまるのかそれもないのか、を自分で考えると、んんーでもこれは結果的にむかつくだけで、必ずしもあんにゃろうが悪いとはいえない(責められない)か、といった考えができるのです。心の整理に、活用してみてはいかがでしょうか。

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