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虚から生まれるもの

俳句と出合いは学園祭で長女の次の俳句に触れたことがきっかけであった。
「秋の田の空にも負けずどこまでも」
長女が秋田の農家に稲刈りの手伝いに行ったときの句。
青空の下でどこまでも続く田んぼの景が浮かび、俳句が読み手に一瞬にイメージや広がりを与えてくれたことにとても感動した。

 当時は俳句に関しては何も知らず、家内の友人が俳句を熱心にやっていたので、その友人に俳句の先生を紹介してもらった。

 それから10数年。仕事に追われて心を失うような時期も継続して俳句をつくることを通して何とか正気を保ててきたように思う。

 松尾芭蕉の言葉に以下の有名な言葉がある。
「虚に居て実を行ふべし。実に居て虚をおこなふべからず」
「虚」は虚しさを想像させ、具体的なイメージが把握しにくいがためにさまざまな解釈が生まれてしまう言葉かと思う。

 以前のYouTubeの動画でマドモアゼル愛先生も松尾芭蕉の「道のべの木槿は馬にくはれけり」等の句を例にあげられて実と虚に関して語られている。道のべで見かけた木槿が振り返ると馬にくはれてしまっているということに気がつき、そこではじめて木槿の存在が芭蕉の意識にクローズアップされた。
同じようなことが私たちの日常でもしばしば起こっている。
日常の暮らしにおいても、何かを見ているようで実際は他のことを考えていたり、無意識に行っていることが多く、俳句をつくるときなどに過去に出合った花やものや人が意識されたときにそれが時間の経過を越えてリアリティーな感覚を呼び込んでくれたりもする。
愛先生はこの虚が永遠性を含み、これが人を支え、生きていくためのエネルギーを生んでいると話されている。
虚とはをさな子がはじめてみた花の色や匂いをただ味わう感じとつながると思う。私たちは同じ花を見ても頭に沁みついた知識や先入観というフィルターを通して見てしまいがち。花の色合い、形、香りを五感で味わうことよりも花の名前を調べたり、いい俳句を作りたい、インスタ映えする写真を撮ろう等の計らいが生まれ、をさな子のような感性で花と向き合い味わうことができなくなっている。
確かに虚と言われても具体的にどうすればいいのか戸惑うばかりである。

ホロスコープとそして愛先生の月理論を学び、虚になるためにも先ず自分自身の日常において月星座がどう働いているのか俯瞰して観ることが大切であることを知った。
月星座が月乙女である私は、句会での披露での他者からの評価、代表からの評価が芳しくないと自己否定に陥る。多くの方も同じような傾向はあるかと思うが、私の場合は特にそこが強調され、それが自己否定感につながり楽しんだりする生きるエネルギーを奪っていく傾向が強い。

https://www.youtube.com/watch?v=65rAfpwJ9Kc


私の所属している結社の代表も同じ太陽牡牛座。MCも太陽で、水星、海王星、土星で火のグランドトラインというアスペクトを形成。五感で感じることを大切に地に足をつけて暮らされている。

最近の代表の俳句誌からのメッセージに以下の内容がある(一部抜粋)

何の感慨も湧かず、人に伝えたいとも思わないならば、ただ目にとまったものを「俳句」という五七五の定型と季語の枠で切り取ってみる。
心を虚しくして切り取ったとき、それが自分自身へのメッセージであることに気づかされることも少なくない。

太陽牡牛の五感で花の豊かさを味わい、3室牡牛座水星で感じたことを表現することで牡牛座太陽を輝かせていけるが月乙女の働きはそれを阻害するのである。その月星座を意識できたことで、句会で月星座は働くが、月星座が重たく鎮座するということはめっきり減り、楽になってきた。

代表が上述のメッセージで語られているように俯瞰した姿勢、直感が働きやすい状態になればなるほど必然的な力が働きやすい。
計らいが少ない自分で出会えば、出合った鳥、花、人からのメッセージを受け取っていける。

俳句をはじめたばかりの頃に「俳句、創ってよかった」柴田雅子著という本を繰り返し読んだ。
中学生の俳句の授業の風景を通してだんだんと俳句に親しみを覚えていく生徒たちの心情の変化などが実際の生徒の作品も含めて書かれている。

https://www.editor.co.jp/press/ISBN/ISBN4-88888-228-2.htm


授業を受けた一人の生徒が卒業後に著者に俳句の授業のお礼のハガキを送った。

その最後に次のような俳句が添えてあった。
私は俳句を創ることに何か嫌気を感じたときにこの本をめくり、この句を改めて味わっている。俳句をはじめたばかりの自分の姿が蘇ってくる。

「落ちた春水に浮かべて初桜」

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