花ざかりの校庭 第18回『キス』
【梗概】
麻里が思いを寄せている高志……。彼は祖父の容態の悪化により、ピアノへの道を諦めようとしていた。一方、浅子は自分が『当てこすり』でつきあっていた高志に心が傾斜していく。
二人はどこか似ていた。
浮かれているときも、落ち込んだときも。
早朝、チェックアウトして二人は高速を走っていた。
カーラジオからジャズが聞こえていた。
ジョン・コルトレーンの『朝日のようにさわやかに』。
浅子は少し切なげだった。
「……嫌な演奏ね、これ」
田畑高志は浅子の親友のマスターからコルトレーンの演奏の神がかりについで何度も聞かされていた。
冒頭……、
いきなりピアノのソロから主題が始まる。その間、スネアドラムとベースがえんえんと演奏を続けるだけ。コルトレーンは消滅したように、なりをひそめたままだ。
やがて、聴いているものはみな恐怖する。
……ジョン・コルトレーン……奴はまた失敗したな!
やがて、ギャラリーがレッドカードに手をかけようとする、その瞬間に奇跡が起こった。
彼のサックスは高らかに舞い上がる。
エイトビートのリズムが時を刻み、その時、世界は一変する。
レッドカードを盛っていた手は、感動の拍手に変わっていた。
ミューズの女神は……彼を抱き締めていた。
浅子はそれを感じた時、嫉妬する。
嫉妬……、それはコルトレーンにではない、そんなものは彼女には関係がない。
ミューズの女神にたいして彼女は嫉妬するのだ。。
「高志は嫌い?」
浅子は神経質になっている。
淡いピンクの口紅から白い歯が見えた。
「……じゃ、嫌いだな」
ややあって浅子は言う、
「嬉しいんだけど……一言感想を述べるさせていただくと……」
浅子の貪欲はとても観念的なのだ。
甘いチョコレートの味しか知らない、少女の欲情とはかけ離れて、浅子のそれはいつも苦い。
「私的には……『嫌いだな』じゃなくて、ほんとは『嫌い』って、あなたに断定してほしかった……」
……そうきますか。
高志は目を閉じた。
「嫉妬って、やっぱりするから」
浅子は苦い顔で高志を見る。
そんな顔をしていても、おつりがくるぐらいに、彼女は美しかった。
彼女を取り巻く風景は、一面の緑になって後ろに飛んでいく。
「じゃあ、嫌いだ」
浅子は豊かな唇を曲げて応える。
「それでいいわ」
貴方を離したくない……。
私は貴方を支配したいのだ。
すべてを……。
そして冗談めかして話したことがあった。
あのね……、
人間のミトコンドリアは女の卵細胞から引き継がれる。女は世界を支配してる。
知ってた?
精子のミトコンドリアDNAは受精とともに排除される。
★
とりあえずは十月のコンクールまでがんばるさ、手は抜かない。
高志はふいに何か言おうとして、口をつぐんだ。
麻里のことを思い出したのだ。
浅子はそれを感じてか、微妙にハンドルのきりかたかが荒くなっていた。
……心細いのだろう。
彼は浅子の頬に、キスをした。
彼女は気を取り直したのか、
「明日、午後から仕事だし」
「うん」
高志は頷いた。
今、浅子から身を引いたら彼女はとんでもないことを仕出かさないか、心配だった。
かつて彼がピアノのことで、そして祖父のことで悩みぬいていたとき、彼女は何気なく寄り添ってくれた。
それが例え福岡の恋人に対する当て付けだったとしても、駄菓はさほどとがめだてるきはしなかった。
★
フィアットが小高い丘に差し掛かった。
マンションの駐車場に入ったとき、貴史は見覚えのある自転車を目にした。
麻里のアレックスサンジェだ。
「……!」
浅子は立ち止まったまま凍りついている高志を見ていた。
浅子は黙ったまま、サングラスを外した。
「どうしたの?」
「い、いや、何でもない」
浅子は少し首を傾げた。
何かに気づいたのだろう。
「さあ、早く」
浅子は貴史の腕を引いた。
二人は部屋に入った。
浅子は部屋のベッドにバーキンのバッグを放り出すと、コーヒーをいれ始めた。
「あの自転車の女の子、知ってるの?」
貴史は何も言えなかった。
浅子は彼用のカップにコーヒーを入れてくれた。
彼女は神経質に前髪をかきあげていたが、やがて貴史の手をとって声を震わせていた。
「あの子?」
たまに、挨拶するらしい。
高志は黙っていた。
「嫌だ、私……」
浅子は突然、その場に崩れ落ちた。
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