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花ざかりの校庭 第六巻 ライ麦畑でつかまえて Catch me in the lie

        ★


麻里は高志の家で過ごすようになったのは、その晩からのことだった。

帰宅と同時に五時間ほど試験のそうまとめをする。

そして深夜ラジオが始まる頃、麻里は身支度をはじめた。

浅子の部屋はからっぽだった。

何処にいったのか?

胸を撫で下ろす。

高志の部屋に行く。

皮肉なことに……。

麻里は彼との関係を何度も繰り返すうちに、浅子のことをアタマに描けるようになっていく。

そのうちに恋に恋しているような自分を卒業していることがわかる。

麻里はキッチンに立つのは嫌いではなかった。

ただ、誰かの帰りをキッチンで待ちわびるのがつらいだけだ。

あの震災から六年間、麻里は父と二人で暮らしたのである。

あらかたの料理はできた。

ほんとうは朝まで二人でいたかった。

眠りについた彼のベッドから自分を引き離すようにして、キッチンに立つ。

どうせ男の子なんだから、ずぼらなのは目に見えている。

麻里は日持ちしそうなものをものをつくっておいた。

冷蔵庫の中に入れる。

今度はいつ逢えるかわからない。

恋愛に保険はない。

世界の経済学者がどれだけ頭脳を駆使してもわからないのが恋愛である。

帳簿をつけるのはナンセンスだ。

なにせ、ここには借方も貸方もこの帳簿には存在しないのだから。


       ★


帰宅した時に電話をチェックした。

父からメールが入っていた。

試験のことが書いてあった。

『心配しないで』と彼女は返信しておいた。

彼女はベッドにごろんと仰向けになる。


彼女はまどろみながら、

私はまたあそこに帰っていくのだ。

そう思った。

ふと、高志とは離ればなれになるのか、と考え始める。

あまり考えごとはよくない。


       ★


彼女は浅子に怒ることはなくなっていった。

もし、あの晩、高志が許してくれなかったら、自分は無惨な気持ちを抱えたまんま去っていったことだろう。

彼はそのことをとっくに察していた。

無理強いもしなかった。

ふと、キッチンに立つ。

乾燥機のなかにこの前、麻里が朝食を用意しておいたお皿が入っている。

ちゃんと洗ったんだ。

さっきまで、何か言おうとして、高志はそっぽ向いていたが……。

可愛いヤツである。

躾のいい弟みたいだ。


二人で衛星放送のアーカイブをみる。

ここのところ内容は入ってくるようになっていた。

アメリカのリーガルサスペンスだ。


麻里の緊張がようやくとけた頃をみはからって、高志は彼女の手をとり求めるようになった。

高志の横で目を閉じる。

何かが胸の奥で振動していた。

彼は麻里の前でゆっくりと暴君になっていく。

「……灯り、暗くして」

麻里は小声で言った。

彼はスタンディングライトだけにした。




  ★★★



黒川紀代は日本では知られていないが、ヨーロッパでは有名な実業家だ。

オーストリアの社交界にデビュー。

そのコネクションは絶大だ。

そのために福山司郎は来た。

彼女(黒川)はもともと生家が静岡で、先祖を辿ると……徳川家の家臣だったという。

司郎の父は、京都の大学に入る前に彼女に挨拶しておくよう、彼にすすめたのだ。



ふいに、福山の脳裏に麻里の姿がよぎる。

彼女のことで、俺はいい人すぎたのではないか?

彼は彼なりに麻里を思いやった。


麻里が欲しかった。


彼はまるでその代償のように、智恵を受け入れた。


記憶を反芻する。

以前、小寺智恵と二人で水族館に行ったことがある。

途中で昼食にいったCoCo壱で彼女は大盛りのチキンカツカレーにチーズをトッピングしたやつを軽くたいらげた。

食後、イルカショーを観に行く途中でクレープが食いたいと言い、二人で食いはじめた。

食っている最中、福山は智恵が水族館の魚を食いたがるのではないかという妄想に襲われていた。

回遊する魚を見る目が喜悦している。

よだれを垂らしているのではないか?

彼は乱視気味の目で彼女の横顔を探るように観察していた。

「いやだ、福山先輩……」

智恵は恥ずかしそうに肩をすくめ、福山の肩をドンっと叩いた。

平手がもろに入り、福山の体がボコッと音を立てる。

「うっ!」

「変なこと考えた?」

「いや、違う」

「考えたよ」

智恵はククッと笑う。

腐女子。

いや、違うってば!

智恵は福山司郎に頬を寄せた。

微かに息が荒くなっている智恵である。

……くまモンみたい。

智恵は福山のことをそういう。

普段、清純を思わせる智恵は姉の麻里よりもはるかに積極的であった。

福山はどちらかというと、マニアックな女性が好きになるタイプだった。中学生の時、彼はゲイの人に唇を奪われた。

智恵は最初、彼の口からそのことを聞いたとき、ゲッと声をあげた。

最初は好奇の目で見ていた彼女であったが、やがて彼女の心のなかで特有の化学反応が起こった。

恋である。

……小寺智恵、16歳、恋にはまるナウ。

腐女子とオタク……。

引き寄せの法則。

智恵は風を突く勢いで福山司郎に迫った。

彼女のクラスメイトはいったい彼女のなかで何が起こったのか、首をかしげていた。

敵などまだいない。

ジャストナウで青空市場の福山。

ウォール・ストリートのニッケル&クパー。

かくしてサイは投げられた。


もしもし、小寺智恵ですけど、福山くんですか?

はーい(-o-)/


彼女のなかの触媒は敏感に反応を続け、秒速でターゲットを捉えていた。

ロックオン……。ヽ(´д`)ノ


あのー、福山先輩っ、

わたし、智恵っていいまスゥ。


コンサイズの英和辞典と教科書、弁当箱でぼこぼこになったカバンを両手でもって、先ずは笑顔で挨拶。

「何ですか?」

福山は言った。

おさげにこげちゃ色のニットのカーディガンを羽織って登校。

福山は彼女の鞄のなかからはみ出している、アルマイト製の武骨な弁当箱を凝視していた。

まるで水島新司の野球漫画の世界である。

「き、きみっ!」

「はい?」

「い、いや……何でもない」

福山はかぶりをふった。

……でっかい弁当箱だなぁ。ちっちゃいくせに食うんだろうな。

智恵はくちもとを少しゆるめた。

こげちゃ色の少女はかくしてルビコン河を越えていくのであった。



例えるなら…、

すでにこの段階で恋するトマホークは第一段階を終了し、巡航体勢に移行している。

やがてGPS回線が開き、ターゲットを捕捉。


智恵は一歩前に出る。

「お姉ちゃんなんかダメダメですよ」

欺瞞工作に出た。

福山は悩ましげに彼女を見る。

そっ、そうかな。

智恵はまごつく彼を見て、内心、可愛いと思った。

「それより私……」

体を密着させた。

着弾!

智恵は耳元で囁く。

姉に渡した雑誌『エンテツ』を観たい……と。

福山司郎は瞬時に智恵の真意を察している。

「いかがなものでしょうかね、福山先輩……」

「か、か、かっ構わないさ」


動けば電雷の如く

発すれば風雨の如し


これが智恵のモットーであった。

姉の麻里が小田原評定を決め込むタイプなら、妹は高杉晋作のタイプである。




更にイルカショーが終わってから二人はラーメンライスを食べ、デザートがわりに駅前のケーキ屋でガトーショコラとワッフルを平らげた。

そして駅のお土産物屋さんでたぬき蕎麦セットを欲しがった。


       ★


福山は嵐山の大きな鉄筋の建物の前でクルマを降りた。

中から紫色に髪を染めた80代くらいの女性が現れた。

福山はすぐに気がついた。

彼はアタマを下げ、今回のことの礼を述べた。

家に入ると、玄関は吹き抜けになっており、花と観葉植物がところ狭しと並べられている。

ふいに、福山は倉木しおんのことを思い出した。

「……お父様とは違うタイプね」

紀代は会話の途中、言った。

ふいに、福山司郎は黒川紀代をまじまじと見ていた。

「貴方のお父様には今から20年くらい前にお世話になったの」

黒川紀代はソファーの後ろにあるパギラの鉢植えに目をやって言った。

彼の父、福山正武はノルウェーと取引があった。

そのつてを通して、黒川紀代の『お茶』をベルギーに売り込んだのである。


       ★★★


福山は黒川宅でさまざまな話題を耳にした。

しかし、そのスケールが違っていた。

彼の父がノルウェーとのコネクションを持っていたことが、想定外のこと呼び起こしていたのだ。

福山司郎は話を聞いては唸っている。

可笑しそうに黒川紀代は笑っていた。

「あなた、亡くなった父がいたら話に付き合わされていたところよ」

「そうなんですか?」

「うん、延々話が続きましたから。あの方は」

ふいに、秘書の佐山恭輔が吹き出した。

「ねぇ?」

彼女は彼に相づをうった。

「戦時中に亡くなりましたけどね」

そういって、彼女はお茶を飲んだ。

「そ、そうなんですか」

「若い人は気にしなくていいわよ。あの人の時代はとっくに過ぎ去ったんだもの」

そういうと、忌々しげに彼女は窓の外を見た。

「あの人の時代ですか?」

「……あっ、そうそう。佐山さんお茶菓子を」

「……あれですね?」

「そう、お饅頭がいいわよね?」

「はい」

福山はしばし、黙り混む黒川紀代を前に、カバンから田畑高志の写真をファイルしたものを彼女に渡した。

黒川紀代はそれを見て、わっと声をあげた。

「ペトルーシュカの彼?」

「はい」

それからしばらくはヨーロッパのオペラの話で時間が流れていった。

その日、夜更けまで紀代は福山たちを相手に話を続けた。

帰りがけに秘書の佐山恭輔は名刺をくれた。

彼は名刺を裏返した。


『楽しみにしております』


と、流麗な文字で書いてあった。


福山はぼんやりとした光の中でそれを見た。

タクシーは三条通りを東に走っていく。

「……どうしたの?」

叔母の久美が福山司郎に言った。

ふと、福山の脳裏に智恵のことが瞬いた。

「あっ、お土産買っておかなくては……」

「いいわよ、私が買ってあげる」

叔母の久美は味覚音痴だった。

「お兄さんに渡すヤツね」

ああ、そうだった。

親父もいたんだ。

福山司郎は思い出した。

西本願寺の灯りが見えるあたりで京都タワーが見えた。


       ★


福山司郎はホテルの部屋で佐山氏からもらった名刺を手にしていた。

彼は十時にチェックアウトする前、高志に電話をした。

「写真、渡しておいたよ」

去年のピアノコンクールのやつ。

『俺、商科大学に願書出すことに決めた』

「え」

ナンバ商科大学?聞いたことねえなあ、どこにある?

田畑よ、そんな大学あったっけ?

受験雑誌「月刊マナブくん」に広告あったし。

「げっ、安易すぎるだろ?」

『東京芸大か国立音楽大学しか知らねえんだ』

「ぷっ」

福山司郎は危うく言葉に出そうとしたが、生来の呑気さが幸いした。

電話の向こうで田畑高志は『麻里が』と呟いた。

かすかにショパンのノクターンが聴こえる。

麻里の気配がする。

……いや、なにも。言伝てが彼女からあって……。

「うん?」

微かな嫉妬を福山は感じていた。

つらい。

……小寺、探検部にはいることに決めたって。

「え?」

電話はそこで切れた。

……残酷だな。

福山は思った。

麻里の前でいい人を演じたツケがまわってきた。

ふいに、黒川紀代の姿を思い浮かべた。

彼女は福山に一冊の本を渡していた。

昭和時代の書籍である。

昭和25年の書籍である。


『クリスチャン・ローゼンクロイツとの出会い』


倉木源三という名前が赤茶けた書籍の表紙に印刷されていた。

彼は本をめくってみた。

「……倉木?」

でどころは黒川会長の蔵書である。

福山は著書の奥付けを見た。


「く、倉木しおん……」


妙な胸騒ぎがした。

しっ、しおん!

しおんの実家は滋賀の田舎にある。

夏はヨット、冬はスキー。

倉木スポーツ店。

ふと、黒川宅で食った紫色の饅頭を思い出した。


       ★


麻里の試験は今月の21日のことだった。

すでに担任の岡倉先生から受験票やその他の注意事項を聞かされた。

麻里は案外、普段と変わらず真面目に勉強をしていたし、試験前といってとりたてて焦ることはない。

岡倉は胸を撫で下ろしているもようだ。

「……まあ、心配することは無いさ。もし、大学でもう少し上を狙いたければ、大学院の学士編入だってある」

生徒の個人的な学力の限界というものがあって……。

高校三年生の段階で、国立大を狙うには中学の成績のレベルで基礎的な学力が決まる。

ところが、私学の大学の場合、科目数も少ないことから中堅の大学の理系はわりと入りやすい。


麻里の父の真一はその事も見越して奈良の私学の推薦入学を彼女に勧めたのだ。


模試の成績も彼女の場合、志望校を狙うには丁度よかった。


麻里は面接が終わると、岡倉先生に福山司郎の志望校のことを尋ねた。

彼は一応、教師としての立場上、それは言えないといっていたが、福山の個人的な事情もあって彼は京都の私立を目指している…とまで教えてくれた。

「……探検部……あっちで続けるみたいだ」

岡倉は嬉しそうな顔でいる。



       ★



田畑高志はベッドのなかで、麻里を優しく扱ってくれた。

果てたあと、急に仰向けに寝転がる。

射精してから後、だるく、なにもする気がしない。 

麻里は最初は怖かったが、中に出していいと彼に囁く。

ピルを飲んでいても、これは賭けであって、つまり私のことを本当に愛していてくれるのか?

妊娠のことを考えてくれているのか?

思いやりの踏み絵。

でも、彼は優しかった。

ゆっくりと彼のその部分を麻里の体から引き抜く。

やがて、暖かくて白い液体が彼女のお腹の上にほとばしった。

彼女は嬉しくなり、それを手のひらで触ってみる。

生まれて始めて、男性のそれを口に含む。

いとおしい気持ちが膨らんでいく。

麻里は男の体を少しずつ学んでいった。

彼女は枯野その部分にキスをする。

彼はまた、麻里を欲しがった。

そして抱き締めてくれる。

放したくない。

自分を大切にしてくれる。

麻里はそれがいとおしくてならなかった。




   ★★★★





麻里は試験の準備を終えて、早朝に床につく。


どうだったんだろう?


麻里は試験の前日、父と母の過ごした日々のことを考えていた。

やがて、床のなかでうとうとしていたが、携帯の着信に気がついた。

「……!」

麻里は高志かと思った。

胸が高鳴る。

見るとしおんからだった。

「……はい?」

……差し入れ持ってきた。

「今、どこ?」

ふいにチャイムが鳴った。

「もう来てるわけ?」

麻里はドアをチェーンを外した。

「あたりー!」

しおんがショッピングバッグを差し出す。

「どうせ今から頑張っても明日の試験に影響はないでしょう!」

なるほど、それは言える。「どうぞ」と麻里は彼女を招き入れる。しおんは「これね」と言って差し入れを麻里に渡した。

中には『倉木商店』という荒いフォントのロゴみたいなのがプリントされた紙袋が入っていた。

よく見ると、ロゴの下にsince 1939という数字がみえた。

多分、西暦だろう。 

かなり古い店だ。


ドアを開くと肌寒い外気が入ってくる。

霧がかかっているのだ。

しおんが部屋のなかに入ってくる。

「あっ」

と、しおんが声をあげた。

眼鏡が曇っていた。

麻里は寝間着にしていたジャージの匂いに気づいた。

つまり、男の匂い…?

ヤバい。

「ちょっと着替えてくるから」

麻里は洗濯機のあるユニットで替えのジャージーに着替えた。

なんという敏感さだろう……。

麻里がLDKに戻るとしおんがぼんやりと突っ立っている。

顔が赤くなっていた。

「私、思うんだけど。芳香剤、おいておいたほうがいいね」

「……はい」

子犬のように鼻をくんくんさせている。「バレバレよ」と、歌うように呟いた。

「……彼の匂い」

「ちょっと、やめてよ」

しおんはニヤニヤしている。

「あの夜、二人の関係は進み……」

恋のマエストロは瞳を閉じて頬を赤くしている。


「やめろ、しおんっ!明日は試験……なの」

「ねぇ、浅子さんは?」

「いない、外を見たらわかるでしょ?」

しおんはベランダの外を見た。

「ホント、フィアットないね」

紙袋からクラブサンドを出してくる。

「あの人、お金持ってそうだから…、ねぇ?」

眼鏡の奥で彼女は意味ありげに笑っている。

「何?」

高志くんももらったんだから……、

「卒業したら浅子さんにあのクルマも譲ってもらえばいいんじゃないかな?」

「……バカな」

しおんは高校最後の冬休み……滋賀に帰省するという。

昨日、連絡があったそうだ。

12月のクリスマスには雪が降り始める。

そのまえに一度帰省してほしいという。

「で、貴女は今年のクリスマスは高志くんと二人というわけですかね」

「……えっ?」

赤くなる。

生まれて初めて、彼氏と過ごすクリスマス。

となるが、

山下達郎じゃん!

雨って、クリスマスにはやがて雪に変わるもんかねっ!

しおんは呟く。

すでに窓の外の秋色は深くなっている。

彼の胸のなかで麻里は甘い気持ちにひたる。

「……雪、降るかな?」

ホワイトクリスマス。

「彼の家で過ごすの?」

麻里は恥ずかしそうに顔を赤らめる。

それともさ……、としおんは目を彼女からそらした。

「ラブホとか?」

ドライな名詞が彼女の唇からこぼれ落ちる。

「えっと」

「浅子さんなんでも譲ってくれるね?」

しおんは顔に似合わず毒がある。

「違う!断じて。あの時、私おしかけたし」

彼女はクラスの中では地味で目立たない存在だったが、麻里の見る限り、猫をかぶっているのだ。岡倉先生と進んでいるのだろうか?

「そして、押し倒す?」

しおんはクラブサンドをパクつきながら言った。

よく、食欲がある子は男好きだと言うが。

「……それ、私に差し入れじゃなかったの?」

彼女はクラスの「まだたくさんあるから」と言った。

麻里は毒気抜かれた。

「からかってゴメン」

髪をかきあげる。

そして、小さな声で「よかったね」と言った。

しおんはそこで、少し寂しげにつぶやいた。

「……麻里の恋が上手くいきますように」

しおんは両手を組んで祈ってみせた。

「なによ、改まって」

「私、昨日実家から電話があって、お見合いの話がきたの」

「お見合い?」

しおんはうつむいていた。




    ★★★




雑踏を福山は見渡していた。

あの人から電話があった……。


板崎浅子……。


京都から帰ってきたのが午後1時。

新幹線の中で、昨日の晩にメールが入っていたのに気づいたのだ。


田畑高志の彼女だ。

司郎はその程度のことは知っている。

ただ、アドレスを交換した記憶はなかった。

しかし、男性としての好奇心がまさった。


彼は新幹線から降りたあと、駅の売店でたぬきそばを買った。

智恵へのお土産である。

彼はそのあと、メールをした。


……今、帰ってきたところです。お会いできます。


すると、浅子から突然メールしたことの詫びと、時間はあいているかという内容が返ってきた。

福山はすぐに彼女に電話した。


『急に電話してすみません』

向こう側で浅子の声がした。

落ち着いた声。

「い、いえ。田畑の?」

『そ、そうです』

田畑がぞっこんな浅子とはどれだけ美人なのか?

「駅前の本屋で待ち合わせしませんか?」

福山は移動までの時間をざっと見積もって言った。

『はい』

浅子は事務的にこたえた。

福山は電話をきったあと、やや妄想する。

そして高志に嫉妬した。

彼自身は智恵や麻里の前で男子を演じていたわけであって、実際の男としての彼はご多分にもれず貪欲だ。

ただ、怖いのが先に立つだけ。



       ★




時折、彼の父のことを思う。

地域の有力者である彼の父は、同時に女性関係も放埒だった。

福山司郎は子供の頃、それを呪った。

いや、子供は圧倒的に人間の狡さを知らない。

福山少年は、ことあるごとに外部の人間から『父の女性関係』にかんする噂を聞かされた。


父のエクステリア事業は大手のクライアントとの繋がりがあり順調だった。 

だが、社内で親戚筋の役員が彼の父を潰そうと密かに画策しているのを彼は知っていた。 

いつも彼の父は女性関係を噂されている。

彼の叔父方の常務がその悪意の黒幕であることを彼は知っていた。

闇、闇、闇……すべてダークな権力と金の世界。

福山が何故、京都の資産家、黒川紀代女史のもとに赴いたかは、いはば新しい居場所を手にいれるためなのだ。


彼がまだ、高校三年生で独居生活を余儀なくされているのは、せちがらい権力闘争の餌食にならないように……という父の思慮が働いている。


京都で静かに暮らす叔母の久美のもとを彼が訪ねたのも、寂しさの埋め合わせが欲しかったからだ。


福山は早めに到着すると、漫画をパラパラめくっていた。しかし、彼は考え直し、奥にある難しそうな本のコーナーに行った。


「えっ?」


淡い香水の匂いがした。

ランバンのオードトワレ……。

福山司郎は手にしたサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を取り落とした。


……ば、バカな。

彼のとなりに、紺色のスーツにギャザーのスカートをした女性が人工知能言語の雑誌を手に立っている。

「……あの、福山くん?」

白い歯が印象的だった。

「……はい、あの?」

「私です」

「ゲッ」

浅子は笑顔だった。

福山は一瞬、彼女にある種の敬意を抱いていた。

胸元のスワロスキが似合っていた。

「板崎浅子さん?」

彼女は頷いた。

福山は高志と浅子の情事のことを少しは聞かされていた。

彼女もそのことは百も承知だろう。

それでも、何も悪びれることもなく、清楚に振る舞っている彼女……。

福山は少し赤くなった。

高志が夢中になるのは当たり前……ってか、

福山は息を呑んだ。


ブッ飛んでるよ、浅子さん!( ̄□ ̄;)!!


何もかもが洗練されている。


げっ、ヤバっ、ヤバっ、

浅子はそんな福山をまえにして、笑顔を崩さない。

見透かされているのに、ちっとも嫌みがない。

「……出ましょうか」

浅子は彼に言った。

福山司郎ゲット……だぜ。

恋のマエストロは呟く。

「は、はいっ」

少し浅子は赤くなっている。

真珠のようなピンクの口紅が可愛らしく光っている。

彼女は福山の手にしていた紙袋を手にして、先に立つ。

名古屋グランドキヲスクの紙袋である。

智恵のたぬきそばが入ったやつ。

「……着いたばかり?」

浅子は微笑んでいた。

「はい」

「この先にビアホールが……」

即興のボーイハントだ。


マジ、誘っちまったよ、ワタシ(-_-;)by 板崎浅子


「……勿論です」

「お酒はダメだから……未成年でしょ?」

「はーい」(。・_・。)ノ


浅子の下半身はしなやかに動いていた。

「ジンジャーエールで」

「……そうして」

少女漫画に出てくるイケメンとは異次元の関係を浅子は瞬間的に読み取っていた。

恋のマエストロ……。

今宵は一杯、酒をのみ……。

「……復活できそな気分になりけり」

彼女は呟く。

ありおりはべり、いまそかり……。

ふと、空の彼方から聞こえてきた。

「あれっ?」

幻聴かな?

いや、私は独りで涙にくれすぎた。

あのとき、何でヤケ起こしたんだろう。

麻里を抹殺しておけば悲しまなくてすんだ。

やや、マゾヒスティックな快楽を夢想したかったが……。

そのわりには、浅子は涙に暮れすぎていた。

浅子は先に立って歩き始めた。

「時間とらせてごめんね、少し愚痴を言いたくて……」

愚痴とのろけ話。

彼女はそれを聞いてくれる友人があまりいない。

福山は笑っていた。

「愚痴……ですか?」

「少し話したい……」

ふいに浅子は立ち止まった。

彼女はジッと福山を見る。

瞳の奥で懇願していた。

女性が共感を求めるものだというのなら、彼女ほどの強靭な精神力を持ち合わせている女性は『特別』な存在であろう。

いや、相当無理をしている。

福山は守ってやりたい……と思った。

浅子の瞳は時折、黄泉の国をさ迷っているみたいだ。

福山は彼女に肩を並べる。

二人を起点にして……、

雑踏がコールドスリープしていくように。

周りから音がなくなっていくような孤独。

福山は浅子の肩に手をやった。

「いくらでも……」

まるで、スキーのジャンプを5分後に控えているアスリートのごとく、福山は厳かな面持ちで彼女の前に控えている。

「泣きたい」

福山は華奢な彼女のからだを抱き締めたい衝動に駈られつつも、やけに幅の広い道路に目をやった。

「泣きたいな、誰かの腕のなかで……」

浅子は少し涙をこらえているみたいだ。

さっきまでの清楚でストイックな美人が、ずぶ濡れの猫みたいになっていく。

自らフォトグラファーを自認する彼、福山司郎がそんな彼女を見逃すはずがなかった。

戦場カメラマンが命をとしてジャーナリズムの真髄に迫るように、福山はなんのためらいもなく彼女に迫った。

ずぶ濡れの子猫の胸で、一瞬、スワロフスキが静謐な輝きを放つ。

酒場のなか。

福山は不思議なくらい自然に彼女の小さな手をとっていた。

「いくらでも話してください」

淡いピンク色の貝殻を思わせる彼女の爪が福山司郎の手のひらのなかにあった。

浅子は福山に高志のことをたずねた。

「今、彼がどうしてるか……ですか?」

「はい」

ビールジョッキを片手に頷く。

       ★

「ピッチャーにしましょうか?」

浅子はガンガン酒を飲むので、店主がきをきかせた。

「いいえ、じきに帰りますから」

舌のろれつが回っていない。

浅子はえんえん酒を飲みながら失恋話を続けた。

途中、浅子はゲップした。

「おっ、おえっ」

浅子は福山の顔にゲロを吐いた。

「ギャッ」

福山は悲鳴をあげた。

店じゅうの視線が二人に向けられている。

酔っぱらいがゲラゲラ笑いはじめた。

「まいったな」

福山は店主にアタマを下げ、テーブルのゲロを旅行鞄にしまってあったタオルで片付けた。

そして、支払いを済ませ、外にでる。

浅子はへべれけに酔っていた。

浅子は一人で歩けないみたいで、仕方なくおぶってやった。

酒臭い。

どれくらいおぶって歩いたかわからないが、彼は途中、公園で小休止した。

荷物を確かめる。

その晩は寒く、浅子をそのままにして凍死されたりすると困る。

彼はタクシーを拾った。

タクシーのなかで浅子は福山に抱きついてきた。

運転手は気をきかせて、ラジオを流してくれた。

浅子は福山に抱きついたまま、頬にキスをしてくる。

あの小さな手で福山をさわりまくった。

「あれー、高志、メガネしてたっけ」

勘違いしているのだ。

司郎は咳払いする。

「浅子さん、ボクは」

福山は悶々としている。

それでも浅子は福山にしがみついてきた。

ふいに、浅子はかぶりをふっていた。

福山の脳裏に雨でずぶ濡れになった猫の姿が甦った。

浅子さんは酔っちゃいない。

福山はその時、気づいた。

胸が痛んだ。

人の喪失感ははた目にはわからないけど。

ふいに彼は空に目をやる。

暗闇のなかに小さな星がひとつ見える。

浅子の小さな手がギュッと彼の腕を掴む。

「……浅子さん、嘘いってごめん」

「え」

ふいにスワロスキの猫は固まった。

「嘘をついてすみませんでした、メガネ……このあいだ初めて買ったんですよ、貴女のために」

「……私のため?」

浅子は震えていた。

「た、た、高志くん、どうして?」

浅子は俯いたまま言う。

浅子は震えていた。

福山は彼女の手をとって頷く。

高志という言葉に、彼女の精一杯の苦悩といじらしい嘘を感じるのだ。

「それはつまり……」

福山の着ていたシャツが濡れていたのは彼女の涙のせいだ。

気づいてやるべきだったものを……。

「あなたをもっとよく見たいから」

福山は小さな声で浅子に耳打ちした。

そして浅子にキスをする。

ベタなセッティングだが誠意はある。

グリム童話の『赤ずきんちゃん』ではないか。

かくしてレンタル高志は誕生した。

この夜、レンタル高志と浅子を乗せたタクシーはぐるりぐるりと、福山の自宅周辺を周回していた。

恋のゴンドラにしては非効率極まりないものだったが、浅子にとってそれは忘れがたい思い出となる。

やがて、

深夜ラジオでJUDY AND MARYのレイディオが一発流れたときに、

タクシーの運転手が呻くように言った。

あ。あのメーター見てください。

「お客さん、勘弁してくださいよ、3万円っすよ。乗り逃げとかやめてくださいよ、乗車拒否もしてませんから、後ろからズドンとかやめて」

「しないわよ、バカ」

浅子はふてぶてしいくらいに蘇生していた。

「ご迷惑をかけまして」

浅子は真っ赤になっていた。

彼女はカードを渡した。

「あーっと、ごめんなさい高志くん、私酒代払ったっけ?」

浅子は『高志』という言葉に妙な違和感を覚えていた。

「立て替えておきました」

浅子はどれだけ飲んだのか記憶が定かでない。

「偽タカシくん……顔が胃液でくっさ」

福山は彼女がゲロを吐いたことを説明した。

浅子のスーツは酒臭かった。

それにまだ、酔いが冷めない。

福山は浅子のためにバスタオルとシャンプーを用意してくれた。

彼女は風呂に入って髪を洗った。

少し抵抗があったが、福山は気をきかせてくれた。

彼がどういった人物なのかもハッキリしないが、

酒場に誘ったのは私だ。

それまで、ずっと泣いていた記憶がある。

あまりに辛かったので、福山にすがった。

通りすがりに近い。

もし、福山が来てくれなければ、私は泣きながら死んでいたのではないか。

メガネのことで私は何かしら彼に言った。

それまで酔ったまんま泣いていた。


「……偽タカシだ……」


浅子は唇をかんだ。

福山は表の部屋で寝ているみたいだ。

時々、いびきが聞こえる。

着る服そのものが無かったので、下着の上に福山のジャージーを着た。

ジャージーは着心地がよかった。

LDKにポートレイトが何枚か飾ってある。

その中に彼女の恋人だった田畑高志のそれはなかった。

見ると、壁の一部の色が白い。

たぶん気を使って外してくれたのだろう。

偽タカシは彼女のために少し樟脳の匂いが残っている毛布とノリのきいた枕をソファーに用意してくれた。


髪をとかす道具がなかったので、ドライヤーでかわかす。

途中、鏡の前で自分の姿を見る。

何かが変わっていた。

途中、福山がトイレに行くのがわかった。

「扇風機あるかな?」

浅子は個室越しに彼に声をかけた。

「夏に使ったやつ、出しとくよ」

「悪いね、ドライヤー、かなり時間かかるし」

彼女がバスから出ると、福山はクリーニング屋のカードを渡した。

見ると『福山』とある。 

「スーツ、だしといたけどよかった?」

浅子は長い髪を扇風機で乾かしている。

「替えはあるから」

福山のジャージーを着たまんまだ。

ふと見ると、昨日の荷物のすみにキヲスクのショッピングバッグがある。 

「あら、たぬきそば?」

「頼まれてて」

「だれに?友達?」

「まあ……」

「たぬきうどんって、大阪にはないんだよね」

福山は歯をみせてわらった。

「しってます」

浅子はまた、空を見た。




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