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花ざかりの校庭 第5巻 雨上がりの夜空に


しばらくして、また携帯が鳴った。

福山からである。

メールである。

「……何?」

しおんはすり寄ってきた。

麻里はメールを見て、「伝言だって、田畑に」。

……自分で連絡すればいいのに……!

麻里は言った。

だからね……、

「……意味深じゃない?」

と、しおんが言う。

「え?」

チッ、としおんは舌打ち。

自分でリングにタオル投げてやんの、あのバカ……。

しおんが毒づいた。

「えっ?」と麻里。

「つまり、麻里に口実ができるわけなんじゃない?」

しおんは両手をあげてWHY…ホワーィ、みたいなポーズ。

「……アーッ、ダメダメっ!」

彼女は麻里の携帯を放り出した。

「おおっと!」

麻里は携帯を凝視する。

「し、しおん、エンテツのこと?」

麻里は怪訝な顔になった。

福山に興味があるの?

「まさか」

しおんはギャハハと笑っていた。

「冷めつづける覚悟ならあります……神に誓って」

しおんは両手をくんでアーメン、と呟く。

月面で朝顔の観察日記をつけるぐらい無意味なことですよ麻里さん。

「よっぽどの物好きの類いよ」

ならば、姉思いの小寺智恵はつまり物好きなのだろうか。

麻里は?(はてなマーク)を抱きつつ、メールの詳細をチェック。

秋のコンテストの写真について、となっている。

「……来週の水曜日の午後5時、学校の講堂で待ち合わせ……」

麻里はメールを読み上げた。

「福山らしいかな?」

しおんが呟く。

「いや、アイツは智恵がいるから」

「……え?ヤバっ」

しおんは言った。

ふいに、小さなくぐもった音がした。

雷の音。

しおんは眉をひそめた。

「……雨ですか」





  ★★★






しおんは夜空を眺めていた。

「さしたる雨でもなし……」

麻里は顔色がいくぶんすぐれない。

「写真のデータ、保存しといたから……」

と、しおんは言った。

比良の実家にメモリーを送っている。

彼女はデジカメを麻里に渡した。

「今度は奥飛騨の生態系の調査……かな?」

また、しおんは赤くなっていた。

「……今夜、行きなよ……」

彼女は言った。

「……行きたいんだけど」

「……恐い?」

麻里は頷く。

「……じき、雨やむよ?」

と、しおん。

そこまで言うと、彼女は変える支度を始めた。

「……田畑くん今、実家かな?」

ふいに、しおんが言った。

麻里はふと、ピアノのことを思い出した。

「ううん、違うから」

「わかるの?」

すると、麻里は頷く。

やがて、雨はあがって星が見えはじめた。

しおんは一人、帰っていった。


        ★


麻里は自転車に乗って学校に向かっていた。

街路樹を抜けると学校の裏にでる。

そこから、門をくぐると講堂に出た。

草いきれの中で耳をすました。

ピアノの音がしていた。

パスピエが流れていた。

乾いた音が、まるで白日夢を見ているような感覚に導いてゆく。

麻里は不思議と落ち着いていた。

少し胸をおさえる。

やがて、からだの中がほてっているのがわかる。

心臓が熱く脈をうち、彼女の下半身がジンとしはじめた。

麻里は小さく走る。

そして裏口から講堂に入っていった。

高志は思っていたところにいた。

彼は黙ったまんま頷く。

まるで、私が今晩、来ることを予知していたかのように。

グランドピアノに近づく頃、高志はパスピエを引き終えた。

麻里は彼に、何も言わずに口づけをした。

高志はすぐに察していた。

そして少し震える。

彼が立ち上がる。

その弾みで、楽譜が床に散らばった。

麻里は彼に肩ごと抱きすくめられた。

ふいに、体が震えた。

講堂には小さな照明だけ。

香水の匂いが彼の胸元から漂っていた。

それは、蒸気のように熱くなったかと思うと、麻里は震え始めた。



       ★


二人は夜の街をしばらくさまようように歩いていた。

『うちに行こう』

田畑高志の実家は郊外にあった。

二人はバス停までの道を歩いていった。

「……病院にいるんだ」

高志は言う。

「……いつも一人なの?」

と麻里。

「そう。エンテツが言ってなかった?」

「ううん。何も」

麻里が詮索しなかっただけだ。

じつはしおん並に興味津々だったのだ。

「どうしてあそこにいることがわかった?」

高志は言った。

「カンよ」

ふいに、麻里は浅子がくれたレシートのことを思い出した。

「ほんとは……電話するつもりだった」

彼女は言った。

「エンテツにもらった……?」

高志は怪訝な顔をした。

「違う」

麻里は首をふる。

「浅子さんよ」

高志は眉をひそめた。

そして、固くなる。

麻里は思いきってレシートを彼に見せた。

高志はそれを見て、

「……まさか……?」

「だから浅子さん」

少し麻里は高志を睨み付ける。

高志は「えっ」と、声をあげた。

「……どういうこと?」

高志は戸惑う。

「あの人はだから、そういう人なのっ!」

麻里は高志を睨み付けた。

麻里ははっきりと言った。

「高志くんを奪ってみなって、浅子さんがこれを……」

「へ?」



       ★




恋愛中毒……じゃないか。

浅子さんとの関係、どうしたらいいのやら……。

たぶん彼女はかつてつきあっていた彼氏と同様のことを、自分にやらかしている……わけだ。

高志は心の中で納得していた。

……どうやったら、俺を嫌いになれるか、浅子さんはもがいてるのだろう。

彼は麻里を見る。

彼女はあかくなり、俯く。

かすかに石鹸の香りがした。

そして震えていた。

決心して来たことがわかった。

このではぐらかしたりすれば、彼女は惨めになるだろう。

浅子との関係をどうすればいい?

ふと、空を見ていた彼女の横顔を思い出した。

未来を夢想するような横顔。

あんな愛らしい彼女を見たのは初めてだった。

貪欲に彼を求めてくる彼女。

彼女が見せた純真な愛らしさは高志の情欲を急き立てくる。

浅子が欲しい。

彼女の総てがほしい。

離したくない。

哀しみとか切なさがこらえきれない時、浅子は必ず大好きな人に毒づく。

俺のこと好きだったんだろう?

病院のテラスで、泣きじゃくりながら、別れたくないって叫べばよかったのに。


「ちょっと。高志くん?」

「はい?」

「妄想しすぎ」

「そんな顔してた?」

「うん、してた」

麻里は優しく笑っていた。

「ねぇ、高志くんこっち見てくれる?」

「えっ?」

目の前の麻里が脚をあげた。

「この浮気者っ!」

出し抜けにパンっと、音がした。

鈍い痛みが股間から伝わってくる。

「うっ!」

麻里は彼の睾丸を蹴りあげていたのだ。

「浮気者っ!私のこと好きって言ったじゃない!」

麻里は怒っていた。

「痛い……」

高志は声を震わせた。

高志は泣きそうになるのを堪えて頷く。

「ごめん」

高志は首をふる。

「いや。許さないっ」

「あの人のこと好き?浅子さん」

「勘弁してくれ」

麻里は首をふった。

「しない」

高志は冷や汗をかいていた。

「浅子のほうがいい」

「私に好きって言ったでしょう!浮気もの」

高志はまだ痛がっていた。

汗をかいている。

「痛かった?」

「うん」

「浅子さんのこと好き?」

麻里は高志をじっと見ている。

彼は首をふった。

かつての亜麻色の乙女は言った、

「浮気するから蹴られるのよ」

「これがきみのやり口か?」

麻里は赤くなっている。

「奪えって、浅子さんが言ったもの」

「バカな」

「そう。バカ。浅子って女ほんとうにバカ」

「いや……」

「私、あの人の代わりじゃないから」

「うん」

「私のこと好き?」

高志は浅子の悲しげな顔を思い出した。

「キスして」

高志はしようとはしなかった。

「……まだ、浅子さんのこと好き?」

麻里は肩を落とす。

「嫌い?」

「ううん、好き」

「で、浅子さんのことも好きなんだ?」

ふいに高志は防御の姿勢をとる。

「蹴らないってば」

麻里は笑顔になる。

「うん、好き」

麻里は突然、激昂した。

「ふざけんなっ、この女ったらしっ!」

いきなり高志の股間を蹴りあげた。

雨上がりの夜空に、高志は悲鳴をあげていた。

通りすがりの背広服が麻里に声をかけた。

「お嬢ちゃん、そいつ痴漢か?」

麻里は首をふり、微笑んだ。

「いいえ、彼氏です」

「マジかよ?」

「はい」

「彼氏を蹴っちゃダメだろう?」

「浮気したんです」

「ほんとか?きみ」

「違いますよ、俺たちまだ、何もしてないです!」

高志が真っ青な顔で言った。

麻里はふくれた。

「キスしたじゃん!」

「唇が触れただけ」

「好きって言ったじゃん!」

「空耳だろ」

「ふざけんなっ!」

麻里はまた蹴ろうとする。

「あんまり蹴ったら死んじゃうよ」

男は喧嘩はやめるように、と言ってその場を去った。

麻里は赤くなって頷いていた。

二人は公園のベンチに腰かける。

「浅子さん綺麗だもんね」

彼女はポツリという。

「別に」

「じゃ、綺麗じゃないの?」

麻里は彼女の姿を思い出していた。

「うん、綺麗じゃない」

「ばればれの嘘。私が見ても憧れちゃうし」

「泊まっていけよ」

高志は言った。

常夜灯の光りがせつないくらい夜に滲んでいた。

麻里は高志の肩に頬を寄せる。

彼の腕が彼女の肩を包み込む。

「今夜、そのために来たんだろ」

暗闇のなか、微かに麻里は頷いていた。

麻里は目を閉じて高志の温もりを感じていた。


       ★


同時に二人愛せるなんて理解できない。

麻里は古びたキッチンに立って考える。

麻里は高志の夜食をつくっていた。

「俺、やるから」

彼は言う。

「いい、私がやるっ!」

少し邪険に言う。

「いや、俺がやる」

「しつこいっ!」

高志は一旦、麻里から逃げ出した。

「そんなに恐がらなくてもいいのに……」

「あれ、痛かったんだぞ」

「わかってるわよ」

「女にわかるわけねーだろ」

「何よ、その下品な言葉遣いは。せっかくパスタ作ってやってんのに……」

「パスタって、それ使うかな?」

生麺が鍋のなかでゆれていた。

「あっ、そうだった……かしら?」

麻里はとぼける。

「きみはパスタ、食ったことがあるのか?」

「うん、しょっちゅう……」

ふいに、義理の母のことを思い出した。

彼女は一瞬、黙り込んだ。

何かしら懐かしい思いがよみがえる。

「……ほんとよね」

麻里は箸を高志に渡した。

「ごめん、作って」

高志は鍋を覗きこんで、

「ああ、これからだとラーメンくらいしかできないけど」

「袋麺?」

「いや、これにガラスープと醤油……」

彼は麻里に冷蔵庫からいくつか出して欲しいものを説明した。

「へえ、さすがだね」

「独り暮らし長いし」

「しおんと同じ」

「倉木か?」

「うん」

「仲いいの?」

「まあね」

麻里は笑う。

「まさか、彼女は今日のこと知ってる?」

「……ううん、誰にも言ってない」

「だよな、言ってたらヤバイよな」

高志はおかしそうに笑った。


「……もし倉木が知ってたらどうする?」

「えっ?」

二人はテーブルで向かい合ってラーメンを食っていた。

「泣きながら一人できみが自室に帰る……」

「どういうこと?」

「俺がきみを誘わなかったらの話だな。それこそ惨めだぞ……」

麻里は少し泣きそうになる。

「言い過ぎた、悪かった……」

「好きな女の子いじめるのって、あなた小学生みたい」

「悪い、それよりラーメン、うまい?」

「うん」

二人はテーブルのその後、テレビをみた。

といっても、内容はさっぱりわからない。

高志の手が彼女の腰に触れた。

麻里は彼にくっついていく。

お互いの距離が密着したところで、麻里はアタマのなかが妄想で溢れそうになった。

高志が音楽の話をしていた。

途中、麻里は何度もお手洗いに行き髪をととのえる。

高志も察しているみたいだった。

そして夜は深くなっていく。


高志がシャワーから出てくる。

麻里は彼の家の居間でコーヒーを飲みながら、視覚でとらえていた。

「蹴らなきゃよかった」

「いいさ、痛かったが」

だが、彼女は行為が恐かった。

もし、その最中に彼が冷めるとどうしよう?

それこそ死刑宣告に等しい。

彼女は彼の袖をふいに掴む。

彼は察しているのだ。

「仲直りのキスな」

麻里は素直に頷く。

彼の顔が迫ってくる。

キスの音がする。

さっきまで飲んでいたコーヒーの味がした。

麻里の二度めのキスは、少し苦い。


裏口入学みたいだ。

すべては浅子のお膳立てでできたこと。

浅子は……奪えと、麻里を叱責した。

麻里はしばらく高志の腕の中で目を閉じる。

いろんなことでアタマは一杯だった。

ただ、後悔はなかった。

ふいにテーブルの下にレシートを見つけた。

浅子が渡したそれだ。


「あんなことするなよ」

「はい」

「それからヤケも起こさないように」

「わかってます」

「それから、最後にもう1つ」

「……?」

「愛してるぜ……」

彼は言い聞かせるように繰り返す。

麻里は頷く。

願わくば……、

この世界からあなたが私をおいて消えませんように。

誓いでもなく、願いでもなく。

あなたを愛することで、私は生きて行ける。


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