見出し画像

「文章」について考える③ 長さはどう考えればよいか

 前回私は言葉の選び方について書いた。なるべく簡単な伝わりやすい言葉で書くべきだと。今回は文章の長さについて書きたいと思う。

 思いだせば、私がこれまで読んだ本の中で最長のものは、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」か三島由紀夫の「豊饒の海 四部作」だと思う。どちらも小説なので少しずつ読めばいいのだが、とにかく長かった、という記憶が残っている。これだけ長いと最後のほうになると最初のほうに出てくる登場人物などを忘れるということも起こるのだが、まあめくり直して読めばいいのだが、よほどの読書好きでないとこの辺りには手が出ないだろう。そう言えばトーマス・マンの「魔の山」も長かった。タイトルはこの小説自体の事かと思ったぐらいだ(笑)長編小説は何かしらの目標というか、それなりに腹をくくって読まないと挫折してしまうだろう。例えば私も「怒りの葡萄」スタインベッグと「大地」パールバックは途中で投げてしまった。ここで一つ言えるのは「長すぎる文章は総じて読まれにくい」というシンプルなことであろう。問題は、自分が文章で訴えたい事、表現したい事をいかに適切な長さで表現出来るかなのだろう。例えば、さっきパン屋でパンを三つ買ってきたとする。普通はこの程度の文章になるのではないか。

「晴天ベーカーリーのウインドウ越しにチョココルネを見た私のお腹が鳴った。誘惑に負けた私は他にドーナッツとクロワッサンを買って家に帰ってきたのだった」

 もしこの内容をこんなに長く書かれたらあなたはどう思うだろうか。

「冨福商店街のちょうど真ん中辺りにある晴天ベーカリーは午後のひと時もお客さんで賑わっている。何気に店内を見た私の視線に幾つも重なっている焼き立てのように見せる美味しそうなチョココルネが入った。甘くて口どけの良さそうなチョココルネを無性に食べたくなった私は思わず店に入り込んだ。店内には聞いたことのあるJ-POPが有線で流れている。“いつか最高の自分に♪” 今は私は最高のチョココルネに出会いたい。が、その横にはピーナッツクリームのかかったドーナッツがある。私の両目は大きく開き、ためらわずそれをトングに挟む。更に念願のチョココルネをトレイに乗せた私はレジに向かった。が、その途中、白く甘そうな砂糖がまぶされたクロワッサンが瞳に飛び込んでくる。私の手はためらうことなくそれもトレイに置く。こうして私は三つのパンを買い物袋に入れて、まだ陽の高い、白い雲がたなびいている青空の下、洋々と家路についたのであった」

 まあこれも小説と言われれば、面白くもなんともないが、ありといえばありなのだろうが、簡素な報告の文章としては長すぎるし不要な情報が多すぎる。では、新聞記事で社会問題を扱ったものはどうだろうか。仮定の内容で、内閣総辞職が行われたとする。

「本日午後、山田内閣は相次ぐ閣僚のスキャンダル問題の責任を取って、総辞職した。衆議院の解散はなく、後任の総理大臣には山本海之介が指名される予定である。」

これで一応何が起こるかは把握できる。もう少し情報を足してみよう。

「2023年x月12日午後2時頃、自眠党山田太郎衛門内閣は相次ぐ森山文部大臣の脱税疑惑、山中防衛大臣の収賄疑惑などを受けて、総辞職の発表をした。衆議院の解散はせず、このまま国会が次期総理大臣を指名し、その後組閣される。自眠党の最大派閥である富山派が打撃を受けた状態の中、二番手である山戸派の山本海之介衆院議員(67)が指名される見通しが高い。」

これぐらいはスラスラ読める分量だろう。これ以上長いと論説とか有識者の解説になってくるが、目的が「詳しくこの政治問題について知らしめる」となるので、多少長くなっても構わないと思う。

 結論を書くと、私は基本的に文章というのは、ネットに公開するものに関しては、新聞記事ぐらいの長さでいいと思う。もちろん、題材によってはもっと長くてもいいが、長くなり過ぎないように、と意識すればいいと思う。また、書籍に関しては全く違うと思うが、ざっくりいうと、一冊250ページぐらいまでが読みやすいと思う。これを超えると一日、二日では読み終えられなくなって億劫になる気がする。とはいえ、今日本を買って読む層というのはそれぐらい余裕で読むのかもしれないが……。ネット全盛の今、文章の長さについて書きました。次回は「上手に文章を書くコツ」を拙い知見を持って書いて、一旦このシリーズを終えようと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?